天下野館(常陸太田市(旧水府村)天下野町)

「天下野」を何と読むか知っている人は少ないと思うが、「けがの」と読む。

天下野館は堀の内館「」ともいい、天下野の中心部にある北小学校西側の台地上にある。
この北小学校の敷地自体が高台にあり、標高100mほどあるが、館跡はその西の崖の上である。


標高は140mであるので小学校の地からも40mの比高がある。
台地の上に行く道、これがまた急勾配の道である。
馬力の小さい車ではきつい。
冬場はスタッドレスタイヤでも上がれないのではないだろうか。
この道は当時のままの道であるようであり、台地平坦部への入口は切通状である。
ここに、門があってもおかしくはない。
台地の上は100m四方ほどある全く平坦な場所で、民家や畑になっている。
ここからの景色は文句なく素晴らしい。

ここの字名はずばり「舘」である。
この名前からして館が存在していたことが分かる。
しかし、台地上には土塁、堀といったものはない。
先端部に神社があるが、ここも多少、館らしい雰囲気はあるものの土塁や堀等、城郭遺構は特段何もない。
もっともこの台地の周囲は急傾斜、あるいは崖であり堀や土塁も不用であろう。

ここを通る道をそのまま南西に向かうと2.5qで西金砂山神社である。
すなわちこの道こそが天下野道である。
2003年に行われた金砂大祭礼の西金砂神社の神輿はこの道を通って天下野まで運ばれた。
南北朝期の戦いでは佐竹氏は金砂山城と武生城に立て篭もっているが、この道が両城の連絡路であったのであろう。
城主は佐竹氏の家臣滑川右衛門と伝えられるが詳細は分からない。

この地方では滑川姓は多く、滑川右衛門はその一族の先祖の1人なのであろう。
滑川氏は小野崎氏から出た助川氏からさらに分かれた氏族と言われる。

ここまでが以前のHPの記事である。
でも、それだけではなかった。
地図を眺めていたら、館のあったという平地の西に標高180mの山がある。
この山は金砂山に続くその西側が低くなっている。
尾根末端部が高くなっているのである。こういう山には絶対何かあるはず。
この山を無視していたら、館は背後から攻撃を受けて一たまりもない。
背後を守るため及び最後の防衛拠点としてこの山は利用しているはず。
という想定の基にちょっと行ってみる。
@の堀切、本郭側からの深さは5m。 A本郭内部。北側が若干高い。 Bの腰曲輪は明瞭である。 Cの堀切というか土塁。
南側の谷底から見上げた館跡。 左の写真撮影位置を館跡より見る。 居館跡の平地東端にある神社。 居館跡の平地。地名もずばり「舘」

で・・・。予想どおり、城郭遺構は存在していた。
けして大したものではないが、山の東側、西側にはちゃんと堀切があり、東側は堀切が2つあり、竪堀が斜面を下っている。
長さ60m、幅25m位の主郭の周囲は、帯曲輪が巡り、虎口も明確に存在していた。
主郭内部は藪である。多少凸凹しているが、結構平坦である。
南面は段々状に3段ほどの平地があるが、これが城郭遺構であるのか、杉の植林のためのものか判断できなかった。
つまり、この館も山城部分と平坦地の居館(根小屋)からなる「根小屋形式」の城であった。

天下野館(36.6652、140.4691)追加調査
常陸太田市教育委員会文化課からの依頼で天下野館の追加調査を行った。
調査は2019年の夏場に1回目を行ったが、夏では季節が悪い。
山城部は藪が酷く立ち入られる状態ではなく、さらに蚊がブンブン飛び交う状態。

このため、2020年2月10日、冬場を待って再調査。さすがに冬場なので藪は少ない。
約16年振りに行った標高181mの主郭部、何1つ変わってはいなかった。あの時のままだった。
少しづつ、記憶が蘇ってくる。堀切の規模も記憶よりも立派だった。

今回は特に西端部から金砂山方面に続く尾根部を中心に調査した。
館の西端部は鞍部になっており、現在は配水場になっているが、そこの地名が「ホッキリ」である。
この地名は堀切から来ている。どうやら、堀切を埋めて配水場を造っているようだ。
配水場付近には赤土が剥き出ているのがそれが堀切を埋めた工事の名残か?
ただし、付近の斜面部を捜索してみたが竪堀らしきものはなく、埋めた感じでもない。
ここには単なる堀切が存在していただけのようである。

