高山村の城
月生城(長野県高山村)
「月生」と書いて「つきおい」と読む。
高山村と須坂市との境にある須田氏の本城、大岩城の東を守る支城である。
大岩城の南の山、明覚山に雨引城があり、そこから北に派生する尾根に月生城がある。
↑ 登城口から見た城址。右手の獣避けの柵を開け、後は ひたすら山頂を目指す。 ←北側の福島正則居館跡から見た城址。 |
主郭部は標高743mの場所にあり、大岩城の本郭より高い位置にある。
これといった登り道はないようである。
月生城には標高550mの36.6580、138.3537の位置から獣避けの電気柵の扉を開けて入り、北側の尾根を登って行った。
この尾根、山頂部から扇状に広がった形をしており、末端部から途中までは非常に広い落葉広葉樹の林なのであるが、だらだらと単調に続き結構疲れる。
何しろ比高約200mのほとんどがこの調子なのである。
それに落ち葉がフカフカで滑る。
こんな斜面では守りにくい。
防御は放棄されている感じである。
所々に平坦地があるが、それが曲輪なのか判断できない。
少なくともこの斜面、植林は行われてはいないので林業に伴うものではないであろう。
標高700m付近になると尾根は狭まり、堀切@や小曲輪が確認される。
標高713m付近にある堀切Aから山の傾斜が一気に急になる。
いよいよ主郭部である。
頂上までの比高約30mの間には付き出し約5mの7つの曲輪Bが重なる。
この様子、結構メリハリがある。
@ 扇状に広がる北斜面が狭まる場所にある堀切。 | A主郭部直下は急傾斜になる。その入口の堀切。 | B 主郭部北直下には腰曲輪が段々に重なる。 |
本郭直下には堀切Cがあり、帯曲輪を経て本郭Dである。
この付近は一面、落葉広葉樹の林であり、冬場は葉が落ち、下草もほとんどないので遺構が非常にきれいである。
おまけに豪快な遺構である。
本郭は3段構造になっており、55×15mの大きさ。南端部は土壇がある。
その南下はおなじみの大堀切である。
幅約15m、深さ約6m、竪堀Eが東下る。
C Bの曲輪群最上段の堀切。 | D本郭内部は3段構造、南東端に土壇がある。 | E本郭背後の堀切からは斜面を竪堀が豪快に下る。 |
特徴的なのが、本郭の西斜面である。
ここに5本の畝状竪堀Fが下る。風化はしているが形は明瞭である。
本郭の東に派生する尾根には10段以上の小さな曲輪が展開する。
本郭から西に派生する尾根には2本の堀切と曲輪がある。
本郭南の堀切を越えると二郭Gである。
30×12mの広さ、曲輪内には大きな岩がある。この曲輪は杉林である。
その南側に堀切Hがあるが、大きな岩が切岸にむき出しである。
その先の南に続く尾根筋には岩がゴロゴロしている。
F 本郭西側斜面部に構築される畝状竪堀群。 | G 二郭内部は岩がごろごろ。 | H 二郭南側の堀切。その先は石列が尾根に続く。 |
この尾根を登って行くと雨引城である。
二郭の東下には小さい曲輪が10段以上展開する。
この地の土豪、須田氏の本城、大岩城の東を守る城として築かれたと思われるが当初の城は小さかったと思われる。
川中島の合戦時には上杉謙信が月生城の麓に3000頭の馬を隠していたという伝承もある。
やがて、武田氏により須田氏は越後に逃れ、ここには武田氏の城代が入ったらしい。
この時、対上杉最前線基地として城は拡張整備されたようである。
やがて武田氏は滅亡し、この地に須田満親が復帰するが、月生城をどう使ったか分からない。
須田氏が上杉氏に従って会津に移った頃、廃城になったのであろう。
桝形城(高山村中山)36.6930、138.3616
山田城ともいう。松川の谷が開析した扇状地が中心の村、高山村の谷の出口部、村内で一番開けた地区、須坂市に近い西部地区にある。
城のある場所は松川に沿って県道66号線が走り、その北側、滝入山の山系南側の山である。
この山系を越えれば中野市である。
また、県道66号線を少し西は小布施に至る。
中世は城の東側の谷を登れば間山峠に通じる街道があり、その南側の入り口を抑える城でもある。
↑南東下、山田氏館付近から見た城址。中央右下付近から延びる尾根が大手道である。
城は標高711mの北西から南側に突き出した尾根の末端部が盛り上がった部分に主郭部を置き、そこから下る尾根筋及び北西の山系につながる尾根筋4方向に曲輪や堀切を展開させる。
主郭部には南東尾根か南尾根から登るが、南尾根先端36.6836、138.3628に城址標識があり、ここから登るのが一般的なルートのようである。
そこの標高は538.5m、山頂までは比高170m!けっこうきつい。
電気柵の扉を開けて入り、尾根道をひたすら登る。
中腹に岩山があり、物見の場と思われる。
この先から山の勾配は急になり、小曲輪が何段にも重なる。
曲輪の幅は2mがいいところである。
