高貫箕輪砦(常陸太田市高貫町)36.5627、140.5672
管理人がこの城の存在を知ったのは2016年、麓に住む方からの情報だった。
しかし、詳細な場所や行き方も分からずずうっとほっておいた。

でも時は経ち、2025年赤色図が公開され、その位置が分かった。
さらにここにトライした城仲間からの情報で行くルートも把握できた。


長谷密蔵院付近から見た北東に見える城址がある山 →

もっとも行き方であるが、これが悩みどころ。
南の高貫町の北端から高貫林道を進み、途中から北西方向に歩けば、簡単なのだそうだ。
しかし、高貫林道は車が乗り入れられない。

理由はこの林道沿いが地質学的に重要な場所であり、カンブリア紀の地層があったりしてそれを保護するためだそうだ。
でも歩いては行ける。
しかし、歩くとそれほどの急勾配な所はないのだが非常に長距離である。
直線距離で約1.4q、歩けば3qくらいはあるだろう。

かくなる上は最短ルートを選択、果たしてこれが良かったかは何ともいえない。
このルートなら水平距離で約300mに過ぎない。
西下の茂宮川の渓谷からの直登である。
比高は約170m、しかし、問題は比高じゃない。斜面の勾配である。

登った斜面、家で検証したら、水平距離180mに対して比高が110m、斜度32度である。
これはスキーのジャンプ台の勾配に匹敵する。
しかも、道なんかない。さらに植林のため木が切られているため野ばらと棘のある木が密集、ズボンが裂けた!
そして木に掴まりながらの登攀である。
何とか比較的緩やかな尾根上に出たら、今度は巨岩が林立、その間をよじ登る。怖いのなんの。
まともな人はこのルートは止めておいた方が良い。
・・で漸く城址付近に。

そこは幅15mほどの広く緩やかな尾根、やっと最高箇所標高248.7のピークU@に出る。
ピークと言っても、そこは曲輪ではない。
そこから扇状に緩い斜面が東側に展開しているだけである。

その西端部に堀切があるというので向かう。
尾根は下りとなり、堀切Aは鞍部にあるようだ。
「あった」幅は3〜4m、しかし埋没が進み深さは1mしかない。
でも斜面部は竪堀になって南北に下る。
ここの標高は243.7m、本郭側には低い土塁もある。

そして堀切の西側は再度登りとなり平場に。
ここが主郭TBである。
直径15mほど。内部は整地された感じではない。
標高は247.1m東側以外急勾配である。

ここからは茂宮川下流方向、常陸太田方向が一望である。
木があって分からないが田渡城も見えると思われる。

@東側のピークU、ここは城域ではないだろう。 A唯一明瞭な遺構、鞍部にある堀切。これだけである。 B西端の平場T、ここが主郭ということになる。

さて、この城、といっても堀切1本のみの物見台程度のものに過ぎない。歴史は不明である。
しかし、ここの字名が城郭地名である「箕輪」である。
それが城の存在を伝えている。

誰が運用したのかも分からない。
住民の避難城にしては高貫地区からは遠いし、長谷地区からは高過ぎる。
岩場もあり、西側はかなり険しいので修験の寺院でもあった南下長谷地区にあった長谷密蔵院の修験道場兼非常時の物見の可能性もあろう。
里美の小里富士山館とも似た立地と性格を感じる。

高貫古道(常陸太田市高貫町)

高貫古道は常陸太田市の日立市よりの東部、高貫町の人が住む台地南側平坦地エリアの北端36.5512、140.5639から山に入り、日立市の高鈴ゴルフ場方面に向かう山道である。
道はほぼ、稜線上を通っている。

この古道に並行して東下を流れる高貫川に沿って高貫林道が通る。
しかし、林道はゲートで閉鎖されてしまっている。
山上を通る古道の途中を北西に入ると高貫箕輪砦に行くことができる。

道は比較的最近、昭和30年代までは薪取りなどで使われていたようで、道筋ははっきりしている。
現在はハイキングで人が歩く程度であるが、マウンテンバイクで古道を走る者もいる。

この古道の特徴は、横堀状の道がかなりの部分を占め、場所によっては、城の堀のように複雑に分岐したりする場所もいくつかある。

入口部の標高は94m、きついのは500mほどの所にある七曲山36.5537、140.5670、標高209mまでの比高115mまである。
そこから先は比高が約30m程度高くなる程度のアップダウンが続くだけである。

横堀状の道はかなり深いが、この山奥に砂鉄吹場(鑪場)があった。
原料の砂鉄を高萩方面から牛で運び、さらに製品を現在の常陸太田駅付近にあった「鋳銭座」まで運んだという。
ここでは銅が不足したため、鉄で銭を鋳造していたのである。
その砂鉄吹場はかなり山奥、高鈴ゴルフクラブの南約1q、36.5711、140.5806の高貫川源流に近い山の中腹にあったという。

