江上館(胎内市本郷町)
中条町の南部、旧潟湖に隣接する扇状地の扇端部にあり、JR羽越本線中条駅の約1qにあり、館跡の中心部が復元されている。
館のある場所は標高は約18mの微高地上であり、館は三浦和田氏の惣領家である中条氏の居館であり、館の周辺には家臣団屋敷や寺院などが存在していたという。
古い町中のごちゃごちゃした場所にあり行きにくい。周囲は住宅地である。
さいわいよく知られており、カーナビでも名所に登録されている場合が多いので、ナビに案内してもらえば問題はない。

江上館は3つの曲輪からなっているが、馬出状の北郭、南郭は戦国時代に拡張したものであり、堀を入れて約200m四方の広さの主郭が元々の部分である。

土塁が非常に重厚であり、基部幅約10m、高さ約3mの規模を持つ。
主郭内の平坦部分は約60m四方と狭い。
おそらく、築館当初は堀はもう少し狭かったかもしれない。

典型的な方形居館と言える。
館跡からは日本海沿岸貿易でもたらされた青磁等の高級陶磁器が多く発掘されている。

平地城館であり、攻撃されれば弱く、戦国時代たけなわの15世紀末、館主中条氏は本拠を鳥坂城に移し、本館は廃されたという。
館の周辺からは家臣団の屋敷跡や寺院跡が発掘されている。
@本郭南東端部の土塁と掘 A本郭南の掘、橋を渡った先が南郭 B本郭内部は公園化されている。

館主の中条氏は三浦系和田一族である。
鎌倉時代の初期、和田義盛の一族である和田義茂が奥山荘の地頭となったのがこの地との関わりの始まりである。
宝治3年(1247)、三浦氏は北条氏に滅ぼされ、北条氏側についた和田義茂は朝比奈義秀に討たれる。
しかし、その功績で奥山庄の地頭職は妻の津村尼に安堵され、のち3男の和田時茂が当主になる。
当時は奥さんの地位が高く、夫が亡くなり、子供が小さい場合等は奥さんに領地の安堵が行われたり、裁判の原告に奥さんがなり、堂々と対応することがあったという。
北条政子もそのような背景があったので、歴史で大きな存在として記録されるのだろう。

奥山荘の和田領は建治3年(1277)に領地は北条、中条、南条の3つに分割される。
中条を相続した系統は中条氏を称し、江上館を本拠にする。この系統が惣領家である。

この江上館、この時の築城か、もっと前から存在していたのかは分からない。
北条を称した庶子は、越後黒川氏を名乗り、戦国時代には黒川清実を輩出し、一部は、会津に移り、黒川城を築城し会津黒川氏となる。
南条を領した一族は南条とは称さなく、関沢を称する。
さらに築地氏、長橋氏、羽黒氏、高野氏、金山氏などの庶子家派生させており、惣領制的支配を展開させる。

戦国時代前期、応永33年(1426)、中条房資は揚北衆と一緒に、越後守護代長尾邦景の配下である三条城主・山吉氏を攻撃する。
このとき、揚北衆の加地氏、新発田氏らは守護代方に寝返り中条房資を攻撃、長尾定景、長尾実景が山吉氏の援軍として築地に着陣すると、中条房資は居館を引き払って河間城にて籠城している。
さすがに平地城館の江上館では籠城は難しいであろう。
この時、山城の鳥坂城があったが使っていないようである。
鳥坂城を本拠にしたのはその後らしい。
その後、出土物が15世紀末のもので途絶えることから、それ以後、江上館は使われていないようである。

中条氏はその後、上杉謙信に従い、中条藤資は上杉家の家臣で筆頭となる。
上杉謙信の急死により御館の乱が勃発すると、中条景泰は上杉景勝に味方して、上杉景虎(北条三郎)についた黒川氏から攻撃を受け、本拠の鳥坂城は失うが、乱は景勝勢が勝利し、回復。
その後、中条景資、中条景泰は上杉景勝の家臣となるが、越中・魚津城の戦いで落城し中条景泰は切腹する。
名跡は中条三盛が継ぎ、鳥坂城に入るが、幼少のため家老築地資豊が後見する。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津移封となると、鳥坂城は廃城となり、中条三盛は出羽鮎貝城主となり10000石と家臣分3300石を知行し、関ヶ原の戦いでは、最上攻めに出陣し、水原親憲らと共に戦う。
江戸時代は米沢藩士として侍頭や執権、奉行などの重職を担う。
(「甲信越の名城を歩く」新潟編を参考にした。)

古舘館(胎内市一二天)
三浦和田氏系黒川氏の分流、高野氏の居館である。
JR羽越本線平木田駅の西約2.5qの水田地帯の中にある常光寺がその地である。

曲輪内は東西108〜120m、南北56〜72mの広さ、
土塁の高さは2.5〜3.8m、基部幅が9〜11mに達し、ほぼ全周を巡る。
堀幅は8〜20m、北側、東側が残り、西側も一部残存する。

曲輪は東側が少し小さく、この部分は拡張し、もともとの曲輪だった部分とつなげたものらしい。
もともとの曲輪の大きさは約60m四方と推定される。
虎口は南側にあったらしい。
また、隠滅しているが、南側に南郭という馬出状の曲輪があった。

発掘の結果、青磁器等の高級陶磁器が多数検出されている。
15世紀後半が館の最盛期だったようであり、拡張され、土塁が構築されたのはこの時期らしい。
16世紀中ごろに廃館刊になったようである。
(「甲信越の名城を歩く」新潟編を参考にした。)
@館跡北側の掘跡は水田となって残る。 A館跡東側の掘跡もきれいに残る。
B曲輪内、東郭部分内部と南側の土塁 C北側の土塁