第4回川中島合戦の真相は?

戦国時代の合戦のうち、もっとも有名な合戦の1つに「川中島の戦い」がある。
「川中島の戦い」と言っても5回行われているが、普通は永禄4年(1561)に行われた第4次の合戦を指す場合が多い。

しかし、啄木鳥戦法、車掛の陣、一騎打ちと言った派手な話題が多いこの大激戦については、合戦そのものは事実であったようであるが、啄木鳥戦法などはフィクションであり、事実を裏付ける信頼に足る文献等は存在していないようである。

一般化しているストーリーは、ほとんどは軍記である「甲陽軍鑑」をベースにしている。
当然ながら「甲陽軍鑑」は、読み物であるため、物語を引き立てるドラマチックな場面が必要であり、かなりの脚色を入れた半分(以上?)は、フィクション的要素が含まれていると言われる。
ただし、「甲陽軍鑑」の詳細な記述はフィクション的要素を持つが、とりえず事実がベースであるようである。
その事実を脚色したものが「甲陽軍鑑」である。

しかし、何だかんだとは言うものの、永禄4年(1561)に大きな合戦があり、双方、大きな被害を出したというこの合戦の存在については、いくつかの信頼できる文献が断片的ではあるが存在するので、間違いない事実であろう。

当然ながら、脚色された要素と思われる妻女山布陣、啄木鳥戦法、車掛の陣、一騎打ちを含んだ、第4次川中島合戦の内容の信憑性については、以前から疑問が呈されている。

「NHK」の歴史番組(名前は忘れた。10年くらい前だったと思う。)では、両軍が霧にまぎれて撤退する時、遭遇して大合戦に進展してしまったとしていた。
しかし、この番組を見た時、「あれ?」と思った。
妻女山に上杉軍がいて、善光寺方面に安全に撤退するなら、海津城から離れた北国街道(現信越本線沿いに近い道)沿い、つまり極力、西側の山沿いに迂回するルートが、武田軍と接触する機会が最も少ないはずである。
一方、武田軍としても地蔵峠ルートで撤退するのが、もっとも安全である。
この場合、武田軍は、警戒部隊を海津城の北側から西側に展開させると思うが、北国街道方面まで展開させる必要はないはずである。
両者が接触するとすれば、上杉軍が妻女山から善光寺方面に一直線に移動し、武田軍と遭遇してしまった場合、信越本線今井駅付近に武田軍が展開していた場合である。
横田城に武田軍がいて、この軍勢と接触してしまった場合や武田軍の少人数の警戒部隊と接触してしまったとしても、局部的な小衝突に過ぎず、両軍の主力同士の激突までに発展する確率は少ないように思える。
「八幡原」付近に武田軍の主力がいたとしても、主力同士の激突に発展する確率は極めて小さいと思われる。

この難問に正面から取り組んだのが、三池純正著『真説・川中島合戦』である。
三池氏は、ほとんど無視されている大堀館(現 更北中学校)、広田砦(東昌寺)、横田城(篠ノ井総合病院南側の「会」集落)の存在に着目している。
そして当時の戦いは城を中心に行われたことをベースにしている。
これらの城砦及びその周辺には、武田軍部隊がいたことを前提としている。
三池氏は南下する上杉軍主力とこれらの城砦及びその周辺に展開する武田軍の前衛部隊が衝突し、武田軍の前衛部隊がほぼ壊滅
武田信繁など多くの有力武将が戦死、その場に武田軍の主力が海津城または塩崎城、屋代城から救援に向かい、上杉軍を押し返したとしている。
つまり、三池氏は妻女山への上杉軍の布陣はなかったとしているのである。

ところで、管理人はこの川中島の生まれである。
このような中世の城に係るHPを運営している上、川中島周辺の城も取り上げているので、この川中島合戦にもいつかは触れざるを得ないと思っていた。
しかし、これは極めて難題で悩ましい題材でり、書くことは躊躇してしまう。

管理人は、川中島一帯の地理については、自分で言うのも何だが、誰にも負けないくらい詳しい。
この付近は、ほとんどは歩きつくしている(走りつくしている)。かつての河川が、どこを流れていたかも大体は把握できる。
川中島周辺の山城もほとんど制覇した。
老人からも昔のこの付近の風景、伝承等もいくつか聞いている。

