行方市(旧北浦町)の城2

山田城(行方市(旧北浦町)山田字妙義山)
北浦が西側に入り込んだ山田地区の北側の標高40mほどの山にある。
場所は県道2号線と、183号線とが交差する「山田」の交差点の北東一帯の山である。

この山、南側は崖状、北東側に尾根が続く、そしてこの尾根続きの部分を遮断するように3重の見事が横堀が構築される点が見所である。

しかし、ほとんど全ては藪の中である。
ただし、幸いなことに見所の3重の横堀部分がある北側は日当たりがよくないためか、比較的藪は少ないのが救いである。
麓に北裏保育園があり、八坂神社がある。

八坂神社前の未舗装の道を東に80mほど行くと、民家間に北の山に登って行く道が見える。
その道を進めば城址である。
多分、この道@自体が登城路の1つであったと思われる。
主郭部はかつては畑であったが、すでに耕作は放棄され、藪状態となり、探索はかなり困難である。
坂をあがると畑の跡の平坦地に出るが、そこが曲輪Vである。目の前に高さ7mほどの土壇Aがある。櫓台であろう。

南側に廃墟状態の三峰神社があり、石段を登れば櫓台の上に行ける。
そこには羽黒神社の社殿が建っている。
頂上部は10m四方ほど。天守台のような場所であり、当時は天守閣に相当する井楼櫓が建っていたのであろう。
現在は木が邪魔であり、北浦は望めないが、ここからは北裏が一望の下であり、湖上水運に係る城であったことは明白である。
おそらく南の山田の南側付近に北浦水運に係る港があったのであろう。

この櫓台の北と西が曲輪U、すなわち本郭なのだが凄まじい、藪。とても入れる状態ではない。
土塁があったかどうかも分からない。
この櫓台の南側、東側が曲輪V、二郭であるが、この曲輪は本郭の東側から南側、そして西側半分を覆う。
南側は孟宗竹の林である。
そこから南斜面を見ると凄い急であり、防御上も問題はなく、帯曲輪も下には確認できない。

この曲輪Vから西側に下りる道がある。
この付近に物見があったらしい。
西に迂回すると1本目の横堀の入り口部がある。この堀Cが本郭の北側にかけて回る。
西側の入り口部は孟宗竹が密集し、枯れた竹があり歩きにくいが、北側に行くと幾分、すっきりして歩きやすい。
横堀は深さが5m、幅が7mほどある。

本郭北側から二郭の東側部分間に虎口、あるいは堀のようなものがある。
本来は堀が本郭と二郭の間に存在していた可能性もある。堀に面した曲輪V側には土塁Dが構築されている。
この横堀の本郭北側部分に虎口のような切れ目があり、そこから2本目の横堀Eが東に延びる。
深さ3m、幅5mほどの見事なものであり、風化はしていない。
1本目と2本目の横堀の間の土塁は東側になると幅が広がり、曲輪Wとなる。
東西50m、幅30mほどの広さである。
ここを三郭とする。

東端は1段低くなり、周囲をU字形に土塁Gが覆う。
2本目の横堀の三郭の北側位置に土塁の切れ目があり、3本目の横堀Fが東に延びる。
2本目と3本目の横堀間の土塁は段々となり、小曲輪となっている。
尾根続きの北東側からの侵入に対する崩御用のものであろう。

この城の横堀の総延長は300m程度はあると思われる。
しかも3重にも巡らせており、技巧的かつかなりの工事量を投入した城である。
城主は名前のとおり、山田氏の城である。
上の写真は南の北浦湖畔から見た城址の山である。
右の写真は登城路の途中から見た北浦である。ここに港があったのだろう。

「重要遺跡報告書U」では、山田氏について「山田城に関する確かな資料はない。
軍記物で疑義は残るところであるが、『行方軍記後世鑑』には、「天慶3年(940)伊予の藤原純友は六孫王源経基に討滅ぼされたが、武州埼玉郡の山田美濃守はその子孫で、長元元年(1028)源義家の軍に参じ武功を樹てた。寛治元年(1087)再び養家に従がい清原武衝、家衛を滅ぼした。
行方郡山田郷を領したのは、山田太郎幹国である。その後胤が山田八郎で山田館主と成った。(以上要略)」と記述されている。

@城への登り道、当時からの登城路であろう。 A 曲輪Vから見た曲輪Tの土壇
B曲輪V南側は孟宗竹が密集している。 C西側から1本目の横堀が東に延びる。 D1本目の堀の東端を曲輪Vの土塁から見る。
E2本目の堀、東端部。 F2本目の堀の途中から3本目の堀が延びる。 H曲輪W東端の土塁に囲まれた部分。

さて、『茨城県史料・中世編』の『行方郡鳥名本文書No31』「土岐景秀書状」によれば、土岐氏、鳥名木氏、山田氏の関係がわかる。
下って、「天正14年(1591)9月、石岡の大掾清幹は玉造、武田の両城を功め、進んで現鉾田町の高田塁を攻めたとあるが、山田城の動揺も充分推察出来る。
続いて、天正19年(1591)佐竹氏は南部33館を攻略し、余勢が札、島並、八甲、芹沢、山田の諸堡を解散す」で滅亡した。」と記されている。

どこまで本当か分からないが、平安時代のことは眉唾である。
古くからこの地にいた土豪であり、佐竹氏による33館攻略で滅亡し、廃城になったことだけが確かな歴史である。

航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。

前館(行方市山田)36.0758、140.5221
山田城の支城と推定され、山田城からは県道2号線を隔てて西の丘にある。
両者間は直線距離で約500mであり、県道2号線が通る谷津で隔てられる。

