信州の山城と秋葉社

山城に行くと本郭に神社や祠が祀られていることが多い。
よくあるのが、八幡神社、源氏系の武将の城跡に多いようである。あと、東北地方なら出羽神社、千葉氏一族の城なら妙見神社、その他、愛宕神社、羽黒神社など数え切れないくらいの神社があるようだ。

信州の山城には秋葉神社(または秋葉社、以下、山城にある祠は「秋葉神社」というより「秋葉社」というほうが相応しいので山城にある祠は「秋葉社」と書く。)の石の祠がやたら多い。
佐久の平尾城、春日城、上田の武石中山城、松尾古城、浦野砦、横尾城などそこらじゅうの山城に秋葉社の石の祠がある。
多分、信州の山城にある祠のほとんどは秋葉社ではないのかと思われる。

そこで、なんで秋葉神社(秋葉社)なのか、秋葉神社って何なのか調べてみた。
秋葉神社と言えば、火の神、防火の神様である。
だから山城にある秋葉社の祠は耐火性のある石製なのだろうか(材木を山の上に運搬するのが大変なだけかも?)

岡県周智郡春野町の秋葉山(あきはさん)山頂(標高866m)にある秋葉神社が有名であり、東京の秋葉原も秋葉神社横の原っぱという意味だそうである。
秋葉原の語源になった秋葉神社は、江戸に火事が多く火除けの神として置かれたものという。
他にも有名なちゃんとした建物を持つ秋葉神社は沢山ある。

山城にある秋葉社がこれら有名神社の支店かというと、どうもそうでもなさそうである。
もともと日本人にとっては、山自体が神様であり、信仰の対象であったようである。
古代から山頂で宗教儀式が行われており、縄文時代の遺物が出ることもあるというので、どこの宗派などとも関係のない原始宗教・民間信仰がルーツであったようである。

一般的な秋葉信仰は、前記の原始宗教に天台宗の修験者による山岳信仰が融合して平安時代に盛んになったが、さらにここに神道系の火之迦具土神信仰と融合したものらしい。
一度は廃れるが、中世に足利氏、新田氏、上杉謙信、武田信玄などの戦国大名の信仰を背景に中部、関東地方を中心に再び隆盛を迎えたという。
その戦国大名の中に松平広忠がいた。家康の親父である。
ちなみに徳川家康は、松平広忠が秋葉権現に祈念して設けた一子であるということになっている。
このため、江戸幕府に秋葉信仰が引き継がれ、江戸に火事が多かったこともあり、江戸の各地に秋葉神社が建てられ、さらにこの信仰が全国に広がり、江戸末期にはその総数は27000社を数えたそうである。
なお、江戸の町々に建てられた秋葉神社は、立派な神社ではなく、小さな社がほとんどであったという。

しかし、明治の神仏分離、修験道廃止措置によって全国各地の多くの秋葉神社は廃絶してしまった。
山城にある秋葉社は、再び原始古来からの信仰に戻って、現在では実質、秋葉という名だけが残った感じである。
この秋葉社が、いつ城址に設けられたものかよく分からないが、管理人は廃城後ではなく、城が築かれる前から原始古代信仰の対象として既にあった、あるいは築城時に城の守りとして設置されたのではないかと思う。

それにしても秋口になると、どこの山の秋葉社も地元の人によりきれいに草が刈られて清掃されているのに感心する。
今でも地元の人に大切にされているのだ。
管理人も山城に行き、石の祠があると敬意を表し、脱帽のうえ、一礼することにしている。

似たような火防信仰の神社としては、愛宕神社がある。
他にも関口神社、山神社、火産(ほむすび)霊神社などがある。
特に秋葉信仰よりも全国は愛宕信仰のほうがメジャーである。
多くの城址に愛宕神社が祀られている場合も多い。
しかし、信州では、秋葉信仰も愛宕信仰も行われてはいるが、秋葉信仰の方が圧倒的に優勢である。
武田信玄が崇拝していたことも要因にあるのだろうか?

下の写真、左から浦野物見砦(上田市岡)、武石中山城(上田市武石)、平尾城(佐久市平尾)の秋葉社の石の祠。
いずれも本郭の地に建てられ、きれいに下草が刈られ清掃されているのに感心する。