この施設は江戸時代、水戸藩が運営し、明和5年(1768)から安永6年(1777)まで稼働していたので砂鉄吹場も同時期に稼働していたと思われる。
この山奥にあったのは海側から砂鉄を運搬する経路上にあり、燃料の薪を確保するためであろう。

↑ 西側の長谷地区から見た七曲り山、高貫箕輪砦方面、写真の山の稜線上を古道が通る。
@七曲山までの堀底道。ここが一番きつい。 A七曲山(209)の山頂部は広く平坦。避難場所には最高。 B七曲山山頂にある。祠と配石。江戸時代の「富士講」
に関わるものだそうである。
C七曲山北では道は山稜を通り土橋状になる。 D更に北では両側に沢が入り、堀切に架かる土橋のような道。 Eここは山を縦横に堀状の道が走り、城のようである。
F更に北は山稜の平坦地を道が通る。
右下には横堀状の古道(旧道)が通る。
G高貫箕輪砦の東側では古道は完全に横堀となる。
城内を撮ったと言っても分からないだろう。
Hさらに北東に進むと広い平坦地が広がる。
砂鉄吹場はまだまだこの先である。


長谷密蔵院(常陸太田市長谷町)36.5548、140.5579
修験道天台宗本山派の寺院であり、蒔田山長谷寺が正式号名、本尊は十一面観音で本山派二十七先達の一つであったが、現在は廃絶となっている。
創建は不詳であるが、佐竹義舜の子、永義が今宮氏を名乗り、修験者を統率し、その中に長谷密蔵院の名も見えるため、1500年代前半には既に寺が存在していたようである。
小野崎通郷の二男頼裕が長谷別当としてる初代となったという。
吉清貞享元年(1684)、聖護院門跡から「直参大先達」と認められる。

@長谷神社の鳥居。この付近に寺があった。 A長谷神社の拝殿 B神社の裏、西側の山に建物があったようであり、段差が残る。

長谷神社の東下の鳥居付近@Cに寺があった。そこには池DEが残る。
修験に関わり長谷神社Aと一体のものであり、神社付近一帯が境内だったようである。
さらに西側の山の上方面にも広がっていたようであり、建物が建っていた土台の段差Bがある。

修験の寺院であるが、修験者は軍事関係者であり武装寺院であったため、佐竹氏の軍事力の一端を担い、密蔵院の修験者も寺山城に駐屯していたと思われる。
長谷密蔵院は幡台地の東側に位置するが、西側には田渡城があり、台地を横断すれば搦手から城に通じる。
したがって、田渡城の守備を長谷密蔵院の修験者が担っていた可能性がある。

C鳥居北側、ここが本堂跡らしい。 D鳥居脇にある池は庭園跡のものだろう。 E Dの池の隣にもう一つ池がある。

寛文3年(1663)の開基帳(彰考館蔵)が残り、山伏の部に寺の開基は不明であるが、本山派聖護院末で、日光免八石余、日光免見捨地七斗余、屋敷見捨地四石余を有したと書かれる。
「新編常陸国誌」によると長谷寺を相続して朱印地六五石を所持し、観音別当や大宮明神別当を兼ね、大先達を称したと書かれる。

住職を務めた小野崎家には多くの文書が残り、京都の聖護院より山伏大先達28人の一員となったが、この補任は徳川光圀が求めて実現させたものという。
この時、光圀は久慈・多賀・那珂三郡の支配を密蔵院に対して命じている。
そのほか聖護院の法眼秀孝・秀賀が久慈郡川合村主計坊教秀に宛てた僧都御免之事、密蔵院朱印状書上などの史料が残る。
天保14年(1843)の記録では水戸藩内に修験者は272人おり、そのうち長谷密蔵院の配下は100人いたという。
江戸時代初期、多くの寺社が光圀により潰されたが、ここは何もなかったようである。
それどころか、水戸藩内最大の修験者の場になっており、繁栄していたのである。

金沢金山(常陸太田市大森町/日立市金沢町)
佐竹氏が開発したと言われる金山である。
場所は日立市南部、TV塔が建つ風神山の北側一帯である。
風神山から真弓神社方面にハイキングコースが延びているがそのコース沿いにポツポツと金山跡がある。
金沢(かねさわ)という地名自体、金そのものずばりの地名である。
昔から砂金等が採れたからこの名前になったのであろう。
金沢金山といっても坑道はいくつもあり、それらの総称である。

日立市金沢町が中心であるが、西側の常陸太田市大森町にまたがる。
その金沢金山の跡、この山系を通る大森林道沿いに2か所ある。
この大森林道に入るのが一番なのだが、どこから入るのかよく分からない。
それなのでハイキングコースを行くことにする。