これらの知見、情報を自分なりに、統合して考察してみた。

結論からすれば、合戦の主戦場は、大堀館、広田砦、横田城を結んだ線上であったと推察する。
今の国道18号線に平行する北西側0.5kmに引いたラインである。
この想定ラインは三池氏が想定したものとほとんど一致する。
三池氏の著書を読んで、この点は改めて感服した次第である。
今、ここで書いても後の祭りではあるが、管理人がこの想定線が主戦場と考えたのは三池氏の著書が発行される前である。
以下、三池氏の著書にはない新事実を含めて管理人の説をここで記述する。

1.主戦場はどこだ?
まず、通常、古戦場と言われる「八幡原」が、主戦場であったかである。これは疑問である。
第一、海津城に近すぎる。
通説では、武田信玄がここに本陣を置いて、妻女山から下りてくる上杉軍を迎撃する場所ということになっている。
しかし、前述したように、上杉軍を迎撃するなら、ここから西2km、北国街道沿いの市立昭和小学校付近から今井駅にかけての地区が、迎撃にもっとも理想的な場所である。

川中島古戦場、八幡原の一騎打ちの像 八幡原に残る首塚 武田軍が本陣を置いたという海津城

ここは当時から源氏である武田氏の氏神である「八幡宮」があったようであり、戦後、武田軍が戦勝の儀式を行った場所に過ぎないのではないかと思う。
ここまで戦場であったとしたら、武田軍はかなり苦戦したことになる。
いずれにせよ、ここは武田信玄が迎撃のための本陣を置いた場所ではないだろう。
救援部隊を率い、海津城から出撃し、反撃指揮のための本陣にした場所なら十分に想定は可能である。

管理人が大堀館、広田砦、横田城を結んだ線上を主戦場と考える証拠には次のものがある。
(A、B、C、Dは三池氏の著書には記述はない。)

@   両角豊後守の墓は、大堀館、広田砦の間に存在する。
A 両角豊後守の墓の西、市立下氷鉋小学校の西100m地点に首塚が存在した。
(この首塚は我が家の畑にあったが、戦後、失われた。この時、さびた金属(武具?)が出た。祖父談)
B この首塚から西800mの境福寺には、川中島の合戦で焼失したとの伝承がある。
C 境福寺の北、800m地点の地名が「陣場」である。しかし、陣を置いたに該当する合戦が分からない。
 この陣は、この時の上杉軍本陣を指すのではないか?
D 広田砦の南側、広徳中学校南に武田氏の武将桑山茂見の墓(狐丸塚)がある。かつて刀が出たという。これも首塚の1つであると思われる。
E 広田砦の南西側、御厨までの間に首塚が多数存在したという。(管理人が小さいころには一部残っていた。
 いくつかの民家の中に氏神として祀られた土壇があったが、これ首塚である可能性がある。)
F 広田砦と横田城の間にある南長野運動公園に勘助宮があった。
 ここが山本勘助戦死の地という伝承があり、ここが本当の八幡原だとの伝承もある。ここの地名は「合戦場」である。

ここを山本勘助戦死の地としたのは、江戸時代「甲陽軍鑑」が有名になったため、すりかえたのであろう。元は果たして何だったのかな?)

大堀館跡(更北中学校) 広田砦跡(東昌寺) 横田城跡(「会」集落)

(国土地理院の昭和50年当時の航空写真を使用)

特に戦いの存在を伺わせる証拠は、広田砦周辺に濃密である。
したがって、この辺が最大激戦地ではなかったかと思う。

大堀館、広田砦、横田城を結んだ線上から外れると、戦場を想定させるものは少ない。
山本勘助の墓というものが、千曲川の河川敷にあるが、これは山本勘助の墓ではないらしい。
江戸時代に松代藩の家老が、有名になった「山本勘助」の墓がないことに着目し、誰の墓か分からないものをでっち上げたものという。
今、はやりの「捏造」である。
武田信繁の墓のある典厩寺は、八幡原と海津城の間に位置するが、ここは、菩提寺であって戦死の地ではないであろう。
これに対して両角豊後守の墓は粗末な五輪塔であり、リアリティがある。あの場所で戦死したという感じが強い。

