古羽黒館(常陸太田市小中町)36.7443、140.4775
2025年に公表された赤色図に城と思われる異様な模様が写っていた。
それは間違いなく城だった。
それもかなり大きい。
南北約350m、東西約200m、複数の曲輪を持ち、南北に城があり、両者は回廊状の尾根で繋がっている。曲輪数は少なくとも30はある。
北側の遺構がが大きく、標高も高いのでそこが本城、南の城が出城と言えるだろう。
規模としては里美地区最大であろう。
里美の谷、西側の山、ハイキングコースになっている鍋足(なべあし)山(529m)から東に派生した尾根が一段高くなった場所、通称「古羽黒」399mが城の本郭Tである。
城のある山の北側と東側は崖、南側は深い谷、南東側のみが尾根で大石地区に通じる。
↑東側から見た古羽黒館、中央の杉林の山。左が鍋足山である。
崖や浸食で深い谷で囲まれた尾根上を平坦化して曲輪を造りだしているため、かなりの工事量を投入しており、短期間では築けないであろう。
陣城等、短時間で構築した城ではなく、長期にわたり整備した結果、この規模になったのであろう。
しかし、遺構は堀切等を有するが、基本的には段郭主体であり、古い感じがする。
戦国後期の城とは思えない。
古羽黒という山の名前と羽黒社があった痕跡と思われる石祠があることから来ていると言われる。
鍋足山や古羽黒の周辺などは崖もあり、修験の場としてふさわしい地形ではあり、広い曲輪もあることから、元々は羽黒修験の修験道場であり、それが城郭化したものだろう。
(里川の東の山に小里富士山館があるが、ここは修験道場という伝承はあったが、城の伝承はないが、城郭遺構が見られている。)
なお、古羽黒は山頂にあった羽黒社は後に里川の東に移転したと言われ、このため、後世ここを古羽黒と呼んだのであろう。
現在、山頂の本郭に建つ石祠がその名残であり、周囲を土塁が囲んでおり、神社が建てられていたことを示す特徴的な形をしている。
しかし、ここには城の伝承はないようである。
そのため、城という認識がなかったのであろう。
ここへの行き方であるが、東下の林道からの道、これが参道であり、大手道と思われるがこの道を行くのが一番であろう。
この道、下の方は藪が酷いが、上がるに従い藪が少なくなり道が明瞭になる。
ただし、城直下はかなり急であり、這って登る必要がある。
大石地区から延びる鍋足山ハイキングコースを行くルートもあるが、この道は地元の高齢化で管理できなくなり、湿気の多い谷間の道であるため歩けないことはないが、藪化が酷い。
北の笹原地区からの鍋足山ハイキングコースを行き、鍋足山と古羽黒間の尾根鞍部に出て、東に向かうルートもある。
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C本郭T内部 小さな石祠がある。これが羽黒社があった証拠? 周囲は土塁で囲まれ、西側が若干高い。 南側に虎口があり、曲輪Uに下る通路がある。 右下は崖である。 |
さて、遺構であるが、標高399mの最高箇所の土塁で囲まれた東西約30m、南北約10mの本郭TCがあり、そこから西側鍋足山方面に延びる尾根に西尾根曲輪群が展開し、4つの小曲輪が高度差約40mにわたり展開する。
切岸の勾配は急であり、途中に堀切Dが、鍋足山に通じる尾根鞍部に2本の堀Eがある。
西尾根曲輪群は鍋足山方面からの攻撃に備えたものである。
| @大手曲輪群南端部、ここに大手道が繋がる。 | A3段になっている曲輪Uの2つ目の段の切岸。 | B本郭南直下、曲輪U内部。整地され平坦化されている。 |
| D西尾根曲輪群の堀切、深さは本郭側からは約6m。 | E西尾根曲輪群西下鞍部の堀切。 | F曲輪V内部 |
一方、南側には曲輪Uが3段にわたって展開する。
この曲輪は南北約70m、幅東西約15mの広さである。
この南側には参道を兼ねた大手道に沿って、大手曲輪群の曲輪が5つほど展開する。
大手道は曲輪群南端を東に曲がり、急坂を東に下る。
この道筋は比較的明瞭である。
曲輪UBからは南西下に曲輪VF、Wが約100mにわたり段々状に展開する。
曲輪の幅は約15mである。
曲輪Wの末端部下が虎口となり、南出城に通じる回廊状の尾根につながる。
谷間部は比較的勾配は緩く、通路状の帯曲輪があるが、一部は削りが新しい感じもあり、後世の作業道が含まれる可能性がある。
曲輪内部は杉林であるが、地面まで日が射さないことから藪はそれほどひどくはない。