この城、訪れたのは11月末、尾根は広葉樹の林のため、落葉して見通しは良い。
草もない。しかし、積もった落ち葉が滑る。まるで締まった雪の斜面を登るのと大差ない。滑る。
しかも落ち葉の下には岩がゴロゴロしている。転んで打ちどころが悪ければケガをする。雪の斜面より怖い。
主郭直下などは這って登るのが一番である。
主郭直下付近から篠竹が密集し、岩がゴロゴロある。
どうやら曲輪周囲は石垣で補強されていたようである。
篠竹は矢竹として植えたものだろう。
@南尾根には小曲輪が何段も展開する。 | A本郭から見下ろした二郭、桝形のようになっている。 | B二郭から見た本郭の切岸。石葺きであったらしい。 |
C本郭内部、西側をコの字形に土塁が覆う。 | D東に延びる尾根には広い曲輪が展開する。 | E Dの南側の帯曲輪も明確である。 |
主郭は2つの曲輪からなり、東に北側を土塁で覆った曲輪、二郭Aがある。
一段高い段を経て、本郭の切岸が約6mの高さで聳える。B
この切岸には石がゴロゴロしているので本来は石垣で覆われていたようである。
本郭から見ると下の曲輪が桝形のように見えるので、城の名前が「桝形城」になったと思えるが、困ったことに同名の城が多すぎ、識別に苦労する。
本郭Cの標高は711m、32×14m北側をコの字形に土塁が覆う。
本郭の後ろ側、北西、北東に2本の尾根が分岐し、それぞれ曲輪群が展開する。
主郭部から東に延びる尾根筋が大手と思われ、明瞭な曲輪D、Eが展開する。
F大手筋の尾根にある土壇。 | G大手筋の末端部には竪堀を持つ曲輪がある。大手曲輪か? |
この尾根、途中から南東に折れ、土塁F等が見られる。
最後は八幡社に出るが、その手前には大手曲輪と思われる竪堀Gを持つ曲輪がある。
この大手筋の尾根、遺構は南尾根よりは豊富であるが、明確な道はない。
この地の小土豪山田氏の城といわれる。山田氏は仁科氏の出身で承久の変(1221)後、母親の里、高梨山田氏を頼りこの地に来たと言われる。戦国時代は高梨氏に奪われる。
その後、高梨氏も武田氏に追われ、城は武田氏のものとなるが、武田氏滅亡で上杉氏のものとなる。
上杉氏の会津移封で廃城になったと思われる。
この間、この城がどのような役割を演じたのかは分からない。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)
山田氏館(高山村中山)36.6898、138.3662
桝形城の麓、真法寺の地が館跡と言われる。
91m×72mの範囲が館域という。標高は546m。
かつては土塁が巡り、堀もあったようである。
しかし、現在、遺構は確認できない。
山田氏が住み、その後、原氏が住んだというが、詳細は不明。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)
山田高梨館(高山村中山)36.6884、138.3535
山田氏館跡から西に約1q行った山田神社の北東側が館跡である。
この地は滝の入山の南の麓に位置し、かつては滝の入山の少し東にある峠までここから道が延び、中野方面に通じていたという。
館跡付近はブドウ園となっている。字名は「堀之内」という。
その一角に館跡の標柱があるのだが、ブドウの吊り棚の支柱の一部のようになってしまっている状態である。
この付近は耕地整理が行われたとのことで遺構は失われているという。
ここから北に行くと滝入山の滝入城がある。
その麓居館でもあったと思われる。
高梨氏一族、高梨山田氏の館という。
高梨山田氏は後、山田氏を追い桝形城を手に入れるが、本家の高梨氏に追われ、高梨本家の所領になったという。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)
福島正則屋敷(高山村高井堀ノ内)
福島正則については、説明は不要だろう。
一般的には彼の経歴は大阪夏の陣後、豊臣恩顧の大名潰しの一環として、居城の広島城を無断修理したことを理由に取り潰された、ということで終わっている。
しかし、現実にはまだ終わっていない、その後があるのである。
元和5年(1619)、広島城の無断修理のイチャンモンを付けられ、広島50万石を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5000石に減転封の命令を受ける。
そして構えたのが、高山村にある高井(こうせい)寺の境内に相当する場所にあった館である。
館跡はごく普通の田舎の寺院である。説明板が建つ。 | 道路が堀跡という。石垣は後世のものである。 |
ここに移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居し高斎と号した。
