茨城県西地区

真壁2026
真壁って地名は各所にあるが、茨城県桜川市の真壁町です。
以前は独立した町だったが、平成の大合併で近隣の岩瀬町、大和村と合併して町の名は桜川市の1つの町として残っただけである。

真壁は筑波山の北西山麓にあり、石材の町である。
我が家の墓地の墓石もここの産「真壁石」を使っている。
各所に石屋さんがあり、東の山は石切り場で崖だらけになっている。

中世、ここには東西930m、南北570mもある巨大平城、真壁城があり、その三分の二が市街の東側に残っている。
平氏の流れを組むこの地の国人領主真壁氏の城である。
最終的には真壁氏は佐竹氏に従属し、秋田に去る。
江戸時代は笠間藩領となり、陣屋が置かれた。現在の真壁伝承館・歴史民俗資料館の場所である。
統治者は浅野氏、幕府領、牧野氏と変わった。町は周囲の物資の集積地と木綿販売の中心地として発展した。
明治時代は製糸業と石材産業が盛んになった。

この地にある真壁城、国史跡で城マニアの中でも有名であるが、それと並んで素晴らしいのが真壁の市街地である。
その街並み、昭和初期から戦後間もなくの頃のまま。逆に言えば、時代から街は取り残されてしまったのである。
製糸業と石材業だけではやはり発展に限界があったのであろう。
それに物流は鉄道の時代、ここはその点でも不利であった。
大正時代に筑波線が開通し、土浦方面との交通が容易になったが、発展には手遅れの感があり、限界があった。
折から自動車時代に入っており、狭い道路の市街地は駐車場も少なく、自動車の走行にも障害が多く、モータリゼーションの流れからも取り残されてしまったのも発展できなかった大きな要因の1つであろう。
そのため、時代から徐々に取り残されるようになった。
レトロさを残す各地の旧市街地、ほぼ全てがモータリゼーションに対応できなかったのだろう。

市街地には一部、新しい建物も有るが、ほとんどそのまま良好な状態で残っている。
それが武器でもある。
街を歩けば、タイムスリップして70年くらい前に戻った感じで、どこか懐かしさを感じる。

何度か、真壁に来ているが、前回来たのは真壁のひな祭りの時、2015年2月だった。
そしてえ2026年8月、11年振りに訪れた。
街は前回来た時と変わっていない。
古い建物が並んでいる。でも、道路、こんなに狭かったかなあ?
前回は車の乗り入れ禁止で歩いて見て回ったが、今回は平日、車で街に乗り込んだ。
いやあ、狭くて怖いこと!交差点など左右が見えにくく安全確認に疲れること。
まあ、もともと歩く道に車が乗り入れているのだから仕方がないことだけど。

古い建物群、どれもこれも味があり素晴らしい。
我が家の近所にもそんな所があるが、多くの建物は無人で半廃墟状態。
しかし、ここは人が住み、店の多くが現役で営業している。現役の建物が多い。
古いと住むには不自由な点も多いのだろうなあ。

街を歩いたが、8月の平日、30℃以上でカンカン照り、余り歩いている人はほとんどいない。
しばしの昭和30年代のどこか懐かしさ溢れる世界に。
街を出ると、令和の世界に逆戻り。しばしの時間旅行。

真壁伝承館北側角の村上書店さん 真壁伝承館西側の通り。真夏の平日につき誰も歩いていない。 真壁陣屋は真壁伝承館・歴史民俗資料館になっている。
真壁の旧市街のシンボル、旧真壁郵便局(平成12年10月18日有形登録文化財に登録)
建築年代 : 昭和2年
構造   : 木造2階建
建築面積 : 83平方メートル