曲輪Wから南東に派生する回廊状の尾根を約50m行くと、曲輪XGとなる。
ここの標高は361m、本郭より40mほど低い。
その南下が南出城である。
本城は北と東が崖であり防御を考慮する必要はなく、、西は峻険な鍋足山なので西尾根曲輪群で十分防御できる。
城のある山の最大の弱点は傾斜が比較的なだらかな南側である。敵が来るならこの方向からである。
その南側の防御を強化するために南出城が築かれたのであろう。
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H南出城(右)の北端、本城との仕切りとなる堀切。 深さは埋没により浅くなっているが、土橋があり、竪堀が下る。 |
この下、約13mに土橋付の堀切Hがあり、その南が南出城の主要部である。
この堀切は、かなり埋没しているが幅は約5m。
主郭である標高348mの曲輪YJから3方に尾根が張り出し、小曲輪が展開する。
主郭周辺の切岸は風化していて曖昧な感じであるが、南東側に深さ約6mの切岸があり、南に下る竪堀と2重堀切Iがある。
| G曲輪X内部、この南下の南出城が展開する。 | I南出城南端の2重堀切 | J南出城の主郭部、10×5m程度の小さい規模。 |
この2重堀切が南城の入り口と推定され、この先、緩い尾根が南東に延びていく。
この尾根筋が登城路の1つかと思ったが、尾根上には明瞭な道は確認できない。
(途中から横堀状の道は現れるが)あるいは途中から斜面を通っていた可能性もある。
この城では合戦があった可能性がある。
応永31年(1424)上杉禅秀の乱後、上杉禅秀に加担していた山入与義は戦いに敗れ、一族小田野自義の領していた小佐都(小里)を没収され、白川結城氏一族小峰三河守に与えられる。
しかし、室町幕府と鎌倉公方の抗争が再発、正長2年(1429)、鎌倉公方足利持氏が幕府方の山入祐義方の攻撃を指示する。
これを受けて永享5年(1433)公方方の大山義俊が小田野氏旧領の奪還を図り小里に侵攻、小里合戦が起こり、同日、起こった羽黒合戦で小野崎通信が戦死したという記録が残る。
ただし、戦った相手がよく分からない。里美村史は小田野氏の残党ではないかと推測している。白川結城氏は佐竹宗家と同様、鎌倉公方方として山入氏を攻撃しているので、白川結城氏を攻撃するのはおかしい。
(「里美村史」「佐竹一族の中世」)
この時の羽黒合戦の舞台がこの古羽黒と推定される。
羽黒という名前の地、この地区では、ここが一番妥当であろう。
小田野氏残党、または白川結城氏に修験者が協力して、あるいは修験者から接収してここの立て籠もった可能性があろう。
平地近くには戦えそうな城館はない。
精々、少し防御力のある居館レベルである。
一時的な合戦を目前に強固な築く余裕もあるとは思えない。
既存のものを利用するのが一番だろう。
それなら山深い修験道場ならうってつけだろう。
その時、堀切などを増設し、城郭化したのであろう。
城としてはここか、小里富士山館が一番堅固である。
小里合戦とは小里富士山館を巡る攻防戦、羽黒合戦とはここでの戦いなのであろう。
麓の羽黒神社の由緒では、平安末期、文治年間に佐竹秀義が鼎足山(鍋足山)に創建し、江戸時代前期、明暦元年(1655)に富士山(小里富士山?)に移し、現在地には文化9年(1812)に移転したとしている。
どうやら江戸時代の始めまでここにあったようである。
白川結城氏が里美から撤退(そもそも実効支配していたのかも疑問であるが)後、佐竹氏が山入の乱で弱体化した機を狙い、この地は岩城氏が占領する。
文明17年(1485)頃である。
その後、佐竹氏が秋田に移るまで、ここは岩城領であった。
岩城氏時代の里美地方統治の城は小里城であったというが、統治用の城であり、戦いができる城ではない。
東側にある羽黒山城、盾の台館も規模が小さく、戦える城ではない。精々、一時避難所である。
この古羽黒館と小里富士山館が本来の非常時用の城として整備されていたのではないかと思われる。
その頃、修験者はいたのか?
修験道場として維持されていたのか?(しかし、そうであれば伝承が残りそうなものであるが・・)
古羽黒館は大勢の人数が収容できる広さがあるので、村の城として使われた可能性も否定できないが、そのような伝承も残っていないので違うかもしれない。
いずれにせよ。ここは長きに渡り忘れられていた城と言えるだろう。