新発田重家の乱に関わる城(浦城、五十公野城、新発田城、笹岡城)

6年間も続いた御館の乱後の越後をさらに混乱状態にした反乱である。
こんな長く続いた要因は

〇当事者、新発田重家の軍事能力が優れていたこと。
〇対する上杉景勝が上杉家を取り巻く情勢が厳しく鎮圧に動きにくかったこと。
〇反乱の地、揚北は湖沼が多く、要害の地であり、攻めにくい場所であったこと。
〇葦名、伊達氏等、近隣の戦国大名が新発田重家を支援していたこと。
〇仲介者の豊臣秀吉の対応が和議を薦めたり討伐を指示したりブレていたこと。
等、多くの要因が絡み合っていたことによる。

でも、根本原因は上杉景勝と直江兼続がケチったことが最大要因だろう。それと重家さんの怨念の強さか?
ケチったことで、とんでもない男を怒らし、敵に回した訳だ。
こういうことって、現在でもあり得ることである。
やはり、ケチったり、えこひいきするとロクなことがない。
人によっては恨みを蓄積し、倍返ししてくることもあるということだ。
和議を結ぶ機会もあったのだが、それを蹴る執念も凄い。

そういうこともあるけど、元々、上杉景勝と新発田重家、全く波長が合わない人間同士だったのかもしれない。
おそらく、徳川家康と真田昌幸の関係も同じなのかもしれない。

当事者、新発田重家は揚北衆佐々木党の一人(加地氏庶流)である。
重家は五十公野(いじみの)家を継ぎ、で五十公野 治長(いじみの はるなが)と名乗っていた。
上杉謙信に仕え、永禄4年の第四次、川中島合戦では武田方の武将諸角虎定を討ち取ったり、関東出兵などに従軍している。
謙信の死後に起きた御館の乱では上杉景勝を支持し、景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏と伊達輝宗の兵を退けるなどの活躍をした。
天正8年(1580)、兄の死により新発田家に戻り、家督を相続し、新発田重家と名乗った。
(五十公野氏は重家の義弟(妹の夫)にあたる五十公野信宗が継ぐ。)

御館の乱での活躍での恩賞を期待した重家であったが、恩賞のほとんどは、景勝の直臣である上田衆の手に渡り、新発田氏への恩賞はほとんどなかった。不満が募る。
この状況をみた蘆名盛隆と伊達輝宗は、重家に反乱工作を仕掛ける。

そして天正9年(1581)6月16日、重家は一門衆のほか、加地秀綱、上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れ反乱を起こす。
新潟津を奪い、新潟城を築城する。
上杉景勝は本庄繁長、色部長真(重家の義弟)に重家の抑えを命じるが、軍事的行動は起こさなかった。
これは越中で柴田勝家が攻勢をかけ、景勝に対応する余力がなかったからである。

天正10年(1582)2月、景勝は始めて重家を攻めるが敗北。蘆名盛隆は津川城主金上盛備に重家を援護させる。
景勝は越中方面から柴田勝家、信濃から森長可が関東から滝川一益らの侵攻に備えるため、対応はできなかった。
6月2日、本能寺の変で信長が死に、織田軍は撤退し、当面の危機は去るが、天正壬午の乱で信濃に侵攻し、北条氏直と対陣していたため、重家との戦は無かった。

天正11年(1583)景勝は4月と8月に攻撃するが、8月の出陣の際には、豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙を突いた新発田勢に攻撃され、大敗北を喫する(放生橋の戦い)。
天正12年(1584)8月、景勝は水原城奪還のため出陣し八幡表の戦いで新発田勢を破るが、直江兼続の陣が新発田勢の反撃を受けて崩壊し大損害を蒙り、水原城も奪還される。
しかし、新発田重家を支援していた葦名家では10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害され、混乱状態となり、天正13年(1585)5月、伊達輝宗から家督を譲られた伊達政宗が蘆名対立するようになり、伊達氏の新発田重家支援方針が放棄される。
こうして伊達・蘆名両家による重家の支援体制は崩壊する。
11月20日に新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略で上杉方の手に落ち、新発田方は新潟港からの物資輸送が困難になる。

