篠の城(長野市篠ノ井岡田)36.5926、138.1198
「しの」ではなく「ささ」と読む。
長野市の岡田には永禄4年(1561)の第四次川中島合戦で武田軍がまず始めに陣を敷いたという茶臼山(729.9m、36.5953、138.1090)がある。
茶臼山山頂部には有旅(うたび)城があり、横堀が残る。
この合戦で武田軍がこの山に陣を敷いたのかどうかは分からない。時期が違うかもしれない。
いずれにせよ、茶臼山に城があるということは、この付近で何等かの軍事的行動があったことは間違いないだろう。

その茶臼山の南側は「地すべり」地帯であり、地形がかなり変わってしまっているようである。
そんな地すべりの跡に造られたのが「茶臼山動物園」「恐竜公園、植物園」である。
地すべりは茶臼山の南側から南東側で顕著であるが、東側では起きていない。
その東側斜面にこの笹の城がある。
この城がそのまま存在していることが、東側では地すべりが起きていない証拠である。
それとともに築城者は地すべりが起きそうな地盤の場所に城は築いていないという技術的な目も持っていたということを意味する。

↑東下の今井地区から見た城址

この篠の城は茶臼山から南東に延びた尾根を約1q行った標高544mの場所(36.5926、138.1198)に主郭を置く。

さて、この城であるが、1度チャレンジしたが場所が分からなかった。2011年5月5日だった。
当時はスマホもなくGPSなどの時代ではなく、昭文社の地図を頼りに探した。
で、城址の少し西にあるリンゴ園までは辿り着いた。
しかし、そこまでであった。
城は見つからなかった。

そのリンゴ園、実は半分正解であった。ここは城域だったのである。
肝心の主郭はその少し北東側にあったのだ。まあ、こういうことはよくある。

それから13年、再チャレンジした。
この城を扱ったHP、ブログ等を検索したが、ちゃんとした記事になっていたのは「らんまる殿」のブログだけであった。
例のリンゴ園が掲載されているではないか!
それを頼りに2024年4月に行ってみるが、リンゴ園など存在しなかった。
それもそのはず、記事は2013年のもの、もう11年の歳月が流れていた。
その間にリンゴ園は廃園となり、木も切られ、笹薮になっていたのだ。
小屋の残骸があるだけであった。

しかし、リンゴ園に入る部分、土橋になっており、二重堀切@になっているではないか!
これは全く気が付かなかった。
斜面部には竪土塁、竪堀A、腰曲輪まであるではないか。
したがって、このリンゴ園跡B、後世の改変を受けているようだが、城域だったと思われる。

その南斜面は墓地や畑跡であるが、これらも曲輪跡と思われる。
なお、このリンゴ園跡については宮坂武男著「信濃の山城と館2」では城域と扱っていない。

@西端にある土橋と堀切 A堀切は二重になっており、竪土塁を伴う。 Bここはかつてリンゴ園だったが、廃園となり藪化している。

既にリンゴ園が存在していないことに惑わされ、その日はここで撤退。
翌5月、再々チャレンジした。
リンゴ園跡の東に深さ約12m、幅約35mの巨大な二重堀切C、Dがあり、そこを越えると本郭Tの切岸が高さ約8mの高さで聳える。
本郭には南下の帯曲輪Uを経由して本郭東端部から入ったようである。

この帯曲輪から見た本郭の切岸、所々に石積みが見える。
当時は全面石垣だったようである。
本郭内は一面の孟宗竹の藪である。
標高は542m、リンゴ園跡より数メートル低い。
なお、東の山麓の今井地区は標高が360mであるので本郭の比高は185mほどある。

