須坂の城2

大岩城(須坂市/高山村)

俺は川中島周辺のメジャー城郭のほとんどは征服した。
唯一、征服していなかったのがこの大岩城であった。

大岩城は須坂市と高山村の境にある須田氏の本城である。北はリンゴ園が広がる松川の流れる扇状地である。
扇状地の向こう北側は栗の街「小布施」である。
城のある山はさすがごつい。

主郭のある山頂部の標高は679m、麓の標高が420mくらいなので比高が約260mある。
周囲の勾配は急であり、岩が尾根に林立する。比高も高いが、比高以上にきつい山である。
しかし、主体部は尾根を利用して構築された典型的な直線連郭式の城なのでその部分は至ってフラットなのだが・・だた、そこまで行くのが・・・・。

↑ 東側、城山城前から見た大岩城。フラット部が主郭部。右側に下るのが北東尾根。

須田氏の本城といっても西の麓にある現在の蓮生寺の地にあった居館の詰めの城であり、ここには居住性はない。
あくまで詰めの城、緊急時の避難所である。

この城には2度チャレンジして失敗した。
1回目は2005年、北西端部の薬師堂から北西尾根を登った。しかし天狗岩付近で挫折。
2度目は2008年、本来の居館からの登城路、蓮生寺裏から直接登るルートを行った。
ところが登城路の先に150sくらいあるツキノワグマが現れ、俺の前を行ったり来たりして威嚇。
それは「返れ」という意思表示である。
このため、撤退せざるを得ない状態となった。

この時、手にカメラを持っていたのであるが、それをすっかり忘れていて、絶好のシャッターチャンスを逃してしまった。
惜しい!まさに「絶好のチャンスは最悪のタイミングで訪れる。」のだ。
人生、そんなもんだ。

これ以降、この城は俺にとっては、トラウマとなった。
この近くの山城には行ったのだが、どうしてもこの城には足が向かなかった。
足がフリーズしてしまうのだ。

あれから15年が経った。
2023年5月13日、「らんまる殿」の同行を得て、遂に征服に成功した。

登攀ルートは北東尾根から登った。
このルートが一番登りやすいのだそうだ。
でも本当だろうか?
このルートもかなりきついものだった。道も埋もれている。
岩場もあるし・・・いずれにせよ行きにくい城という点では上位に入るだろう。

北東端標高450m地点にある獣避柵のゲートを開け、入るが道が見つからない。
山裾が藪で道が見えないのだ。藪で隠れているのだ。
藪を少し入ると道が現れた。
その道を行くが、かなりの勾配の道である。荒れている。
途中何度か道を見失う。
一体、この道を歩く人間など1年にどれくらいいるものなのだろうか?


@ 尾根先端部の急斜面を比高約130mを息を切らして登ると
この平坦地に着く。下部に小曲輪が2つほどある。

A @の曲輪を過ぎると岩場となる。天然の防壁である。
 ここからは北方向が良く見える。写真右手の山は雁田大城。
 遠く妙高山、黒姫山が見える。
B岩場を過ぎるとこの平場となる。 C尾根をさらに進むと堀切がある。 D 尾根のピークは岩、その直下で北西尾根の道が合流する。

悪戦の末、標高573m地点の曲輪@に到達。
ここまで比高約120m、ここだけでも立派な山城である。
20m四方の曲輪と下に数段の小曲輪を持つにすぎない。
中継所のような場所である。

まだまだ先がある。
ここを過ぎると岩場である。
眺望は抜群であるAが、歩きにくい。
天然の障害物、堀、土塁同等の防御効果を持っている。

ここを過ぎると平場Bがあり、堀切Cがある。
尾根はさらに登り、大きな岩がそびえるD。
この岩の下で北西尾根からの道が合流する。
岩の上の標高は656m、主郭部の北端にあたり、ここから南が主郭部、高低差も少ない尾根となる。

この北端のピーク@は北方面を監視する物見台であろう。
ここから約600mが大岩城の主要部の城域である。

@から約200m南に行くと堀切Bであり、ここから城郭遺構が展開するが、それまでの間には堀等はない。
その代わり、巨大なギザギザ状の岩Aが尾根にある。
これだけでも防御施設として機能するだろう。

@主郭部のある尾根北端のピーク、物見台だろう。 A南に続く尾根上には岩が林立。天然の防塁である。 B曲輪X北の堀切。ここから主郭部である。
C曲輪X内部、平坦度が高い。北端に櫓台の土壇がある。 D本郭北側1本目の堀切 E本郭(左)北直下の岩盤堀切