大堀館跡の碑、校庭が主郭部であったという。 広田砦の土塁。手前に水堀があった。 横田城の土塁と城址碑。

八幡原付近に首塚が2基存在するが、八幡原で首実検をしたものを埋葬したものかもしれない。
大堀館、広田砦、横田城を重視しているが、当時の合戦は、野戦は少なく、ほとんどは城の陣取り戦であったといわれる。
川中島周辺の山々のおびただしい山城は、その陣取り合戦の駒だろう。
当然ながら、例え堀、土塁、柵だけあるだけで、防御力ははるかに向上するはずで、人命尊重は当時も同じであるから城を頼るのは当然だろう。

以上の考察を基に主戦場位置を考察したのが、左の地図である。緑色に塗った部分が激戦があったと推定される地域である。(地図はぜんりんのHPより拝借)

永禄4年の戦いは、善光寺付近に陣を張る上杉軍主力が南下、あるいは妻女山から撤退、
北国街道沿いに迂回した上杉軍が、海津城の前線要塞である大堀館、広田砦、横田城やその周辺に布陣していた武田軍の前衛部隊を攻撃、
大激戦が演じられ、武田軍の前衛部隊は壊滅状態となる。
海津城あるいは塩崎城からの救援部隊(主力部隊)の反撃を受けて上杉軍が撤退、というのが、真実に近いのではないだろうか?
(武田軍が側面攻撃を行ったということが書かれた資料が存在する。)
この時、上杉軍は武田軍の前衛部隊を追撃し、八幡原付近まで進出した可能性は十分にあるだろう。
武田軍の救援部隊もまとめて駆けつけた訳ではなく、準備ができた部隊から逐次、駆けつけたのであろう。
信玄自身が切りつけられたということが言われているくらいであるから、はじめに到着した部隊は信玄自ら率いた少人数の先発隊であったのかもしれない。

俗にいう川中島の合戦では、武田軍が2つに分かれるが、別働隊である奇襲部隊の方が、本隊よりも1.5倍の戦力であるのも不思議である。
この別働隊が、海津城または塩崎城、屋代城から出撃した主力部隊とすれば辻褄があう。
前衛部隊の主将が武田信繁で武将として両角豊後守などがいたのであろう。

2.妻女山布陣と啄木鳥戦法はあったか?
川中島の戦いでは、上杉軍は妻女山に陣を敷いたということになっている。
しかし、これを裏付ける資料はない。
ただし、それから20年後、天正10年(1582)、武田氏滅亡、本能寺の変後の信濃の占領を巡って、北条氏と上杉氏が争うが、妻女山から鞍骨城にかけての尾根上に上杉軍が布陣し、北条氏は川中島侵入を諦めたと言われる事実がある。
この事実が、故意か誤認か分からないが、江戸時代、「甲陽軍鑑」に入り込んだ可能性が大きい。

確かにそういうストーリーなら、物語として展開は面白いことこの上ない。
なお、天正期に上杉軍が布陣した場所は、妻女山の南の山から天城山にかけてと思われる。
この尾根筋は非常に広くかなりの軍勢が展開できそうである。
しかし、永禄4年はどうだったのであろうか?
当時、武田軍は海津城を始め、その前進基地である大堀館、広田砦、横田城にもいたはずであるが、いずれも小人数であり、上杉軍の通過を阻止できる力はない。
上杉軍はそのまま妻女山まで、一気に進むことは可能である。
ここでなぜ、大堀館、広田砦、横田城を攻撃しなかったのかという疑問があるが、そこは天才、上杉謙信のやること、わざと無視するということもあり得る。

上杉軍の本陣という妻女山の招魂社。 妻女山南の山から天城城への道。尾根は広い。
ここなら多くの兵が駐屯可能である。
天城城付近から見た川中島。正面付近が八幡原。
右手前が海津城。右の山は金井山城、左上の雪がある山は飯縄山、その手前に旭山城、葛山城。

一方、上杉軍来寇の報を受けて駆けつけた武田軍主力は、一度、川中島の西の茶臼山に布陣して、川中島を横断して海津城に入ったということになっている。
しかし、敵前横断などという大きなリスクを犯すものだろうか?