さらに元和6年(1620)、忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。
そして、寛永元年(1624)、正則はここで死去した。享年64だった。
ここでの生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。
死後、幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収され、大名としての福島家は取り潰された。
のち、幕府は正則の子正利に旧領から3112石を与えて旗本に取り立てた。
福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫正勝が家を再興し、旗本として明治維新まで続き、代々御書院番などを務めた。
江戸幕府、片っ端から大名の取り潰しをしたが、家自体を断絶させることは少なく、この福島家を始め、最上家等は旗本として存続させている。
そればかりか、戦国時代に滅亡した大名家、今川家、武田家も旗本として存続させている。
武将としては猛将として知られるが、優れた領内統治能力を持っていたらしい。
103m×70mの方形単郭の館で、東北隅に高さ5mの土塁が残存するのみ。
周囲には空堀が巡っていたというが、埋められ道路になっている。
現存する石垣は、安政年間(1854-1860)に高井寺が土塁や空堀を壊して修築の手を加えたものであり、当時のものでははない。
高井寺には、福島正則の遺品として肖像画、槍先、仏舎利、掛軸が伝えられている。
民家の中に残る唯一の遺構、土塁の一部 | 福島さんには関係ないが「高札場」もちろん江戸時代のもの。 |
この高井寺、とても小大名の居館という雰囲気はない。城郭遺構も土塁の残存部のみ。
周囲の道路が堀跡というがそんな雰囲気もない。
寺本堂もどこの田舎にでもあるような寺といった感じである。
果たして、福島正則、ここで周囲の山々を眺めながら何を思ったか?
広島50万石時代より、プレッシャーは少なく、心は安らかだったかもしれない。
福井城(高山村牧上)36.6637、138.3962
長野県高山村は須坂市の東に位置する村で、千曲川に東から合流する松川が開析した谷が村域のほとんどである。
村の東は志賀高原であり、村内を通る県道66号線を進むと山田温泉、山田牧場を経由して志賀高原の中心地、横手山、熊の湯に通じる。
また、県道66号線が通る1本南の谷を通る県道122号線を進むと群馬県嬬恋村の万座温泉に通じる。
この福井城は県道122号線が通る柞沢川の谷を見下ろす福井原の台地縁部にある。
こんな場所に城があるということは万座温泉方面に通じる古道が戦国時代に機能していた証拠である。
ここは西側を流れる樋沢川の扇状地であり、北西に向けて緩やかな勾配を持つ。
開拓村だったということであり、城址の近くに開拓の碑が建つ。
さすが開拓村だけあり、標高は827mもある。高原である。
柞沢川からの比高は20mほどである。
しかし、ここに城があること自体、戦国時代には住んでいた人がいた訳であり、開拓の歴史は遥かに古いのである。
その福井城、こんな山間ではあるが結構広い。
150m×100mほどあり、4つの曲輪からなる。
@V郭(左)とU郭(右)間の堀。藪! | AU郭南東端部の堀 | B本郭南東端部の堀 |
柞沢川の谷に面した台地の縁に約50m四方の曲輪T〜Vが3つ並び、曲輪間は幅約10mの堀で区画される。
一番南西端の曲輪が一番厳重に作られており、ここが本郭である。
曲輪UとVの間には下に下る道路が付けられている。
さらにこの3つの曲輪を囲むように南西側に曲輪Wが存在する。
この構造は主郭部台地縁部にあるため城外の南西側の方が標高が高く、城内を見下ろされてしまうためである。
CW郭南側の堀、これじゃ分からん! | DW郭北西側の堀は道路となって湮滅している。 正面左側の林がV郭。 |
E開拓村から通じる道路には獣柵があり、ここを開けると城址。 左の林がV郭、手前に堀がある。右の林がU郭。 |
残念ならが城内は藪状態であり、整備はされていなく、探索は冬場近くにならないと困難である。
遺構は道路になった部分以外は藪の中にほぼ残存している。
城主は大岩城を本拠にしていた須田氏の家臣、牧氏という。
この地で農業生産で生計を立てるのは当時としては困難ではなかったかと思われる。
街道筋の監視の役目の他、山間奥地にあるため、須田氏の緊急時の避難所でもあったかもしれない。
牧場経営による馬の生産、万座方面に通じる街道の荷役で生計を立てていたのではないかと思われる。
須田氏は永禄2年(1559)武田氏の侵略により越後に亡命し、福井城の当主牧伊賀守も従い城も廃城になったという。
(宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。)