さらにその西側を調査してみた。
こちらに入るのは始めてである。配水場の場所が城の西端と思っていたからである。
しかし、地元の人は配水場の西側にも堀切があると言っていた。
西側は金砂山方面に続く尾根筋である。
この標高163mの尾根筋を行くが、尾根筋は両側を削り出した細尾根の通路である。
下の写真に示すように、単なる山道ではなく、整備された結構立派な道である。
ほぼフラットな道であり約150m続く。両側は腰曲輪のような平坦地になっている。

道から下までは数mあり、切岸は急である。容易には登れない。
部分的には道の両側が抉られ、竪堀状になっている場所もある。
この道筋には堀切はなかったが、この竪堀状のものを堀切と言っているのかもしれない。

この道と周辺は明らかに人の手により加工されたものである。
これが城郭に伴うものであっても不思議ではない。
この細尾根なら防御にも適している。細尾根の道は1人しか歩くことはできない。
柵と木戸を置けば通行は困難である。
ただし、細尾根両側の平坦地、きちんと植林が行われている。後世の植林に伴うもののようにも思える。
ただし、植林用にしてはここまでの工事はするものか?
結論として、配水場より西側は城郭遺構なのかどうなのか、判断ができない。

この館は金砂山城に至るいくつかのルートのうち、天下野道の入口を守る城館でもあったとされる。
その天下野道、現在は南下の沢沿いを通り、沢の南側の尾根を登って行くルートになっている。
当時もこのルートであったかは分からないが、この天下野館から西に向かうルートが正規のものだったかもしれないし、バイパスルートとして機能していた可能性もある。

なお、西側以外にも館南斜面部も詳細に調査した。

←の写真に示すように館の南斜面部は段々状の平坦地となっており、現在は住宅地や畑として利用されている。
いわゆる段々畑なのであるが、やたら広く立派な平坦地なのである。
とても畑用だけにこれほど削平された広い平坦地とも思えない。

また、30sほどもある赤メノウの原石が発見されたり、畑には無縁と思われるような供養塔も存在している。
数従陽当りも良く、北風も防げ、居住には適した場所なのである。
ここは元々は館主家臣の屋敷等があった可能性もある。

それらを総合すれば、天下野館は小規模な館ではなく、山全体を総構えにした家臣団や住民の住居も包括した規模が大きい城館だった可能性がある。

和田小屋城(常陸太田市(旧水府村)和田町)

水府の谷の最南端部、市立山田小学校の真西700mにある比高80mの山上にある城。
同名の城が東の山にあり、区別して「和田小屋城」とも言う。
東の山裾を山田川が蛇行して流れる。
築城時期は不明であるが、位置関係から国安城の支城と言われている。
山入の乱初期、永亨7年(1435)、長倉城に呼応して立った和田城に篭る山入一族を小野崎氏が攻めた感状が足利持氏から出されている。(「陸奥阿保文書」)これが文書に登場するこの城に関する唯一のものである。
 この山いったいどこから登っていいのか分からない。


まず、北側の谷に廻っているが、斜面が絶壁状であり登り口はない。
 山上までは50m位の高さがある。しかし、谷からは山上に平坦地が見える。(これが曲輪2である。)
 しかたがないので今度は東側に回りこんでみる。
山田川の堤防西側水田地帯の先、山裾に墓地が見える。

この裏に登り道が見える。どうもここから行けそうである。
この道を上がって行くと北から南に延びる谷を登ることになる。
150mほど進むと、段々畑状に積重なった曲輪群が現われる。
 4の位置、東側の尾根道に大きな岩が数個転がっており、どうも門跡のようである。
 石組の古墳の石室のようなものがあるが、これが水場なのか、炭焼きの窯なのか、果たしては古墳なのか判断が付かない。
 山頂までは段差数m間隔で曲輪が3段ほど重なるが、この様子は北側に位置する棚谷城そっくりである。
 また、国安城の山麓にかけても同じような構造であったようである。
 最上部は東から西にかけて土塁状の曲輪1がある。
見張り台も兼ねているようであるが、どう見ても風避けである。
 冬場この谷は風がきつい。この土塁で風を避けると、南側の平坦地は日当たりが良く快適な空間である。
 
