石岡市(旧八郷の城)4
観音寺城(石岡市(旧八郷町)下林)36.2274、140.2101
片野城の北約500mにある観音寺が城址西端にあたる。
城域は東に広がり、観音寺の境内から下林集落の岡の北上の民家敷地も曲輪であり、土塁が残る。
片野城のある岡との間にはかつて湿地帯であった水田があり、西側と北側は恋瀬川が流れる水田地帯に囲まれ、東側から岡が半島状に延びる。
この台地は比高が10mから20mほどあり、台地先端の観音寺の地が本郭Tであろう。
ここは約100m×60mの広さがある。
本郭東側の台地基部、二郭との間に堀切Aがある。
本郭は寺の境内になっているので、明確な遺構は見られない。
北東側の台地上部の宅地が曲輪であったようで4つの曲輪があったようであり、土塁が残る。
いずれも50〜60m四方ほどの広さがある。
しかし、宅地化等により土塁はかなり失われているようである。
本来は曲輪周囲を囲っていたのであろう。
曲輪間は堀があったと思われる。
三郭、四郭、五郭の北側斜面には横堀Bが東西を覆う。

城域は約400mあり、かなり広い。南下の下林集落には家臣の屋敷や城下町があったと思われる。
位置的には片野城の北を守る出城と思われるが、かなり大きいので本来は独立した城であったと思われる。
歴史についてはよく分からない。
城主としては「小田一族友部氏」「地元の土豪 林氏または片野氏」の名がある。
なお、観音寺は建武元年(1334)に創建されたというが、本来あった寺はなくなり、今ここにある観音寺は当初あった寺とは別の寺院であり、廃城後、ここに移転してきたらしい。
ただし、本来あった寺が今の本郭の地にあったかどうかは分からない。
古城とも呼ばれるので、新城がここから移転した片野城の可能性がある。
いずれにせよ片野城とは深い関係があったのであろう。倉屋敷、大手、馬場埼、古内などの城に係わる地名が残る。
参考「八郷町史」「八郷の中世城館」
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| 西側から見た城址。 | |
川又要害(石岡市(旧八郷町)川又)36.2142、140.2037
片野城の南西約1.5q、恋瀬川の西岸、川又川との合流点南側にある。 恋瀬川の低地に面した西側の南北に長い岡にあり、西側の谷津部を県道64号線が通る。 岡の比高は10〜25m、北に向かって標高を少しずつ下げて行く。 城址は宅地になっており道路が横断するが、道路が堀であったようである。 曲輪は南北に複数存在していたと思われる。 所々に土壇があるが、これは土塁痕の可能性がある。 城の中心部は先端部の曲輪Tであったと言われる。 ここの字名が「要害」であり、土壇がある。 これは城郭遺構であろう。 南側に重なる部分の字が寺前、横室、中坪、宿屋敷、内屋は宿地名であり、ここには家臣の屋敷や曲輪Tの防衛を兼ねた宿があったのであろう。 城の歴史についてはよく分からない。 川俣氏の城であったと言う説がある。 川俣氏は小田一族であり、小田氏没落で帰農したという。 しかし、戦国時代の川俣氏の記録は未発見という。 戦国時代後期、佐竹氏と小田氏の抗争が起きた頃は位置的に片野城の西側を守る支城として使われたのであろう。 一方では始めから片野城の出城として築城されたという説もある。 参考「八郷の中世城館」 |
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| 集落内のこの部分は堀跡か? | 帯曲輪と思われる平場 |
数俵館(石岡市(旧八郷町)月岡)
| 県道138号線の小桜郵便局の北東300mの岡南端部にある。 さて、ここに突入したが、凄い小竹の藪である。堀や土橋、目では確認できるのであるが、写真を撮ったが右のように藪しか写っていない。 これでも堀底から土橋を撮影したものであるが・・・・ ところがこの藪の中、余湖さんは「こんな城の図面を描くなんてきちがいじみている!」と思いながら図面を描いたので、俺がやらなくてもね。 って訳で止めた。撤退! |

結構、規模は大きいようであるが、周囲が沼地であって始めて成り立つような城である。
城主は月岡玄蕃という。
この地が佐竹氏に制圧されると、月岡玄蕃は岡見氏の家臣となり、伊奈町の板橋城の城主となり、多賀谷氏の攻撃を受けて降伏したという。
この城の跡は江戸時代も屋敷として利用されたが、その後、移転して藪化したという。
須釜館(石岡市(旧八郷町)須釜)
県道42号線を八郷の中心部から筑波山方面に走行し、川又川を越えると右手に林がある岡が見える。
これが須釜館である。南1qがフラワーセンターである。
館は南から北に張り出した比高10m程度の岡の北縁にある。
現在、そこは須釜集落であり、台地の北縁のみに遺構が確認できる。