北から張り出した丘が山田川の流れる低地に突き出した半島状の尾根先端部に位置する。

標高は33.4m、北側は台地に続く、南北に2つの曲輪があったようであり、南側が主郭、北側が台地北側からの攻撃を防御するための曲輪である。
曲輪内はかつて畑であったが、工作が放棄され、篠竹地獄である。写真を撮っても、土塁、堀は目視では確認できるが、さっぱり分からない状態である。

館東側の横堀状の古道

主郭Tは約60m四方の規模であり、一部欠損があるが、土塁が覆い、北側には堀があったようである。
南側に虎口が開く。
北の曲輪Uは30m×50mほど、北側に土塁と堀がある。
その東側に古道があり、下る部分は横堀状になっている。
古道に面した部分は虎口のようになっている。
おそらくこの古道を扼する館であったと思われる。
(「茨城県の中世城館」参照)

中坪城(行方市山田)36.0786、140.5272 と古屋敷
山田城の支城であり、山田城の北側の谷津を隔てて北側の丘にある。
両城間の距離は直線で約500mである。東約1qは北浦である。
城のある丘の標高は31.5m、北側はノースショアCCになっている。

中坪城の南側を北西の県道2号線東に立地する大枡神社方面から延びる道が山田城の大手道であったらしく、その大手を守る城であったようである。
この道は現在は軽トラが通れる程度に拡張されているが、城の西約260mに道を遮断する堀切Eがある。
ここからが城域であろうか?
城は台形をした単郭であり、50×30mほどの規模、道の北側にあり、東西を堀@、Cで仕切り、北側以外を土塁Aが覆う。
南側、道に面し虎口Bがある。
@西側の横堀なのだが・・・藪! A主郭北西側の土塁
B主郭南側の土塁間に開く虎口 C主郭東側の掘、深さ約5mあるが、藪で迫力が出ない。 D南側の道路は山田城の大手道であったらしい。
 道路の左下に不気味で怖い?廃屋がある。

城とは関係のないことだが、この虎口下の道の一段下側に廃屋がある。
周囲は藪に覆われている。けっこう朽ち果てており、ボロボロ、壊れた窓から中を覗くと「ぞくっ」とする。
昔の航空写真を見たら昭和50年頃は現役だったようだ。
その後、廃屋になったのだろうが、悲しい光景である。
今、廃屋が各地にある。
いずれこんな風になってしまうのだろう。

E城の西260mの場所にある堀切はゴミ捨て場と化している。 大手道の始点にあった古屋敷跡はただの畑。

なお、この山田城の大手道の入り口に相当する大枡神社の南側付近に「古屋敷」があったという。
中坪城の北西約700mに位置する。(36.0817、140.5221)
現在は畑となって痕跡はないが、ここも出城のような役目があったと思われる。
(「茨城県の中世城館」参照)

小幡城(行方市小幡)36.0743、140.4833
霞ヶ浦と北浦に挟まれた行方台地、多くの城館は湖が見える丘に築かれている場合が多いが、小幡城は台地のほぼ中心部、霞ヶ浦、北浦とも離れている。
旧要小学校跡地とその南の観音寺付近が城域であり、観音寺の境内が本郭、小学校跡地が二郭であったという。

本郭の観音寺境内の鐘楼台@が櫓台跡と言われ、本堂北側に土塁がある。
小学校跡地には遺構らしいものは確認できない。


@ 本郭の地、観音寺の鐘楼は櫓台跡に建つ。

比較的明瞭な遺構が見られるのは観音寺南側の墓地であり、土塁で囲まれた方形の区画がいくつかある。
現在は墓地であるが、家臣団の居館の跡であろうか?
ここが三郭と言うべきであろう。

A墓地の周囲を土塁が巡る。 B参道脇の土塁 C北西端付近の土塁は藪化している。

そうすると、この城、南北約800m、東西約500mというとんでもない規模となる。
「北浦町史」には「寛正5年(1464)、玉造四郎正重の一族、六郎正忠が地頭として入部し、小幡氏を名乗り、一族が小幡郷を支配していく」と記述され、小幡氏の城と思われる。
城の規模から推定すれば、玉造氏の一族のようであるが、想像以上の実力があったようである。
(「茨城県の中世城館」参照)

(以前の記事)

小幡城 (旧北浦町小幡)
 
この城も場所が分かりにくい。ともかく観音寺と要小学校を目指せば正解である。
 しかし、小幡城というが、茨城町の小幡城と間違うと大変である。

 あちらの小幡城に比べたらこちらの小幡城は、ほとんど城郭遺構が失われてしまっている。
 県道134号線と184号線の交差点から県道184号線を南に進むと細道となり、坂を上がる。
 この途中も城らしいあやしい雰囲気がある。

 坂を登りきった比高15mの台地上にある観音寺や要小学校が城址の中心部である。
 台地先端にある小学校が本郭であったと思われ、観音寺との間には高さ3mほどの土塁がある。
おそらくは堀もあったと思われる。
 小学校の北側にも遺構があるような気がするが、さすがに平日でもあり徘徊はできない。

 カメラを持った男1人がうろついていたら間違いなくパトカーが来る。
 観音寺境内には東側に土塁が残り、その東側は切岸になっている。
 南側に土壇の上に建つ鐘衝堂があるが、これは櫓台であろう。

 寺の西側は曖昧な感じで城郭という感じはない。土塁があったのであろうか?
 南側がどこまでかは分からないが山門あたりで、その前の道が堀跡であろうか?
  歴史等も分からないが、地理的に山田氏か武田氏のいずれかに属する城であったと思う。

観音寺の鐘衝堂。櫓台上に建つ。 観音寺東側に残る土塁。 要小学校側に残る土塁。