ちなみに天正10年の北条軍は、上杉軍が妻女山を押さえただけで、川中島への侵入を諦めている。
背後を遮断されることを恐れたためである。これが本当のことだろう。

いかに武田信玄が北条氏直とは資質が違うとはいえ、茶臼山に布陣し、川中島を横断して海津城入城ということはしないであろう。
陣を置くなら、背後を遮断されるおそれのない「塩崎城」あるいは後方から上杉軍を牽制できる「屋代城」だろう。
この茶臼山については塩崎城説もある。

海津城に入城するなら地蔵峠越えのルートであろう。
しかし、上杉軍が妻女山に布陣していた場合は、20年後の北条軍からも想定されるように、狭い地蔵峠越えのルートしかない(袋のねずみに近い)ため、武田軍主力の海津城入城は、なかったのではないだろうか。
武田軍が茶臼山に陣を敷いたとすれば、上杉軍が善光寺に陣を敷いていた場合だろう。
ここなら海津城や大堀館、広田砦、横田城の武田軍と連携して、南下して来る上杉軍を迎撃可能である。
第4回の戦い以前に武田軍がこの茶臼山に陣を敷いたことがあり、この事実が、上杉軍妻女山布陣説同様、故意か誤認か分からないが、江戸時代、「甲陽軍鑑」に入り込んだ可能性もある。

1.では、「武田軍の前衛部隊は壊滅状態になるが、海津城あるいは塩崎城、屋代城からの救援部隊(主力部隊)の反撃を受けて上杉軍が撤退したというのが、真実に近いのではないだろうか?」と書いた。
すなわち、この救援部隊こそが別働隊じゃなかったのかということである。

それはさて置いておいて、以下の論は、一般的に言われる鞍骨山系を武田軍の別働隊が迂回し、妻女山に奇襲攻撃に向かったという説の検証である。
すなわち、「上杉軍の妻女山布陣説が真実である。」との仮定を置いている。

永禄4年の川中島合戦では武田軍の別働隊12000が妻女山の背後を突いたことになっている。
その場合、竹山城付近から尾根伝いに鞍骨城に出て、天城城を経由して妻女山に向うことになる。
しかし、現地を歩けば、良く分かるが、この尾根道は幅1m弱しかなく、両側は崖である。
1人がよじ登りながらやっと通れるだけである。
馬など通れる訳がない。しかも甲冑を着けていたらどうなるか。
いかに当時の人間は体力があったとはいえ、これでは行軍はできない。
もし、この山道を12000もの大軍が通るなら、先頭が妻女山についたら、最後尾はまだ海津城である。

天城城の堀切。この城が要衝であるが、それほど
の遺構がないのが不思議である。
天空の城、鞍骨城の石垣。この城から延びる尾根
は細く、攻めるのは容易ではない。
天城城付近から見た鞍骨城。文字どおり、深山にある天空の城である。
この案は山本勘助が提案したことになっているが、もし、この戦法が、上杉謙信に見破られなく、奇襲が成立したとする。

当然、上杉方は鞍骨城付近までの背後の山に、物見を配置しているはずである。
ある程度の堀切、柵等の防御施設も構築しているはずである。
感ずかれないことはあり得ないし、簡単に突破できるものでもない。
それに竹山城から延びる尾根沿いに鞍倉骨城を攻撃できるルートは、極めて細い尾根であり、このルートからの攻撃なら小人数で対抗することは可能である。
谷筋から攻撃することもあり得るだろうが、現地を見た限り、尾根の周囲は崖である。
どうやってあの崖を登るのか?上から石を落とされたらおしまいである。

仮に鞍骨城が突破できても今度は天城城がある。
鞍骨城よりも鞍骨城、唐崎城、鷲尾城、妻女山の4方向に尾根が延びる天城城の方が、戦略上の要衝である。

もし、上杉謙信が妻女山に陣を置いたら、鞍骨城は無視しても、この天城城には兵は置くはずである。
この付近の尾根は鞍骨城付近よりは広いものの、防御施設を構築されていたなら突破するのは、容易ではない。
したがって、城の奪取や背後からの妻女山の上杉軍奇襲を想定した奇襲部隊による攻撃は不可能である。

