武田信玄と信州(2006年1月23日)

管理人は信州の生まれです。
戦国時代、信州と言えば武田信玄が侵攻し、これに対して上杉謙信が亡命した信州の土豪の要請を受けて出馬して戦国を代表とする大合戦が展開した地です。
あれから既に400年以上も経っているのに、今だにこの戦いに係る伝承は数多くあります。
そして恐るべきことに、これが遺伝子にまで組み込まれている事実が認められるのです。

これはなにも信州には限らないようであり、現在も会津の人は長州を毛嫌いしていることは間違いないようです。
かつて、会津若松と萩の姉妹都市提携の話がボツになりましたが、この理由が住民の理解を得られないという信じられないような理由でした。
すなわち長州嫌いの感情は150年を経ても健在であるということです。
以前、会津に出張した時に当地の人に聞いて、これが事実であることを確認しました。
ちなみに会津人は伊達政宗も大嫌いとのことでした。

会津と長州の戦いは150年ほど前の話ですので、まだ人々の記憶の中ではホットなものなのかもしれませんが、400年も前に地元の領主葦名氏を滅ぼした伊達政宗の名が出てくるのは意外でした。

同様に茨城県の鹿行地方では今だに佐竹氏は嫌われています。
佐竹義宣による33館主謀殺事件に起因してのことです。
管理人も鹿島に行った時、佐竹の本拠地から来たというだけで敵意を持った言動を受けた経験があります。
管理人は佐竹氏とは縁もゆかりもない人間であり、妻の実家は佐竹に滅ぼされた江戸氏の系統なんですが・・・。
鹿島の人には今だに「佐竹にくし」という感情が健在なのでしょうか?

会津での話を聞いた時、信州における武田信玄の評価を思い出しました。
武田信玄と言えば、戦国時代の名将中の名将。これを否定する人は少ないでしょう。
当然、山梨県では英雄です。ところが信州において武田信玄は極悪非道の大悪人という評価なのです。
全信州人がそうであるとは思えません。特に若者世代ではさすがに武田信玄という人物の名前は知っているでしょうが、信州で何をしたか知らない者も結構おり、彼らにとっては好きも嫌いもないでしょう。
しかし、年配者信州人なら9割方は恐らく「嫌い」というでしょう。
以前、信州の城巡りをした時、志賀城の麓であった老人、小岩嶽城であった老人、いずれもぼろくそに言っていました。
よく考えれば両城とも武田軍による大虐殺が展開されたという伝承がある城ですので、幼いころからその話を聞かされていた老人の遺伝子に強く記憶されていても不思議ではないのかもしれません。
しかし、虐殺はなかった(はず)の中野の鴨ヶ岳城の麓で会った老人も似たようなことを言っていました。
そして、彼らの言葉の中に感じられることは、滅ぼされたあるいはその地を追われた城主への同情でした。

ずっと前に死んだ管理人の祖母は「悪いことをした時は、親から「信玄が来るぞ」と脅された。」と言ってました。
管理人の親父の話ですと「子供の頃、集団でチャンバラごっこをやる時は、ジャンケンで勝った方が、上杉軍をやり、負けた方が武田軍をやるしきたりとなっており、最後は必ず武田軍が負けることが暗黙のルールになっていた。」と話していました。
こんな逸話はまだ多くあると思いますが、信州人の武田信玄嫌いの一端を示しているエピソードです。
その逆の話は聞いたことが有りません。
このように遠い昔の話が綿々と住民に伝えられ今日まで続いてきていることに驚きを隠せません。
なお、ちなみに祖母の話ですが、「強い雷が来て怖い時は、押入れに隠れて、「謙信、謙信」と唱える。」とのこと。
これらを総合すると、信州人にとっておらが殿様を越後に追い、大虐殺を行った武田信玄は「悪人」、追われた殿様を助け武田信玄と戦ってくれた上杉謙信は「正義の味方」という構図が成り立つのでしょうか?
ちなみにその悪人と果敢に戦った地元出身の村上義清は地元の「英雄」ということでしょうか。
果たして関東を荒らしまくった上杉謙信は群馬県ではどんな評価か知りたいところです。

以上のように武田信玄に対する信州人の評価はこんなものですが、その子、勝頼に対しては悪人という評価はなされていないようです。
半分信州人の血が入っていることと悲劇的な最後を遂げたことに対する同情的な感情があるのかもしれません。

信州人に人気のある(信州ばかりでなく全国的か?)戦国武将は何と言っても真田昌幸、幸村です。
よく考えれば真田氏は武田信玄の手先になった信州人であり、本当は嫌われてもしかるべきですが、「武田信玄の手先」ということは都合よく忘れて、派手な活躍と地元出身者ということが前面に出て好かれているのでしょう。

かく言う管理人も信州人ですので、祖母や親父から受け継いだ同じ遺伝子を持っているようであり、どうしても武田信玄という武将は好きにはなれません。武略、戦略、領国経営どれをとっても抜きん出た武将であることは認めるのですが・・。
信玄ファンの人には申し訳ありませんが、これが管理人の遺伝子に先祖からインプットされた情報なのかもしれません。

管理人は、どちらかというと上杉謙信の方が好きです。
あの人、単なる「戦き気違い」ということも言われ、総合点では武田信玄より下に見られがちですが、貿易、金山開発による財テク能力はやはり抜きん出ていたと思います。
戦いも統制が採れない越後の土豪連中をまとめる手段としていたのでしょう。
第一、単なる「戦さ気違い」にあれだけの人間が従い、指揮を受けるはずは有りません。
管理人は上杉謙信はもっと評価されるべき武将であると考えます。
皆様のお考えは如何に?。

ついでながらやはり、真田昌幸、幸村+信之は大好きです。
何と言ってもあの派手な活躍は戦国時代の花です。

話は飛びますが武田勝頼も管理人は好きです。ファンといってもいいでしょう。
新田次郎の「武田勝頼」を読んだ影響も大きいのですが、あの人物ほど誤解を受けている人はいないでしょう。
滅びた原因は、諏訪家を継いだため、武田氏のピンチヒッターのお屋形様という位置づけしか与えられていなかったことと金山の産金減少による経済破綻が原因でしょう。
武田勝頼は決して愚将ではなかったと思います。
ただ、「運」に恵まれておらず、金の切れ目が運の切れ目だったのでしょう。
金さえあれば軍事行動は可能であり、部下が離れて行くことはなかったでしょう。
武田勝頼の名誉回復に尽力されている方もおられますが、がんばって欲しいと思います。管理人も応援しています。