常磐自動車道日立トンネルの南側の入り口近く36.5322、140.5915,標高96mからハイキングコースが延び、ここを約700m進むと、大森林道の終点に合流する。
その合流点の下側が露天掘り跡である。
位置は36.5317、140.5962、ここの標高は194mである。
露天掘り跡といっても斜面が抉れ、岩が露出し、ズリの山があるだけである。
一見、なんだかさっぱり分からない。
その採掘場の上側に平場があり、その付近に管理小屋や選鉱場があったようで金鉱石が転がっていた。

金沢金山の露天掘り跡。爆弾の落ちた穴みたい 露天掘り跡の上の平場に転がっていた金鉱石 こっちは坑道跡、中は真っ暗、不気味である。

林道を数百m北上すると、風神山から真弓神社方面にハイキングコースと林道が並走するが、その地点から少し沢側に降りた山の斜面に坑道が開く。
位置は36.5361、140.5965、ここの標高は217mである。
中は真っ暗、かなり不気味である。

坑道のある上の尾根にはハイキングコースが通るが、その付近、比較的広く平坦である。
そこに管理小屋や選鉱場があったのではないかと思われる。

これらの金山、佐竹氏が開発したものだが、発見は真弓神社に係る修験者ではなかったかと思う。
修験者は鉱山技術者であったとも言われる。
開発は武田氏滅亡後、常陸に亡命した甲斐の鉱山技術者ともいう。
誰が管理していたのかは分からない。

おそらく直轄で旗本が管理人だったとは思うが・・。
瀬谷館http://yaminabe36.tuzigiri.com/ibaraki_kita/sirawa.htmが金山管理の館であったらしく、館主の人見筑後守という人物が管理人の一人だったようだが、何人かの武家が関わっていたのであろう。
多分、それらの特殊技能者が秋田に移り、銅山開発に係ったのであろう。
記録がないのは金山技術がトップシークレットであるので記録が作られていないのであろう。
佐竹氏が秋田に去った後は金はほとんど採掘できていないが、主要な技術者がごっそりいなくなったからだろう。
末端の鉱夫は残ったかもしれないが、末端技術者では操業継続には限界があっただろう。

陣入金山(常陸太田市西河内下町)
常陸太田市街から里川を北上すると赤レンガの町屋変電所で有名な町屋地区になる。
町屋地区から北西に谷が延びる。西河内(ごうと)の谷である。
この谷を抜けると東金砂神社に行ける。
一方、奥部には西河内館があり、ここにある集会所で映画「ディアドクター」のロケが行われた。
ここから南に行くと十国峠、そこからは大門や水府の町屋方面に行くことができる。

↑東側、赤レンガで有名な町屋変電所付近から見た金山のある山

この西河内の谷の入り口部南側のちょっと盛り上がった標高190mの山がある。
地元の人に聞いたが、山に名前はないそうである。
結構目立つ山なのだが・・・。
名前は分からないが字は「陣入」(じんのいり)となっている。
南東下の字が「富士山下」となっており、富士神社があるので、「富士山」というのではないかと思ったが、違うようだ。

この山に堀切があるとM氏から情報提供があった。
そこで突入。この山の西側の谷間に民家が2軒あるが既に廃屋、周囲の畑も既に自然に帰っている。
山自体も既に登る人もいないようで道の痕跡も途中でなくなっている。
そんな道なき山を登り、その堀切@を見つけた。↓

山頂から南東に下った尾根にあった。

確かに堀切だった。道が尾根を横切る切通かと思ったが、周囲に道の痕跡もなし。
切通ではない。しかし、堀切の前後にも何もなし。
比較的幅の広い尾根があるだけである。

A山頂北下にある大穴 B Aの穴の北側は尾根も削られ堀切のようになっていた。 C山頂からかなり北下に坑道跡が・・・

堀切の北の山頂側が段々状にはなってはいたが。
こんな堀切、どこかで見たことがある。
真弓町にある「中山堀」である。

あれは金山の鉱区境を示す境界堀じゃないかと推定した。
そして案の定、この山も尾根を山頂側に向かうと、山頂北側は穴ABだらけであった。
露店堀の跡のようである。
さらに北に下ると坑道跡Cらしい場所もあった。

坑道入口は土砂が堆積して塞がれているようだが。
後から聞いたところ、この山には金山伝承があるらしいとのことである。

あの堀切は「これより先は関係者以外の立入禁止」を示すものだったようである。
鉱区境を示すものか?
堀切の山頂側が段々になっていたが、作業小屋が建っていたのかもしれない。
この山の南に町屋金山がある。鉱脈がこの山まで延びているようである。