雨引城(長野県栄村大字堺)36.9510、138.5197
栄村にある名城、仙当城、ここは熊が出没するような山城と言われる。
しかし、それよりはるか深い山の中に城がある。
それが雨引城である。

仙当城からは南西約2.5qの奥地である。
信州の城、時々、かなりの山奥にあるものがある。
そのような城、まず近くを街道が通っていることが多い。
現在ほとんど自然に帰ったような道がかつては重要な街道であった場合にその近くに街道を抑える城が築かれる。
この雨引城もそんな性格の城と言えるだろう。

仙当城の西下を流れる二の入沢に沿った林道をそのまま進むと1.5qほど行くと目の前に田畑が広がる。
思わず目を奪われる驚く世界である。
その場所(36.9547、138.5335)の標高は503m、仙当城の主郭が450mくらいなので50mも標高が高い場所である。

↑登り口から見た南西側に見える城がある雨引山。
そこから南西に見える山を地元で雨引山と言っている。
標高は752m、そこが城址なのである。
登頂開始場所から山頂までは水平距離で約1q、比高は約250mである。
雨引山という名の山は各地にある。この付近だと高山村と須坂市の境にもある。
そこも城跡である。茨城にも雨引城がある。
城がある山を雨引山と呼ばれるのは何か必然的なものがあるように感じる。

山頂まで道などない。(どこかにある可能性もある。)ひたすら尾根を登って行くしかない。
やはり踏み跡のない尾根は灌木や倒木があって厳しい。この山、途中から尾根に山椿が密集する。
しかもここは雪国、積もった雪の重さで枝が上に延びていない。斜面下部に向かっているのだ。
つまり、登る方角とかち合わせなのだ。これは逆茂木である。
その逆茂木地獄を乗り越えて行く、果てしない苦行の道である。
ようやくそこを突破した場所が城域なのだ。
始めのお目にかかる遺構はでの所要時間、1.5時間。

外郭部

HWとXの境にある堀切北側の曲輪と竪堀 IWとXの境にある堀切から南に竪堀が下る。
JXの北側斜面の勾配は緩く帯曲輪のような平場がある。 K城の東端下の畝状竪堀群

水平距離からすればけっこうな時間である。
ほぼ、山椿との格闘時間と言えるだろう。
ちゃんとした道があったら30〜40分で着くだろう。

その始めに出会う遺構が何と畝状竪堀群Kである。ここからが外郭部である。
堀は4本くらいか。
そこから尾根が一気に約10m高くなる。

切岸のようになった場所(36.9520、138.5236、標高657m)の下にそれがある。
この北東に延びる尾根からの敵の侵入を想定したものである。
しかし、ここから主郭はまだまだ遠い。
ここの南東約600m、比高で約100mの場所にある。

そこを登るとさらに登りが続き、約50m四方の比較的平坦で広い場所X(36.9517、138.5228、標高690m)に出る。
ここから南西に緩い登りの幅約15mの尾根が約60m続くJが、明瞭な城郭遺構はない。
そしてその緩い尾根の末端に堀切Iがある。(36.9517、138.5219,標高700m)この堀切の西側は竪堀が分岐するような構造Hになっている。

ここを過ぎるとWであるが、ここは緩斜面である。
そして堀切@が見えて来る。ここからが主郭部である。

主郭部

堀切@は横堀状であり、長さは約40m南北は竪堀となる。
ここの標高は737m、主郭側から傾斜している。
そこから50mほど登ると堀切Aである。この間がVである。
堀切Aを越えると馬出Uである。

内部は傾斜しており、20m×40mほどの広さ。
堀切Aは東側で2つに分岐Bする。
主郭に入る坂虎口Cがあり、その両側に堀DとEがある。
主郭は坂虎口の両側に土塁を持ち、土塁は北側にかけて半周するが、それほど高くはない。精々1mである。

西側にも坂虎口があり、西側斜面を竪堀が2本下るが、それほど大きなものではない。
主郭内部は平坦ではなく、緩やか傾斜する。
広さは約径60m、標高は最高地点で752mである。

面白いのは土塁や掘は北側半分に存在するが、南側は自然の山状態であり、遺構はない。
南側は一度高度が下がり、再度登りとなる。
南側から攻撃されることを想定していないのである。

@主郭部入口の堀切は横堀状であり北側は堀が屈曲する。 A2本目の堀切も横堀状である。ここから(左)が馬出U。 B2本目の堀切は南投側で2つに分岐する。
C馬出Uから見た本郭Tの坂虎口。両側に堀D、Eがある。 D本郭坂虎口北側の堀 E本郭坂虎口南側の堀は竪堀となる。
F本郭内部から坂虎口を見る。両側に土塁がある。 G本郭内部は緩斜面である。

以上がこの城の概要であるが、造りは大雑把で南側が無警戒であり、陣城等の臨時的な城と言えよう。
主郭部から北東に延び、東にカーブしていく尾根は傾斜が緩くこの尾根ルートで敵が侵攻しやすい。
そのため、この尾根に防衛遺構が存在するのだろう。

想定する敵は北側である。背後、南側は無防備であるが、この方面は山が深く、背後に迂回するのは至難の業である。無視するのが合理的だろう。
したがって、北側に街道が通っておりそこを通る敵に対する城と思われる。

その街道は西の野沢温泉方面から東の仙当城方面に続いている。
さて、この城を誰がいつ頃築いたか?これは難題である。
仙当城方面から来る敵か?それとも野沢温泉方面から来る敵か?

ヒントと思われる遺構は畝状竪堀群である。
畝状竪堀群は上杉氏の城に比較的多く見られ、仙当城にもある。
それを考えると、上杉氏が仙当城の改修と同じ時期に造った可能性が想定される。
時期としては上杉氏の内乱、御館の乱で上杉景勝方が北信濃方面からのこの山ルートでの武田氏の介入による侵入に備えたものではないだろうか?

現在の栄村は市河氏の本拠であり領土であったが、戦国末期は市河氏は本拠を木島平に移しており、栄村は上杉氏が支配していたという。
御館の乱では上杉景勝方は津南町の今井城、赤沢城を千曲川ルートからの防衛拠点とし、仙当城も改修していたと思われる。
その前進城郭として構築したのが雨引城であったのではないだろうか?
武田勝頼が上杉景勝支援に回ったため、城の役目は終わったのであろう。

参考:らんまる攻城戦記
縄張図はらんまる氏作成図等を参考にした。