北東側から見た城址。結構険しい。 4の位置にある岩。門のあとだろうか? 曲輪3下の腰曲輪。
曲輪1、3東にある曲輪。 曲輪2内部。 曲輪2西端の二重堀切から曲輪2を見る。
曲輪1の南側の曲輪は南に40m程度張り出し、さらに下側に西側に30mほど曲輪が張り出す。
内部は平坦である。

しかし、現在は孟宗竹と細竹が密集し、歩くことも困難である。
東側に一段低い曲輪があるが、堀のように見える。

前面に土塁があるようである。
曲輪1の北側は絶壁状であり、防御の必要はない。

曲輪1の西側は山地に続いて行くが、尾根伝いであるこちらの方面からの攻撃が最も想定できるため、曲輪2を配置して多重に防御している。

 曲輪1は堀切を経て曲輪2につながる。
曲輪2は東西70m幅15m程度の細長い曲輪であるが、内部は平坦である。
ここには風避けの土塁はない。

 この曲輪が下の谷から見えた平坦地である。曲輪2の西端には土塁があり、それから深さ5mの二重堀切となる。
 この部分が一番城郭遺構らしい。
この堀切を過ぎると尾根は南方向にカーブし、再び登りとなるがこの先に城郭遺構は見られない。

東和田城(常陸太田市(旧水府村)和田町)

水府の谷の常陸太田側からの入口部の標高100mの山にある。
この城も和田城というが、山田川の対岸の西側の山にも「和田城」がある。
この西の和田城は別名「和田小屋城」ともいうが、ここで取り上げる和田城に比べて遥かに城らしいので、西側の城を和田城と呼び、ここで取り上げる和田城は区別して「東和田城」と呼ぶことにする。

山田川を挟んだ対岸の山には和田城、棚谷城そして国安城(山入城)が並び、東和田城の北には松平城があるように、この小盆地周辺の山は城砦地帯である。
本城である国安城の支城群であり、防衛網を担う城々である。

おそらく山入氏の城であろう。
稲荷神社の北側の谷津を挟んで北側にある山が城址である。

ここは常陸太田から水府の谷に入る入り口に当たり、谷の入り口を監視する役目があったものと思われる。

山入氏が佐竹宗家からの攻撃を意識して築いたものであろう
この城は実は3度目の突入である。1回目はデジカメにメモリーカードを入れずに突入。2度目は写真をパソコン取り込み時に喪失。
まさに管理人にとり呪われた城である。

その3度目の突入であるが、前2回とは勝手が違った。
なんと山の斜面の木がほとんど伐採されているのである。
写真は撮り易いのであるが、逆茂木が斜面一面にある状態であり、障害となり登りにくいのである。
南の谷にある溜池から比高50mを何とか登る。
改めて逆茂木の効果を思い知った。
登り始めるとYとZの2つの平坦地がある。

ここが城郭遺構であるかどうかは判断できないが、城郭遺構とすれば小屋か何かがあったのであろう。
南向きで風も来ない居住性に富んだ場所である。

その肝心の城址であるが、ここには明確な遺構は堀切と竪堀が1式あるだけである。
ほとんど自然地形のままという感じである。
尾根が多方向の延びるが、尾根上が若干平坦になっているだけである。
Tが最高地点のピーク、東にVのピーク、西にUのピークがある部分が主要部である。
堀切を隔てて西側にWとXのピークがある。これだけである。
ここはどう見ても見張りか狼煙台の場所としか思えない。

西から見た城址 南から見上げた主郭部。
上まで比高50m。

左の木のある場所が曲輪Y.
曲輪Z。ここが城郭遺構かは判断できない。
Tのピーク Uのピーク 竪堀であるが、良く写っていない。

町田城(常陸太田市(旧水府村)町田)
現在の水府中学校のある場所にあったという城である。
ここには、江戸時代末期に水戸藩の郷校が置かれていた。
東から水府に谷に延びる尾根の末端に位置し、現在の中学校の地の標高は100m。
下の宿地区(この名前からして、この地区が城下町であったのであろう。)の標高が60mなので比高は40mである。

中学の敷地がかつてどのような状態であったのかは不明であるが、現在の敷地は、南北200M、東西150mの平坦な土地であり、非常に広い。
ただし、中学校の南側が山になっているので、もともとはそれほど平坦な場所ではなかったのかもしれない。
中学校建設でかなり改変を受けているようであり、南側の山もかなり削られている。
この中学校のある地に主郭があったらしい。
しかし、今ではそこに城郭を思わせる遺構は見られない。