堀切Bを過ぎると曲輪Xである。
長さは南北約45m、曲輪の幅は約10mか。北端に櫓台跡のような土壇がある。
この先、堀切Dその後ろの小曲輪、そして岩盤を掘り切った堀切Eがあり、急勾配の切岸をよじ登ると本郭Fである。

本郭は長方形をしており、31×14mほ広さ。
標高は679mである。
曲輪内に穴(井戸?)や岩がある。
本郭の周囲は石積みで補強されている。

F本郭内部 G本郭南の切岸を曲輪Uから見る。石積が崩落している。 H曲輪U南の堀切、右が曲輪Vである。

西側には帯曲輪がある。
本郭の南側が曲輪Uである。
本郭側北側以外の周囲を石塁で覆っていたようであるがかなり崩れている。
本郭側の切岸Gは崩れた石がゴロゴロしている。
曲輪Uの石塁間が開いており、その下が堀切Hである。
その南が曲輪Vである。居館があった蓮生寺からら登る道は曲輪Vの西下に出る。
曲輪Vから一段上がった場所が曲輪WIである。
曲輪Wは32m×12mの細長い曲輪である。

I曲輪W内部 J曲輪W南端から見た大堀切、谷である。 K滑り落ちた堀底。草1つなく綺麗である。

この曲輪の南端、ここが驚く。
この城の一番の見どころ、大堀切J、Kである。
幅は17m、深さは10m以上、上から見ると谷である。
下に下りようとして滑落するというみっともなさ。
これでも2mくらいは埋まっていると思われる。

不思議なことに下草や灌木がなくきれいなのである。
まるで草刈がされているような感じなのである。
まさか熊さんが管理してくれているのも思えないけど。
なお、大岩城には熊の痕跡(糞とか爪跡)は確認できなかった。
中腹あたりにお住まいか?

この堀切の工事量、すさまじい量である。
麓からここに登って来ての作業である。
果たして地元の土豪にすぎない須田氏にそんな動員力はあったのか?

武田氏または上杉氏の手が入っているのではないだろうか?
ちなみに東の尾根にある月生城には畝状竪堀群がある。
これは上杉氏の城郭に見られる遺構である。
上杉氏の影響があるようである。
しかし、それを構築した時期が、川中島合戦の頃か、はたまたそれから20年後、ここに須田氏が復帰した天正壬午の乱の頃か、分からない。

L城南端部1つ目の堀切 M城最南端の堀切。堀底に小さな土塁がある。

ここから南の尾根には特段何もなく、約120m行くと堀切Lである。
さらに少し下って堀切M、ここが城の南端である。
堀切LとM、堀底に小さな土塁がある。
おそらく柵列が堀底にあったと思う。
堀切Mの南側は土塁になっており、尾根が下りとなるが、先で再び登りとなり、登って行くと明覚山957.8mである。

大岩城からは比高280mもある。
ここには雨引城があり、本来行くことができたようであるが、尾根が崩落状態になっており、現在は不通状態とのことである。
なお、雨引城から1本東の北に下る尾根を下って行くと月生城である。
また、東に続く尾根を行くと灰野峠である。
この峠を通る街道は古道であり「謙信道」とも呼ばれる。
上杉謙信が川中島に向かう際にこの道を通ったという。今はとてもそうとは思えないが戦国時代は重要な街道だったようである。
その峠を抑える城兼大岩城の詰め城が雨引城だったのだ。
しかし、峠が敵に抑えられ、雨引城が落ちたら、今度は雨引城から敵が来襲する恐れがある。
大岩城は平地側より本郭背後の南側、雨引城側の方に大堀切を置くなど防備が厳重である。
これは雨引城を占領されたらという想定のためであろう。

築城時期は地元の土豪須田氏で室町時代のことと思われる。
もともとはこの付近は平安時代から根を張り、木曽義仲の上洛にも同行した銘族、井上氏の領土であったが、須田氏が浸蝕する。
その須田氏も須田郷の須田城(臥竜山にある。)に拠る須田氏とこの大岩郷に拠る須田氏に分かれる。
戦国時代になると、信濃は武田氏の侵略を受ける。
須田郷の須田氏の当主信頼は武田氏に付き、大岩郷の須田氏の当主満親は上杉方に付き、須田満親は越後の亡命し、川中島合戦にも参戦する。
この時、大岩城がどのように関わったのか分からない。
また、大岩須田氏が越後に亡命した後、城がどのように使われたのかも分からない。
現実に大岩城の遺構を見ても、明確に上杉氏や武田氏の影響は見て取れない。

やがて武田氏が滅亡すると須田郷の須田氏は没落し、須田満親は信濃に帰還し、海津城主になり上杉景勝から川中島四郡の支配を任される。
この時も大岩城がどのように使われたのかも分からない。
この須田満親、徳川が真田を攻めた第一次上田合戦では真田氏を支援する上杉軍を率いて出陣し、徳川軍をけん制している。
後、息子満胤が直江兼続と衝突して改易され、満親も自害してしまう。