C 主郭部と西側を分断する巨大二重堀切。 D本郭から見下ろした二重堀切、深さは約8m E本郭東端には崩壊した石祠がある。

本郭の西端、二重堀切に面して土壇状に高くなっている。
東端部には祠Eがあるが、既に祭祀は放棄されているようである。

本郭東下6mに曲輪VF、さらに下に曲輪Wがあり、さらに下側に曲輪が展開する。
ここを下って行くと玄峰院に着く。

それぞれの切岸にはやはり石積みGが見られる。
本郭の北斜面には帯曲輪が数段展開する。

F本郭東下に位置する曲輪V。 G曲輪Uの切岸の石積み

地元では武田の陣城、物見台という伝承が残る。
しかし、陣城、物見台のような臨時の城ではなく、石積みを持つ本格的かつ恒常的な城郭である。

↑城址南下の新田地区から見た東の川中島一帯、正面が海津城、右端が屋代城、左端が千曲川と犀川の合流点。物見としては抜群のロケーションである。

布施氏の城とされる。
布施氏は佐久にいた氏族でここに入り、布施氏が篠の城を築き、分かれた一族の平林氏が上尾城に居住したという。
ここに来たのは大塔合戦(応永7年(1400))後のことという。
戦国時代、武田氏の侵略を受けると布施氏も武田氏に従ったらしい。

川中島合戦の時、城は武田氏に接収されたようであり、武田氏が陣を敷いた場所とか物見台が置かれたるような使われ方をされ、それが伝承として伝わったようである。
物見台と言われるようにこの付近からは川中島一帯が良く見える。
この城の弱点は西側の茶臼山方面であり、巨大な二重堀切でも不安があり、さらにリンゴ園跡の西側にも二重堀切を置いたのであろう。
最終的避難場所が茶臼山なのであろう。

石川城(長野市篠ノ井)
実家の近くにある城なのだが、いつでも行けるのでいつまで経っても行かない、行けない。
そういう所って城に限らずある。
遠くの人は行っているのに、近くの人がかえって行ってないのである。
ということで、行かないうちに20年が過ぎた。
もっとも行けなかった理由はほかにもある。

↑南下の水田地帯から見た城址(竹林なので緑が濃い部分)
何しろ城付近の道路が狭いのだ。駐車するスペースが全くないのだ。
で、今回は少し遠い場所に車を置いて歩いて城に向かった。

場所は長野盆地の西側、盆地を東、南に見る標高430mの山にある。
南の水田地帯からの標高は45mである。

変わった城である。石垣もある。でも何だかおかしい。

ここを訪れた人は皆同じ疑問を抱くらしい。石垣はあるのだが、石垣として役に立つとは思えないのだ。
石垣と言っても高さは1〜2m程度、どちらかというと土留めである。
@城址への道を登って行くと石垣が現れる。 A城への入口、本来の虎口か?周囲に石垣もある。

この城のある山の麓部にも石垣がある。こちらは石質も違い、後世の段々畑や斜面の土留めに伴うものというので紛らわしいことこの上ない。
山の上の平坦部の城址はかつて畑であったとも言われ、土留めなら丁度よい。
それに曲輪としても内部が結構傾斜している場所もある。
建物を建てるのには少し難がある。
もちろん、畑に伴うものなら納得である。

ところが、山に続く部分はちゃんと堀切があるのだ。

Bこの上が主郭らしいが・・それにしても高さが、低すぎないか? C城内の所々に石積みがあるが、畑の土留めにしか見えない。

堀底付近は石で補強されている。こっちは完全なる城郭遺構である。

で、結局、どこまでが城なのか、畑なのか、分からないのだ。
なお、この石垣の石はこの付近に多い積石塚古墳の石を転用したものとも言う。

D城址西側の堀切、掘底が石で補強されている。
 ここは間違いなく城郭遺構だ。
E掘出口は腰曲輪になっている。石垣のパーツ?
 石がゴロゴロ

城の広さは約100m四方あり、4段ほどで構成されているが、曲輪間の高低差は少ない。
北側は聖川の崖であり、この方面からの攻撃には万全である。
しかし、南側、東側は傾斜が緩い。
居住性、防御性はどっこいどっこい、良くもなく、悪くもない。中途半端な印象を受ける。
攻撃を受けたら、この城じゃあ心細くて籠城する気にはならない。

村上氏家臣、石川大和守の城という。
この城の南側に広がる塩崎の広い水田地帯を支配する領主だったようである。
(その水田地帯、2019年の台風に伴う大雨による千曲川の越水で水没し大きな被害が出た。)
彼は武田氏に調略され武田に付き主君を攻め、上杉氏が来寇すると上杉氏に付き、再度、武田氏に帰属したという。
だいたい、境目の地の土豪はこんなものである。
一族の生き残りが最優先課題なのだから。