平瀬城((長野県松本市島内)36.2869、137.9480
松本駅から北約7q、国道19号線をJR篠ノ井線、犀川に沿って北上した安曇野市との境付近の東の山にある。
中央部に位置する本城と北側の北城、南側の南城の3城からなる複合城郭である。

↑西側の水田地帯から見た平瀬城。左が平瀬城本城、右の低い場所に南城がある。
撮影場所から城までの間に犀川、国道19号線、JR篠ノ井線がある。


真ん中の標高717mの山が本城である。
犀川の標高が555mなので比高は162mである。

国道19号線脇に平瀬城入口の標識があり、西下の下田地区で篠ノ井線の高架下を潜り、少し進むと駐車場がある。
そこに駐車して、後は犀乗沢に沿って東に遊歩道が延びているので、案内に従って進めば確実に本郭まで行ける。
途中、南城の登口の表示がある。

本城へ沢に沿った遊歩道の最奥部で、今度は北に登って行く。
すると、比較的緩やかな斜面部が南斜面にあり、その東西に段々の曲輪が展開する@。
ここが大手曲輪であろう。

ここを通過し、斜面を西側に登って行くと所々に曲輪が確認できる。
主郭部から南西下に延びる尾根の曲輪A群が確認でき、ここを北東側に登ると本郭である。

@南斜面の緩傾斜地、両側に腰曲輪が段々に構築される。 A 本郭直下付近南西尾根に展開する曲輪。 B 本郭は3段構造、結構広く綺麗に管理されている。

本郭内部は3段になっており、100m×30mの広さがある。内部は土塁や切岸で仕切られる。
内部は地元により綺麗に管理されている。
西側に向けて低くなっており、西端部Cからは安曇野、北アルプスが一望の下にあり、見事な景色が楽しめる。


↑ 本郭先端部から見た南西の梓川上流方向。この先を行けば上高地である。
 右側から張り出した尾根先端近くが西牧城

↑本郭から見た西に見える北アルプス常念岳、右側が大天井岳。常念岳下側の左から張り出した尾根先端部が岩原城。

本郭の東側部分Bは長さ55mと広い。
ここに山上居館や倉庫があったかもしれない。

本郭の東端から東下を見るとお馴染みの堀切Dがある。
深さは8mほどある。
しかし、堀底は藪である。

この堀切から先には約40mに渡り、5本ほどの堀Eが複雑に配置される。

C本郭先端部、ここからの眺めは抜群。 D本郭背後にはお馴染みの大堀切が。 E Dの堀切の先には堀切が連続する。

しかし、この付近は余り管理されていなく藪が酷い。
この堀切群を過ぎると二郭Fである。
一辺30m、20mの三角形をしている。ここも藪!。

この北側が堀切Gであるが、緩やかであり堀切という感じはなく、U字形の谷と言った感じである。
その北側の曲輪が本城の北端の曲輪であるが、土塁Hを持つ。

F二郭なのだが・・藪でさっぱり分からん! G二郭背後の堀切、緩やかで堀切という感じではない。 H Gの東側の曲輪は土塁が囲む。ここが城の東端。

その先に堀切があるが、埋没が激しく不明瞭である。
この先を進むと豊科CCの南西端部に出る。
そこから西に尾根が派生し、その尾根の先に北城がある。
そこは安曇野市となる。

平瀬南城(長野県松本市島内)36.2831、137.482
凄く綺麗に管理されている城である。
整備してくれている地元にまずは感謝である。

平瀬城に向かう途中に「南城」入口の標識があり、南沢を渡ると階段が山に延びる。
ところでこの階段@が怖い。南城で一番怖いのがこの階段である。
何しろ急なのである。立ったまま登れない。
この場合は這いつくばって登るのが一番である。でも降りる方がもっと怖い。
ちょっとバランスを崩したら、階段を踏み外したら滑落する。

階段の途中に平場があるが、これは曲輪らしい。
ともかく、この山の先端部の勾配の鋭さは凄い。
落ち葉など積もっていたら滑って滑落である。

尾根上に出ると一転いて緩やかである。
北端部の曲輪Aは細長く傾斜しており、曲輪として使ったかどうかは怪しい。
一面の笹薮で良く分からない。

その南側に堀切があり、段々状に曲輪Bが展開し、本郭となる。

@南城の入口、この階段が急で怖い。 Aようやく北側の尾根に出るが、ここは緩斜面、曲輪か? B本郭の北側には腰曲輪が連続する。

本郭Cは27m×16mの広さがあり、標高は672m、本城より約40m低い。
西側に低い土塁が巡り、東側は帯曲輪が横堀Dとなり、さらに竪堀となって下る。
この方面の東斜面は緩やかになり、下に帯曲輪Eが見られる。

C本郭内部、綺麗に管理されている。 D本郭東下には帯曲輪から横堀が北に延びる。 E本郭東斜面は比較的緩やかで腰曲輪が構築される。

本郭の南側は土塁と小さな堀切を介して、定番の大堀切Fである。
深さは5m、幅は10m以上はある。
東側は豪快に竪堀Gとなって下る。

さらにその南側には約50mの範囲で3本の堀切Hがあり、東下に竪堀となって下るが、末端ですべての竪堀が1本に合流する。
北端部から南端の堀切までは約200mの長さである。

F本郭南の大堀切 G Fの堀切は豪快な竪堀となって東斜面を下る。 H Fの堀切の南側にはさらに3本の堀切がある。

城主はこの地の土豪、平瀬氏である。
犬甘氏の流れを組む一族であり、西に広がる肥沃な水田地帯、河川水運、大町糸魚川方面への交通を抑えていたという。
ここは「嶋之内」と言われ、松本地方では最も経済的に豊かな土地だったようである。

戦国時代は平瀬氏は守護、小笠原氏に従っていた。
そこに武田氏の侵略の手が延びてくる。

天文19年(1550)武田晴信は本格的な小笠原長時に対する攻撃を開始、長時は本城の林城等、多くの城を失い平瀬城に逃れるが攻撃を受け、多くの戦死者を出す。
(この戦いは平瀬城ではなく平瀬氏館であったと言われる。)そして、城は落城する。

落城後、平瀬城には原美濃守虎胤が入り、さらなる北方、大町、白馬方面への侵略拠点として整備したという。
今残る遺構は、平瀬氏時代のものではなく、武田氏が拡張整備した姿であろう。
廃城は武田氏滅亡し、織田氏が撤退後、松本を回復した小笠原氏の転封後であろう。
(宮坂武男:信濃の山城と館、平瀬古城会のパンフレットを参考にした。)