南の部分は民家の敷地になっていて遺構は湮滅している。
広さとしては100m四方ほどと思うが、複数の曲輪があった感じである。
残る遺構は非常に変わった感じであり、北縁近くに土壇Bがあり、そこから南と西に堀が派生している。
この土壇、氏神かなにかを祀った神聖な場所だったようであり、今も社が建つ。
あるいは古墳であった可能性もある。
堀のまわりには土塁が築かれる。
南に派生した堀Cがどこまで続いていたのか、南側が民家になっているので良く分からない。
西に派生した堀Aは2つに折れ、さらに南北@に分岐する。
その西側の堀の西側はただの畑であり、遺構らしきものはない。
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一方、土壇の東側は2段ほど、帯曲輪のようになっており、北側には土塁Dがある。 さらに東側には堀Eがある。(自然の谷津内を流れる川かもしれない。) 菅間地頭の居館を、後に小幡氏が改修して、堀ノ内館の東側の防御用の城館としたとも言うが、見た感じでは武家の平素の居館であり、戦闘用のものとは思えない。 |
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鳥瞰図は国土地理院が昭和49年に撮影したもの。
民家の上の林が館跡である。民家も館の域であろうが、遺構は分からなくなっている。
| @西側の南北に走る堀 | A Bの土壇から西に派生する堀 | B 不思議な土壇 |
| C土壇から南に派生する堀 | D北側の低地に面した縁部の堀 | E東下の堀? |
半田館(石岡市(旧八郷町)半田)
県道64号線を八郷の中心部、柿岡から石岡方面に南下し、片野城を東に見て、川又城横を通過、県道138号線との合流点からさらに南下すると右手に阿弥陀院がある。
半田館はこの阿弥陀院がある岡の東縁部に築かれる。
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岡の上にある阿弥陀寺の墓地から台地縁沿いの道を300mほど南に行くと、香取神社がある。 その東側が少し出ばったようになっており、そこが館跡である。 ここの字も「要害」、ずばり城、そのものである。館の本郭と考えられる畑の北側に道Aがあるが、これが横堀を利用したものらしい。 そして、神社に行く部分には櫓台のような土壇@がある。 この堀は東側の斜面部にも続き、南側に回る。 南側の堀Cは大きい。 最大の場所で幅10mほどある。 沢を利用した水堀、泥田堀だったようである。 ここは土塁を崩した土で埋められて浅くなっているが、ちゃんと形は残している。 本郭部からの深さは4mほどある。 肝心の本郭は内部は畑Bである。 周囲を土塁が回っていたというが、ほとんど失われている。 また、西側がどこまでなのかが分からない。 内部は畑であるが、西側は藪状態、香取神社側には堀があったと思われるが、確認できない。 香取神社境内の東側に堀跡のような窪みEがあるが、これが本郭の西側の堀だったかもしれない。 これが堀とすれば、東西100m、南北60mほどが館の大きさということになる。 また、香取神社の境内自体も岡続きの西側より若干、高い。 北側には堀跡のような切通Dがある。 このことから香取神社の地が二郭であり、さらに西側に堀があったのかもしれない。 そうすれば、梯郭式の館だったのではないだろうか。 |
| 志筑城を根拠にした地頭、下河辺氏政義の一族、益戸(または益田)与右衛門が城主という。 彼は、この地に入り半田を名乗り、代々、半田与右衛門を称したという。 南北朝時代、半田氏は南朝方、北朝方の間で揺れ動き、何とか生き残る。 しかし、戦国時代は小田氏に味方していたが、小田氏ー佐竹氏間の抗争に巻き込まれ、所領を失ってしまう。 その後、小田氏を頼って逃れたようだが、最後は佐竹氏によって土浦城が攻撃され落城した時、最後の当主、半田与右衛門が土浦の中貫で討死し、滅亡してしまったという。 航空写真は昭和49年国土地理院撮影のもの。余湖くんのホームページを参考にした。 |
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| @ここは虎口だろう。 | A北東側の横堀は道になっている。 | B曲輪内は畑、土塁は崩されている。 |
| C南側の堀、幅10mほどある巨大さ | D香取神社北の道は堀跡か? | E香取神社境内東の窪みは堀跡か |