天正14年(1586)、景勝は羽柴秀吉に臣従。
新発田攻めに集中するが、決着をつけることは出来なかった。
しかし、新発田方では兵糧が欠乏し、配下の討死や寝返りなどもあり、徐々に戦力が低下していった。
天正15年(1587)夏、景勝は1万余の大軍をもって新発田城を包囲、周囲の諸城は上杉勢に次々攻略され、9月19日、葦名氏側からの補給基地である赤谷城が攻略された事により補給路は完全に寸断され、新発田城は義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、孤立した。
景勝は降伏勧告の使者を新発田城に送ったが、重家は拒否、
このため、景勝は先ずは五十公野城を攻撃し、10月13日落城させる。
10月25日、景勝勢に包囲された新発田城内で重家は最期の宴を催し、城から打って出て戦いの末、自刃し、29日には最後まで抵抗を続けた池ノ端城も陥落し、乱は終結した。
(Wikipediaを参考)

その新発田重家の本城、現在の新発田城と思っている人が多いようだが、戦国時代の新発田城はあそこではない。
現在の新発田城のある場所に戦国時代には平地居館程度のものは存在していたらしいが、それをベースに江戸時代になって本格的に整備された近世城郭である。
←浦城、雨のため、攻略できず。
戦国新発田城はそこから南に約4qの所にある「浦城」こそがその城である。
その浦城、手前まで行った。
しかし、折りから雨が強くなり、攻城は諦めざるを得なかった。
何しろ、ここは山城である。残念!

五十公野城(新発田市五十公野)
新発田重家の乱に登場する新発田氏の重要拠点、五十公野城は、JR羽越本線新発田駅の南東約3qにあり市立東中学の裏山である。
ここに行くには南下にある来迎院の駐車場をお借りし、千住寺と安楽寺の間の道を北に進む。
道は山に入り、登りとなり、城の東側の堀切に出られる。
中学校は城の西半分を削って建設しているのである。
位置は37.9281、139.3535。

残存している曲輪は東半分の100m×50m程度の範囲である。
そこが主郭らしくここに城址碑が建つ。


↑南側の来迎院から見た城址、比高約25m。丘と言った感じである。

堀切部を入れても残存している部分は全長約150mに過ぎない。
ここの標高は45m、比高は25mほどに過ぎない。
北と南下に腰曲輪がある。
東側に三重または四重堀切がある。
堀切は竪堀となって山裾部まで下って行く。

この掘切の先は東の山に続いて行くが、その方面には遺構はなかった。
城址には遊歩道が通り、遺構は一部、破壊されている。
湮滅した部分を入れても全長300m程度の規模であり、小さい。
とても戦闘に耐えれるような感じはないが、北側に升潟山城があり、連携して防御していたという。

@堀切なのだが、藪で分からん! A主郭部入口には土塁がある。 B主郭に建つ城址碑

新発田重家が若い頃、継いでいた家が五十公野家であり、一時、彼もここにいたのであろう。
重家が主家を継ぐと義弟、信宗が継ぎ、重家を支えたが天正15年、運命を共にした。

新発田城
新発田城はJR羽越本線新発田駅の北東約1qにある平城である。
大部分は陸上自衛隊新発田駐屯地になっているが、水堀に面した東西約500mの範囲が残存している。

築城時期は不明だが、鎌倉幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。
戦国時代は新発田氏一族または家臣の館があったようである。
当時は一般的な方形居館だったらしい。
新発田重家とはほとんど関係はなかったと思われる。

この付近、下越では一番有名な城なのだが、管理人、近世城郭にはさほど興味はない。
でも、近くを通ったのでちと場違いかもしれないけど、掲載しておきます。

再建された御三階櫓、実質的な天守である。
屋根の3匹の鯱が特徴である。
重文の旧二の丸隅櫓、本丸に移築されている。 国重文の本丸表門、右に再建された辰巳櫓が見える。