その跡は次男長義が継ぐ、彼は上杉氏の会津移封に同行して去り、梁川城の城代を勤める。
大岩城はこの頃、廃城になったものと思われるが、もっと前に廃城になっていたのかもしれない。
なお、梁川城に入った須田長義、北の関ヶ原で伊達政宗の攻撃を受けるが、苦戦の末これを撃退し、伊達軍を撤退に追い込む武功を挙げる。
この時、伊達軍から奪った陣幕を梁川城に掲げ恥をかかせたというエピソードを残す。
さらにその陣幕の返還要請に訪れた伊達家臣にあっさり返したと言う。
また、この時、梁川城に入り、一緒に戦ったのが、佐竹氏より派遣されていた車猛虎である。
大岩須田氏、なかなか優秀で勇猛な一族だったようである。

(以前の記事)
大岩城(須坂市日滝本郷)

大岩城(須坂市本郷/高山村高井)須坂市と高山村の境にある明覚山から北に派生する尾根上にある尾根式城郭である。
城の標高は677m。比高は260mほどである。

西の山麓にある蓮生寺が須田氏館跡であり、ここから登れるということで登ってみる。
まず、北東側に延びる尾根を行き尾根の先端部に出ると、そこが平坦になっている。

これが城郭遺構であるかどうか不明であるが、そこから北に派生した尾根筋にも数段の平坦地がありこれは曲輪のようである。
尾根を東に向かうが、巨大な岩が数箇所尾根を塞ぎ、天然の塁壁になっている。
岩の上には「かもしか」がいてじっとこちらを観察していたが、飽きたようで山を下っていった。
熊でなくてよかった。

最後の岩場を越えれば城域であるが、周囲は崖であり、ロープ等の準備がなく、体調も不良であったためここで断念した。
いずれ再挑戦を期したい。
巨大な岩が林立しているので大岩城というのだそうであり、石垣もあるらしい。

建久4年(1193)にこの地に入った須田氏が築城したという。麓の須田館のつめの城である。
ここの須田氏が大岩須田氏であり、武田氏により越後に追われた一族である。
その一族からは須田満親が出ており、上杉氏家臣として活躍するとともに本能寺の変後、この地方が上杉氏に占領されると最高司令官としてようやく故郷に復帰を果たしている。
しかし、その頃には大岩城は機能を停止していたらしい。

北から見た大岩城。 北に延びる尾根筋には
曲輪が5段段々になっている。
主郭部手前に立ちはだかる大岩。 この岩の両側は崖。
装備不足でどうしても通過できず
撤退の羽目に・・残念

須田氏館 (須坂市日滝本郷)

大岩城の西の山麓にある蓮生寺が須田氏宗家の居館跡。
境内が段々状になっており、本堂付近が居館であったらしい。
背後の大岩城がある山側に段々状の曲輪があり、蔵があったという。
この寺の山門が味があって素晴らしい。
2008年11月24日、4年ぶりに大岩城の攻略を試みる。
今回は蓮生寺の墓地から登るルートを行く。この道を行くが、途中で道は途切れる。
須田氏館跡、蓮生寺山門 居館は本堂の場所であったらしい。

それほどの藪ではないのでそのまま直攀。ところが、20mほど先を黒い獣が猛スピードで走っていくではないか。
足が長い動物であることを願い注視するが、短足でずんぐりむっくりの100s超級の大物。
奴は途中で止まって、こっちを見ている。こんなんでまた大岩城攻略は断念。この城、鬼門!

米子城(西の城、宇坪城、東の城)(須坂市塩野西山/米子)
須坂駅の南東約5q、菅平方面に通じる国道406号線(大笹街道)を西に臨む、米子川と灰野川に挟まれた東から西に張り出した尾根の3つのピークが城である。
と言っても、そのピークは岩山であり、平場はあるが、ほんの少しの兵しか置けない。
長期の籠城も困難である。精々、少人数が短期間の籠城するなら使える程度のものである。
一時的避難場所としてなら使える。
しかし、ここに立て籠もっても包囲されたら脱出も難しいように思える。

↑ Tが西の城、Uが宇坪城、Vが東の城、城間は岩の尾根で繋がる。
もっとも攻める方もこんな岩山を攻めるのは容易ではない。
ヘタに攻めたら、投石を受け、死傷者が続出するであろう。
それほど登りにくい。
時間的余裕があるのなら包囲していれば水と食料が枯渇し、自落、降伏するのは確実である。