高原城(高山村奥山田)36.6798、138.4048
長野電鉄須坂駅から東に約10q、山田温泉の西約2q、松川の東岸、県道66号線沿いにある。
松川の東岸と言ってもこの付近では松川は渓谷になっており、川面から城までの比高は約110mもあり崖のようになっている。
その崖っぷちの縁部に城があるが、果たしてここが城なのか戸惑う。
城らしい感じがしないのである。
北西側から見た城址。林が主郭の釜山、右の丘が長峯。 | @県道66号線から見た釜山、小さな丘に過ぎない。 |
主郭と言えるのは釜山@という30m×20mの高さ5mほどの楕円形をした崖っぷちにある丘であり、その西側に長峰Bという台地が約60m続く。
県道66号線のすぐ脇にある丘、釜山の頂上Aの標高は810m、その上に27m×15mの平坦地がある。
東屋が建つが荒れている。
ほとんど管理された状態ではない。
|
北側は畑や住宅がある緩斜面が続いているだけである。
戦闘用の城郭ではない。当時は街道が崖っぷちぎりぎりの場所を通っていたといい、街道の関所のような機能があったと思われる。
城の来歴は不明であるが、おそらく須田氏関係の城であろう。
(宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。)
城山城(高山村高井荒井原)
須坂市から県道122号線がはしる松川沿いの渓谷を東の山田温泉方向(志賀高原方向)に向かうと、松川左岸(南側)の須坂市との境に須田氏の本城、大岩城がある。
そこから北東2qに北西に松川の谷に突き出た山がある。
ちょうど、高山小学校の南側である。
この山の尾根ピークにあるのが城山城である。
城址はハイキングコースになっており、遊歩道が先端部から本郭部まで延び、本郭には展望台がある。
尾根先端部はつつじ公園になっている。
登り口の先端部にはちゃんと駐車場もあるので車を置く場所を心配する必要はない。 城の主郭部は山頂近く付近のみであり、先端部付近には明確な遺構はない。 先端部の標高は530mであり、主郭部が650mほどであるので、比高は120m。 結構な距離と高さを登ることになる。典型的な尾根城であり、尾根を数条の堀切で区画するおなじみのパターンである。 狼煙台や物見台程度の砦とどこかに書いてあったが、規模はそれほどでもないが、本郭背後に二重の堀切があり、さらにその先には三重堀切があるなどきちんとした尾根式の山城であった。 全長は200m程度である。 しかし、このパターンはこの付近の雁田大城、竹の城と全く同じであり、規格品である。 これでは攻める方は次に何があるか予想が付き、攻める側にきわめて有利である。 果たして守る方はこの点はどう考えていたのか気になる。先端部には堀切が3つ程度しかなく余り防備は厳重ではない。 これは先端部の方が急勾配であることが理由であろう。 |
一方、山続きの東側は勾配が緩やかであり、この方面が非常に厳重になっている。 先端部に近い遺構は遊歩道となっているため、堀切が埋められているところがあるが、それでも痕跡は明瞭に残っている。 先端部には堀切は3本確認できるが、最初の堀切から本郭部までは高さで40mほどである。 途中には細長い曲輪がいくつかあるようだが、遊歩道になっており不明瞭である。 2つ目の堀切は非常に大きいが、残念ながら遊歩道のため埋められ、竪堀部分のみが残る。 本郭直下の堀切も同様である。 本郭は直径20m程度であり土塁はなく、展望台がある。 ここからの眺めは抜群であり、正面に山田高梨氏の本拠地と詰めの城、枡形城が、西には大岩城、その向うに善光寺方面、北アルプス、妙高、黒姫、戸隠、飯縄の山々が、東には志賀高原の山々が常他監視物見としては打って付けである。 本郭の背後は高さ6mの切岸の下に二重堀切(北側は三重堀切)があり、その東が曲輪Uである。長さ30m、幅13mほどである。 |
その東に堀切を介して曲輪Vがある。大きさは曲輪Uの3分の2位である。
この先に40mに渡って三重堀切があり、鞍部となる。
三重堀切付近は南北の斜面の勾配も緩くなるため、竪堀は竪土塁を伴い斜面を下っている。
この城についての記録は存在しないとのことであるが、位置的に見て須田氏の本拠である大岩城の東を守るための出城ではなかったかと思う。
松川の対岸は山田高梨氏の本拠地であるが、山田高梨氏の城ではなかったであろう。
(鳥瞰図に入れた須坂市高井は誤り。高山村高井に訂正。)
登り口から見た城山城。 | 主郭部北側の堀切。 | 本郭北下の曲輪。堀切があったらしい | 本郭内部には展望台が建つ。 |
本郭背後にはおなじみの大堀切が。 ここは三重堀切になっている。 |
曲輪Uから見た本郭。 |
曲輪U、V間の堀切底の土橋。 | 三重堀切は竪堀になって斜面を下る。 |