 旧真壁郵便局は、真壁町の中心部の通称「御陣屋前通り」と高上町通りの交差点の北西角に位置する。
 昭和2年に第五十銀行(現・常陽銀行)真壁支店として建築された。
その後、所有者も替わり、幾度かの転用を経て、昭和31年から真壁郵便局として昭和61年まで使用されてきた。
外観は人造石洗い出し仕上げで石貼り風に見え、規則的に窓を設けただけで、装飾的要素のほとんどない平坦なものである。
内部は、五十銀行時代は2階に吹抜けが設けられていたが、真壁郵便局時代には電話交換室を設けるために吹抜けをなくしている。
 旧真壁郵便局は、戦前・戦後を通して真壁町中心部のランドマークとして親しまれた近代建築である。
内部の構造や外観の意匠は、地方都市における昭和初期の銀行建築の特徴が端的に示されている。
(真壁郵便局HP)
電気屋さんの大木商会さん 出川家住宅、薬局だったが閉店している。
木村家住宅 川島書店さん、現役である。
←村井醸造さん(登録有形文化財)
 滋賀県日野町観光協会発行の「日野・その歴史と自然」によれば、
「関東や奥州の各地へと上方商品を運ぶための中継地点として、江戸時代の初期である延宝年間(1673〜1680)に常陸の国・真壁の町へ、
行商人(近江商人)であった村井重助が醤油・味噌販売の出店を構えたのが日野商人における関東出店の最も古い記録である。」
と記載される。先祖は近江商人なのである。
 初代村井重助が、この地で創業したのも、良質な米と水(筑波山の伏流水)があったからという。
明治時代に建築された店舗に、脇蔵と大正時代に建築された石蔵と昭和初期の煙突等4点が登録文化財に指定されている。
代々「村井重助」を名乗り、現在の当主は、12代目という。 (村井醸造HP参考)

ここには2015年、真壁のひな祭りの時に入っている。
中は昔の酒造りの工場、糀場がそっくりそのまま。映画のロケにも使えそうな光景だった。
近代的とはほど遠く、不便そうな感じもするが、それはそれで素晴らしかった。
建物ばかりでなく、内部の光景も有形登録文化財に相応しい世界であった。

旧真壁駅
筑波鉄道の真壁駅の跡。
現在、線路跡はサイクリング道路になっており、真壁駅跡は休憩所になっている。
かつては真壁高校へ通学する生徒の乗降等で賑わっていたという。
しかし、高校生が乗降する光景、もう遥か彼方のことになっており、ホームと線路跡だけが残る。

管理人は昭和62年の少し前、おそらく昭和50年代末、その最後の姿を目撃している。
ここに来ているのだ。
多分、雨引観音に生まれてくる子供の安産祈願に来た時だと思う。
もう、40年も前のことだが今も電車の姿は鮮明に残っている。
そんな記憶があれば、今の風景、寂しい。8月の平日、誰もいない。

北から見たホームと線路跡 南から見たホームと線路跡

筑波鉄道筑波線は、かつて茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町(現・桜川市)の岩瀬駅とを結んでいた筑波鉄道の鉄道路線である。
国鉄分割民営化と同日の1987年(昭和62年)4月1日に廃止された。
国鉄常磐線土浦駅と水戸線岩瀬駅を結んでいた非電化路線。
1914年(大正3年)に設立された筑波鉄道(初代)によって敷設され、1918年(大正7年)に土浦駅 - 岩瀬駅間が開業した。
岩瀬から先、真岡を経て宇都宮への延伸計画(宇岩線)も存在していたが実現していない。

昭和後期、モータリゼーションの進行などにより乗客が減少し、1979年(昭和54年)に筑波鉄道(2代目)として鉾田線(鹿島鉄道)とともに関東鉄道から分離された。
分離後、様々な合理化を行ったが経営は好転せず、1984年(昭和59年)には沿線自治体に事業廃止を申し入れた。

1985年(昭和60年)10月1日からの1年間、回数券3割補助などの助成を行ったが乗客は増加せず、1987年(昭和62年)3月31日の運行を最後に翌4月1日に廃止された。
もし、小田城がある旧筑波町域ではなく、1960年代より開発の進む筑波研究学園都市を通っていたら少なくとも土浦-学園都市間は今も現在だっただろう。
なお、路線廃止後の筑波鉄道は関鉄筑波商事に社名変更し、不動産業を営む会社として存続していたが、2025年(令和7年)6月1日をもって関東鉄道に吸収合併され、会社としても幕を下ろすこととなった。
路線距離(営業キロ):40.1 km、駅数:18駅(起終点駅含む) Wikipediaより