西の城(629m、36.6247、138.3386)、宇坪城(649m、36.6239、138.3409)東の城(703m、36.6255、138.3462)の3城からなる。
それぞれの城は約250m、600m離れている。
ほぼ独立していると言ってよいだろう。

南から見た西の城 南から見た宇坪城(蓑堂城ともいう。) 南から見た東の城

南北朝期の城と言われる。
観応3年(1352)足利兄弟尊氏、直義の争い「観応の擾乱」で尊氏方の小笠原、高梨氏がこの米子城に立てこもり、直義方の祢津、井上氏が攻撃したと伝わる米子城の戦いの舞台という。
この時の城がここの可能性がある。
戦国時代には、この地の土豪須田氏が菅平方面から下る大笹街道を見張る城として使ったのではないかと思われる。

2022年11月、この城の攻略に臨んだ。
宇坪城の山頂には蓑堂観音があるのだが、崖崩れで道が使えない。
このため、宇坪城と東の城間と結ぶ尾根に出ることを考えた。
国土地理院の地図を見れば道が描かれているのである。

↑プチ遭難現場を南下から見る。左のピークが宇坪城、その手前(右側)で進退窮まる。
そこで「みのどうトンネル」の入り口から急坂をよじ登り尾根に出て、尾根沿いに攻略することを考えた。
苦労してよじ登った急坂、上の尾根に出てみると・・・道なんかない!

岩が尾根上に林立しているだけ。
とりあえず岩を乗り越え、乗り越えして宇坪城側に進んでみる。
斜面は崖である。そして、行き詰まった。

尾根上、どこに道があるんだ!両側は崖である。 尾根上から見た南方向、この先は菅平高原である。

管理人の登山能力では無理だ。
おまけに高所恐怖症と来ている。
足がガクガク、進退窮まる。
岩上に座り込んだ。プチ遭難である。

そこからの景色は悲しいほどの絶景である。
ここで119番したら・・・・そんな考えも頭をよぎる。

何とかリックの中に入れていたザイルをたらし下まで降りる。
こんな岩だらけ、周囲は崖の尾根上に道なんかある訳がない。
多分、ここは修験者の修行の場であり、城とされる岩山は「行場」(ぎょうば)というものなのであろう。
その修験者の本拠が東にある米子不動尊であろう。

結局、攻略は叶わなかった。
もっとも、地元信州の猛者も撃退されたというので管理人が断念したとしても不思議ではない。
仕方ないので遠景のみ。
多分、頂上部は岩の上、取り立ててこれと言ったものはなさそうではある。

米子不動尊(須坂市米子)36.6126、138.3580
瀧山不動寺が正式名称、米子城の南東約2.5q、米子川の上流にある真言宗豊山派の寺院で、日本三大不動尊の一つという。標高は694m。
本尊は上杉謙信が寄贈した不動明王で須坂市指定文化財になっている。

通称、米子不動尊といわれているこの寺院は里堂であり、本堂はここから12q山に入った場所にある不動滝と権現滝の間にある。
この場所の位置は36.5684、138.4060、標高は1412m。2つの滝は根子岳(2207)と四阿山(2333)から北に流れ出る米子川が形成したものである。
なお、根子岳の西に広がる山麓が菅平高原である。

滝は国指定名勝に指定され、本堂は須坂市指定有形文化財になっている。
滝は落差100mを超える豪快なもので、NHKの大河ドラマ「真田丸」のオープニングに登場する。
(滝の上に城が描かれていたが、あれはCGである。城なんかある訳ない。)
ここには管理人も小学生の時に行ったことがある。
修験者はその滝に打たれる修行をしたという。

寺の開山は養老2年(718)白山信仰を確立した泰澄大師の1番弟子で修験道僧の浄定(きよさだ)という。しかし、これは伝説の域を出ないであろう。
でも、これからして修験の寺である。
開基は仏教の民間布教に尽力し、奈良東大寺に深く関与した僧の行基という。
しかし、中世前期にはかなり廃れていたようである。

この寺を中興したのが、あの上杉謙信である。
謙信は上洛した時、13代将軍足利義輝より関東管領職に補任された際、足利将軍家に伝わる念持仏の不動明王を拝領し、念持仏とした。
この仏像は永禄4年の第4次川中島合戦の際に、本陣に祀り士気を高めたと言われる。
その不動明王立像が、本尊である。

全国各地から参詣者が訪れる祈願寺であり、宿泊用の寮が建っている。
なお、住職は真田家の系統の者とのことで、寺には六文銭が掲げられている。
そういえば、ここの南が菅平、その南が真田の谷だった。
真田の忍者といわれる猿飛は四阿山で修行したともいう。
四阿山から流れ落ちる滝が不動滝、権現滝である。
何らかの関係が想定される。(Wikipedia等を参考にした。)