しかし、要衝であるはずの「天城城」。それほどの遺構はないのである。ほとんど野戦築城陣地程度のものである。
鞍骨城付近より尾根は広く、守りにくいはずであり、鞍骨城以上に堅固な防御施設があっても良いのであるが・・。
特に鞍骨城方面には遺構は少ない。

どうも鞍骨城方向からの攻撃は想定していないように思える。
堀切が比較的多重に構築されているのは、南側の鷲尾城方面に延びる尾根筋である。

このように天城城を見た場合、この城はあくまで鞍骨城を守るための小さな砦に過ぎない。
これからして上杉軍の妻女山布陣はなかったのではないかとも思える。

武田軍による奇襲攻撃が想定できるとすれば、陽動作戦として、または何らか作戦(例えば、武田軍の地蔵峠越えの撤退作戦)を支援するなど、注意をひきつける場合の強襲攻撃である。

しかし、地形から考えると、このルートでの攻撃は、多くても1000人規模の部隊での作戦以外には無理だろう。
12000という大部隊による奇襲作戦は、現地の地形を見る限り、創作であるとしか言えない。
この話は地図の上、二次元の世界の話である。
鞍骨山系の険しい山々が連続する現実の三次元の世界の話ではない。

奇襲があったとすれば、1000程度の兵力で竹山城方面から鞍骨城方面へ、または鷲尾城方面から天城城方面への奇襲であったと考えるのが、精一杯である。
実際に武田軍による側面攻撃があったらしく、これが啄木鳥戦法に発展したのであろうが、この側面攻撃とは、苦戦に陥った武田軍前衛部隊の救援に赴いた海津城または塩崎城からの武田軍主力部隊の攻撃を意味しているのではないだろうか。
(上の地図は、国土地理院のHPから借用し、加筆したもの。)


3.まとめ
管理人は、一般的に言われている永禄4年の川中島合戦と実際にあった合戦は、かなり違ったものであったと考えている。
常識的には、上杉軍の妻女山布陣があったとは思えない。 ただ、全面否定はしない。
何しろ上杉軍を率いていたのは、天才、上杉謙信だからである。この人、常識の通じる武将ではない。

はじめは弘治元年の第2回合戦と似た感じで、上杉軍が善光寺、旭山城、栗田城に陣を張り、一方、武田軍主力が海津城に、その北側、西側の大堀館、広田砦、横田城に警戒部隊を置いた形で対陣していたのではないかと思われる。

上杉軍が南下を開始して、大堀館、広田砦、横田城の武田軍を攻撃するが、おそらく武田軍の主力と衝突することは想定していなかったと思われる。
弘治元年も南下する上杉軍と大堀館に本陣を置く武田軍が犀川付近でぶつかったと言われるので、これと似た状況ではなかったかと思われる。

上杉軍は、前衛部隊に1撃を浴びせ、城砦の1,2を落として、引き上げる程度の勝利を目指していたのではないだろうか?
つまり、局所的「勝利」を関東宣伝するための、多分に政治的配慮を考慮した限定攻撃ではなかったのではないか?

しかし、戦いは成り行きである。
1撃を浴びせるだけのはずが、武田軍の抵抗が激しく、大激戦となり、結局、主力同士の正面衝突という最悪の事態になってしまったのではないだろうか?

三池氏に言わせればこの合戦は「事故」と言うが、この見解には賛成である。

でも、このストーリーでは合戦の劇的要素は少ない。
やはり、物語としての川中島合戦は、啄木鳥戦法、車掛の陣、一騎打ちと言った派手な話題を含む通説的なものが、展開は最高であり、これ以上面白いものはない。ここまで話をアレンジした「甲陽軍鑑」の作者、天才的なアレンジャーと言える。
まあ、TVで見るには、これでいいのではないかな。
所詮、娯楽であるから、とやかく言う必要はないだろう。見るほうも面白ければ良い。