真壁のひなまつり2015.2.
真壁は茨城県の西部、筑波山の北山麓の町、平成の大合併で岩瀬町などと一緒になり、桜川市になった。
でも、この桜川市・・って、このネーミング、センスを疑う。
確かに桜川という川は流れてはいるが、市の名前に採用するほどのものとは思えないのだが。

この歴史のある町、真壁もその桜川市の1地区になってしまった。
真壁の町はは室町時代にはすでに成立していたようである。
この地の豪族、真壁氏が真壁城を築き、城下町が整備され、それが今に続いている。
真壁氏は戦国時代は佐竹氏の家臣となり、このため、秋田に去り、城は廃城になるが、東半分は残っている。西半分は町に埋もれている。
今残る城跡の規模を見ればその実力が伺える。
おそらく佐竹家臣の中で最大級の軍事力を持っていたものと思われる。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_seibu/makabe.htm
町は一切の災害を受けていないので古い建物がよく残っている。

登録有形文化財の建築物だけでも100棟ほどあるという。
しかし、逆に言えば、道路も狭く、時代から取り残された町でもある。自動車も怖くて通れない。
大型店も全て郊外に立地し、今は郊外が町の中心地になっている。
日本のそこら中に例があるパターンである。
その時代から取り残されたことを逆手に取って13年前から始まったのが、雛祭り。

古い民家に古い雛人形が良く似合う。
客も年々増え、駐車場探しが一苦労くらい繁盛している。
雛人形も良いが、それほど古いものは余りなかった。
古建築フェチの管理人はどちらかというと建築物の方に興奮。
しかし、こんな古い家に住み続けるのもけっこう不便だろうねえ。
登録有形文化財じゃあねえ。


水野忠邦の墓
結城市山川)
2019年9月14日、茨城県結城市に行った。そのついでにあの「水野忠邦の墓」があるというので行ってみた。
水野忠邦と言えば「天保の改革」。
この2つは日本史の必須アイテムである。高校入試ではこの2つのキーワードは覚えておく必要がある。そうでないと酷い目に会う。
それほどの重要性がある。

そんな日本史上の重要人物である水野忠邦の墓が茨城県結城市の中心部から外れた南端部、山川の周囲が畑と田んぼばかりののどかな田舎にある。

何でここに彼が眠るのか?と疑問であるが、ここ山川の地が、忠邦の出た水野家の先祖、忠元が大名になった地であり、ここは水野家宗家結城藩の領地であったが、許可を得て、先祖由来のこの地に墓所を造ったものという。
かつては万松寺がここにあったという。
その水野忠邦、調べると面白い人物である。
俺の下した評は「異常性格者」である。どこかの国の大統領と重なる点が多い。

彼が出た水野氏は、戦国時代は尾張と三河の国境付近を領していた土豪であり、清和源氏の流れとしているが、これがどこまで事実かは疑問。
日本各地にいた土豪の1人に過ぎないが、結果として徳川氏に係わったため勝ち組になり、織田氏や徳川氏との間で苦労はしたものの、江戸時代は何家かの大名を輩出した幸運な部類に入る武家である。
歴代当主の能力もあったのであろうが、9割方、「運」が良かった一族と言えるだろう。
水野氏は宗家から多くの分家が出ている。
宗家が徳川家康の母伝通院の実家であり、これが縁で江戸時代は徳川氏の外戚家として大名となり、幕府の老中も輩出した。
幕末時点では宗家の下総結城藩の他、分家筋に駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩があった。
その他、寛文7年(1667)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主も水野一族であった。
宗家は、和泉守忠重の子日向守勝成を祖とする家で、出身地三河刈谷から出て、江戸時代には大和郡山、備後福山と枢要の地を任された。
一時世継ぎがなく断絶するが、親戚筋から養子が入り存続、結城藩として明治維新を迎える。
 