新発田氏滅亡後は上杉氏の家臣がいたようだが、上杉氏の会津転封に伴い、慶長2年(1597)、溝口秀勝が6万石で入り、近世城郭に整備する。
最終形になったのは承応3年(1654)という。
寛文8年(1668)、享保4年(1719)火災で大きな被害を受けるが、その度に再建されている。

明治維新後、歩兵第8大隊の第2中隊が新発田城に入る。
この部隊は明治17年(1884)歩兵第16連隊に拡充し、戦後は陸上自衛隊の駐屯地に引き継がれる。
自衛隊の駐屯地の中にも土塁が残っているが、多くの隊員がいる中でカメラを向けるのはちょっと遠慮がある。
江戸時代の建物は旧二の丸隅櫓と本丸表門程度しか残っていない。いずれも国の重文に指定されている。
平成16年(2004)三階櫓と辰巳櫓が木造復元され、辰巳櫓のみ同年7月から一般公開されている。

笹岡城(阿賀野市笹岡)
武田信玄を2度にわたり破った村上義清の子、山浦国清が一時いた城である。
村上義清と聞くと、信州人である管理人、つい、注目してしまうのである。
村上義清は武田信玄に追われて越後へ落ち延び、長尾景虎(上杉謙信)に仕え、子の国清は謙信の養女を娶り、断絶していた山浦上杉家を復興してあと継ぐ。
居城にしたのが、笹岡城である。
謙信死後は上杉景勝に仕え、「御館の乱」の功績により、景勝から一字拝領して景国と名乗る。

西から見た雨に陰る城址の丘、水田地帯は潟の跡、当時は湖に浮かぶ島のようだったと思われる。

築城は南北朝時代、貞和年間(1345〜1350)、篠岡中将丞資尚(笹岡資尚)によるとされる。
応永30年(1423)から応永33年(1426)にかけて越後国守護職上杉頼方と守護代長尾邦景が対立し、越後国の国人領主間を二分した越後応永の大乱が起こり、中条郷の領主、中条房資は上杉方に属し笹岡城も戦場となる。
戦国時代後期に山浦景国が城主となるが、御館の乱で上杉景勝方で功績を挙げた今井国広が上郷城より移り、城主となる。

新発田重家の乱では、景勝方の新発田城攻撃の前線基地とされたため、重家の目の敵にされ、何度も攻撃を受ける。
そして天正13年(1585)、新発田因幡守治長の攻撃で落城し、そのまま廃城となった。


@本郭内部は児童公園になっているが・・・誰もいない。

A二郭は細長い。東側と南側を鍵型に土塁が覆う。

比高約30mの丘に築かれた平山城で全長365m、幅130m、最高箇所の本郭を中心に二郭、三郭、北郭、南郭という主要な郭の他、小曲輪構成されているが、非常にコンパクトにまとまっている。
当時は笹岡城の周辺は福島潟であり、潟の中に浮かんだ島のようだったらしい。
本郭の土塁にある「十郎杉」Dはその昔、城の連絡船「十郎丸」を繋いでいたとか、望楼の役目をしていたなどとも伝わる大杉で推定樹齢450年以上、樹高約24m、幹周約6.2m、昭和47年(1972)に阿賀野市指定天然記念物に指定されている。
(今は大きいけど、樹齢からすると城が機能していたころは木は小さいんじゃないか?望楼の役目は果たせるのか?)

B本郭の西下の曲輪は諏訪神社になっている。 C本郭北下の横堀。右側が北郭。 D本郭の西側にある十郎杉。物見?とは言うが・・

本郭@は60×40mの広さで南側に物見台がある。
内部は児童公園である。
本来は土塁が覆っていたのではないかと思われる。
物見台の南には細長い二郭Aがあり、堀切を介し、三郭、四郭が並ぶ。
一方、本郭の北側は鋭い切岸となり、堀を介し、北郭が位置する。
本郭の西下には諏訪神社B、鑑洞寺が建つがここも曲輪である。