いずれにせよ尾根末端が広がった場所であり、周囲は急傾斜、南北は侵食谷であり、要害の地であり、面積も広い。
ここは単なる戦闘用の避難城だったのではなく、政庁や居館があった地域支配のための城であったようである。
北側に「虹の家」という福祉施設があるが、その西側斜面に腰曲輪がかろうじて確認できる。

この城の遺構がないか調べてみたが、何しろ中学校である。
休日であるが、部活で生徒が来ている。おまけに付近の民家の犬がやたらうるさい。
ここにカメラを持った親父がうろついたら・・。いつもながら城跡が学校の敷地になったケースの悩みである。

この城については、北、西、南の3方向については防御上の問題は少ないようである。
しかし、尾根続きの東側が防衛上、問題があるように思えた。
東側は「杉平」の集落があるので結構、平坦な尾根が続いている。この尾根をそのまま東に行くと、十国峠に通じる。
現在、林道が通じており車で峠まで行くことができる。
この峠から南に向かうと大門城に至り、北に向かうと里美の谷に行くことができる。

かつては裏道として重要な役割を持っていたようである。
もし、この方面から攻撃を受けた場合、この城は弱いと思われる。
主郭である中学校敷地の東側には標高120mの小さな山がある。

ここに何らかの遺構があるはずと思い行ってみた。あることにはあったが、堀切が1本だけと頂上が平坦なピークがあっただけで、拍子抜けであった。
話によるとさらに東、杉平の内の「堀」が付く小字があり、尾根を遮断する堀があったようであるが、その遺構、痕跡は確認できなかった。
根気良く捜せば、まだ遺構は存在しているのかもしれないが、この城の遺構はほとんど湮滅してしまったようである。

北西端に残る帯曲輪跡 同じく北西端に残る虎口のような場所 中学東の山にある堀切。
これが唯一確認できた遺構。
主郭があった水府中学校。
これ以上接近しての撮影は困難。

町田城(御城)(常陸太田市(旧水府村)和久町)

水府の谷には多数の城郭があるが、この城もその一つである。
ところが町田城は2つ存在する。
1つは「御城」と通称されるこの項で取り上げる城、もう1つは水府中学校が建つ地にあったという城である。
2つの町田城は700mはなれてはいるが、ともに立地条件としては、西を山田川が流れ、国安城の直ぐ北に位置するということでは共通である。
両城とも時期は異なるものかもしれないが、国安城の支城であろう。
どちらに町田城が先かは分からないが、築城は山入師義の子の1人であることは間違いはないだろう。
南北朝期初期のころと推定される。


山入氏は永正2年(1505)滅亡するが、その本拠、国安城が佐竹氏により整備されているので、その支城である町田城も存続する。
佐竹義舜は、南酒出義藤を町田城に入れ、以後、義藤が町田氏を称したというが、義藤がどちらの町田城に入ったのかは不明である。
この町田氏も義資の代に秋田に移って廃城となったという。

なお、現、水府中学校の建つ町田城跡には安政3年(1856)に水戸藩の郷校「文武館」が建てられている。
さて、ここで取り上げるのは、御城と呼ばれている方の城である。
こちらの城は完全に藪に埋もれている城である。
城の位置としては国安城の北2km、曽目城の南2.5kmに当たる。

2つの尾根のピークに曲輪を置く1城別郭といった構造を持つ城である。
2つのピークの内、北側の標高140mのピークを地元の人は通称、御城と呼んでいるのでこちらが主郭であると思われる。
南側のピークは標高130mであるが、両ピーク間は鞍部でつながる。

鞍部の標高は120mである。山田川の標高が50mであるので、城の主郭部までの比高は70、80mあることになる。
しかし、山田川に面した山の斜面は急勾配であり、さらに斜面には一面、竹が密集しているため主郭まで行くのは大変である。
城へはNTTの電波塔が建つ場所の50mほど北に墓地まで行く登り道があるのでここを進む。
この道をじぐざぐ登ると墓地に至る。

この墓地付近が3段ほどの段々状になっているが、ここは曲輪の跡であろうか?
それとも後世の畑の跡であろうか?ご丁寧に虎口のようなものもある。
ここを過ぎると道はなく、小竹を掻き分ける登りである。
大した水平距離ではないが、勾配がきついことと竹藪のため、登る労力は並大抵ではなく、予想以上に体力を消耗する。
西から見た城址。
写真左手に登り道がある。
山裾部は段々になっているが、
これは畑の跡か?