水野氏からは老中な何人も出ているが、やはり天保の改革の実施者、水野忠邦がダントツで有名である。
彼は分家筋、忠守−忠元流 水野家と言われる監物忠元を祖とする家の末裔であり、この家は代々監物を名乗り帝鑑間に詰めた。
領地は、下総山川から駿河田中、三河吉田、同岡崎、肥前唐津、遠江浜松と要地を転々としている。
長崎警護の役目がある唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かった。忠邦以前に享保の改革で徳川吉宗を補佐した和泉守忠之も老中を務めている。
忠邦は改革失敗の責任をとらされて出羽山形に転封され、子孫がそこで明治維新を迎える。

その水野忠邦は寛政6年(1794)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。
長兄が早世したため、唐津藩主の世継ぎとなり文化9年(1812)家督を相続する。
彼は出世欲が強かったようであり賄賂を使いさらに、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切ってわざわざ、減封前提で文化14年(1817)9月、25万3,000石の唐津から15万3,000石の浜松藩への転封を願い出て実現させた。
この工作で家老の二本松義廉が諌死をして果てるとともに、唐津藩領の一部が天領に召し上げられ、地元民には天領の年貢の取立てが厳しかったことから、恨みを買う。部下、住民の犠牲を無視してまでの自己の欲望の達成意思、凄い人物である。
この国替えの効果は寺社奉行となって現れる。逆に賄賂を受け取る立場となり、払った賄賂を回収できたため、家臣の不満も鎮静化したという。
彼には渡した賄賂は先行投資ということで、先見の明があったのかもしれない。たいしたものである。
さらに、将軍・家斉のもとで、文政8年(1825)大坂城代、文政9年(1826)京都所司代、越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となる。そして天保5年(1834年)本丸老中、ついに同10年(1839年)老中首座となる。
当時は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減するが、放漫な財政運営が続き、打つ手を見出せない状況であった。家斉在世中は家斉側近が権力を握っており改革を開始できなかったが、天保8年(1837)4月に家慶が第12代将軍に就任し、天保12年家斉が死ぬと、家斉旧側近を罷免し、忠邦は天保の改革に着手した。
天保の改革では、農村復興のため江戸に流入した飛散農民を返す人返し令や、奢侈禁止・風俗粛正、株仲間の解散、低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったが、物価引下げに反しインフレとなり、大混乱をもたらす。この辺りは高校の日本史の教科書に詳しいだろう。
これに対し腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。
さらに、天保14年(1843)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に会い、腹心の鳥居が老中土井利位に寝返ってクーデターを起こし、9月13日に老中を罷免されて失脚した。 しかし、その土井利位も弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸の焼失に伴う再建費用を諸大名から献金させようとして失敗し、6月21日家慶は忠邦を再任する。しかし忠邦に昔日の面影は無く、病気を理由に弘化2年(1845)2月老中を辞する。その間、自分を裏切った土井や鳥居らにしっかり報復しているので、やる気を亡くし、復讐にシフトしただけで、仮病だったと思われる。
ところが、天保改革時代の疑獄の嫌疑が発覚し、強制隠居・謹慎が命じられ出羽国山形藩に懲罰的転封を命じらてしまう。
なお、この転封に際して、領民からの借金を踏み倒して山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な一揆を誘発してしまう。
嘉永4年(1851)2月10日、死去。享年58歳だった。(Wikipedia参考)
この経歴を見れば、頭脳は明晰のようであるが、自分本位の出世欲、自己顕示欲の塊、(独裁者に有りがな)部下領民への配慮欠如、理想の追求者(自分が常に正しい。・・どこかの国の大統領みたい)さらに復讐鬼の姿が浮かぶ。
結局、頭はいいが異常性格者(自己愛性人格障害)ではなかったのか?やはりどこかの国の大統領と重なってしまう。