それとも遺構か?
道を登って行くと墓地があり、
その裏に平坦地がある。
これは遺構か?
左の平坦地に上がる道は
虎口状になっている。
曲輪U中心部は径12mほどの
平坦地に過ぎない。
曲輪Uの周囲は高さ3mほどの切岸
になっており、

下に曲輪がある。
曲輪Tは東西40mと細長く内部は平坦。 曲輪T、U間は鞍部になっており
ここも曲輪であろう。

じめじめしている。

山頂部が近づくと斜面に突き出し幅4m程度の平坦地が2,3現れる。これは曲輪と見て良さそうである。
北側は谷である。
山頂付近では明瞭な切岸を持つ平坦地が現れる。
これは完全な曲輪である。
長さ13mほどの曲輪が段々に3つ続く。
最後の曲輪の背後は窪んでいて堀があったようである。

ここから東はなだらかな登りであり、20mほどで山頂部となる。
山頂部は杉の林になっており、それほどの藪ではないが、余り管理された状態ではない。
ここが曲輪Uであるが、直径12mほどに過ぎない広さである。
頂上部は平坦であるが、その周囲がなんかおかしい。

周囲はなだらかな斜面である。しかし、途中で鋭い切岸となり、下にはきちんとした帯曲輪がある。
東端の切岸の下には突き出し18mの曲輪があり、切岸の下には堀切の跡が見られる。
この切岸付近は明らかに人工的であるが、山頂部までの間の緩斜面は未整備という感じであり、整備を途中で放棄したものではないかと思われる。

北側に鞍部があり、北に山が聳え立つ。鞍部から頂上部までは20m程度の高さがある。
この鞍部も平坦であり、曲輪であろう。
しかし、じめじめした場所であり夏場は蛇が這いまわりそうな場所である。

おまけに「マムシ草」が花を付けており、思わずドキッとする。
北の山の頂上部が曲輪T、この城の主郭である。

ここは東西40m、南北11〜15mの平坦地であり、北側に土塁の残痕と思われる盛り上がりがある。
西側に1段低く突き出し10mの曲輪がある。そこから西に下る尾根があるが、ここから先は藪であり、確認はしていない。
曲輪Tの周囲にはこれ以上の曲輪等は確認できない。

以上が町田御城の概要であるが、規模はごく小さなものである。
もともと単郭の曲輪Tだけの城であったが、南に出城である曲輪Uを整備中に機能を停止したという感じである。
段郭と切岸だけの非常に古臭い印象であり、山入氏が戦国時代前期に整備し、山入氏滅亡後は北の町田城の出城(物見台、狼煙台)または住民の避難用施設程度にしか使われていたようにしか思えない。
山入氏が築いた当初の町田城とはここだったのではないだろうか?

したがって、佐竹氏支配時代の町田城は、水府中学校が建つ地にあった町田城ではなかったであろうか?
中学校が建つくらいであるからそれなりに平坦で広いスペースも確保できる場所である。
居館も城内に建てられていたものと思われる。
地域支配の拠点としてはこちらの城の方が理にかなっていると思われる。

十郎山館(常陸太田市(旧水府村)東蓮寺町)

和田小屋城の南300mにある。
東に山田川を望む水府ゴルフクラブの北東側に位置する。
北東側に突き出た半島状の山の先端付近の盛り上がった場所が館跡である。
半島の付け根の部分は低くなり、自然の堀切のような感じである。
しかし、館跡には堀や土塁等の明確な遺構らしいものはない。
西側のTの部分がやや盛り上がっている。ここが主郭らしい。

その南東側に高さ2.5mほどの切岸があり、曲輪Uがある。
これは人工的なものであり、かろうじて城郭遺構のようである。
北東方向に山は高度を下げ、尾根状になって下って行くが、その途中に堀切はなかった。
この尾根を下って行くとそのまま和田小屋城まで行けるようである。
この館は源平合戦、金砂山合戦の時に鎌倉勢によって焼かれたという言い伝えがあるが、平安末期の城とすればこの程度のものかもしれない。

地元の老人に聞いたが、城の伝承はない。
城だと言っているのはこの付近では山入城(国安城)程度である。
果たしてこれが城館と言えるのであろうか。甘く評価しても精々、陣城程度のものである。
とても戦国時代のものではないだろう。
 
曲輪T、U間の切岸。 東から見た館跡。


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