飯田城(笠間市飯田)
この城は過去2度挑戦して撃退された怨念の城である。
こうなると意地である。ついに3度目のチャレンジで征服した。
1回目は2008年3月、それが東出城である。遺構はあるのだが大雑把で、本当にここなのか?
と思ったが、その後、そんなことは忘れていた。
ところが、真の飯田城はその隣、西側の岡だというのが分かった。

城のある山は笠間の国道50号金井交差点から県道39号線を1.5q北上した飯田地区の新屋から西に見える山にある。
本当の飯田城のある山の比高は40mほどであり、山から県道沿いに尾根が下っている。
県道から主郭部までは600mほどの距離である。
そこに2009年3月、1年振りにリベンジ。しかし、しつこい!まるでストーカーである。
この西側の尾根は畑になっているようであり、そこに道があり登って行けば簡単に到達できると考えた。

しかし、甘かった。
すでに畑の耕作は行われなくなっており、畑だった場所は小竹がビッシリ。
地元の人に教えてもらった道も既にイバラが密集した状態で通るととは不可能だった。

地元の人に再度聞くと、山の北側から取り付いて直攀すれば行けるだろうとこと。
一応、そこには城があることは認識されているようであり、皆「御城」と呼んでいた。
そのルートでチャレンジすることにしたが、この道も酷いものであった。

北側の谷間は水田だったようであるが、既に放棄されていて藪状態。
ススキなどが密集している状態。
多分、夏ならマムシ天国だろう。

そこを突っ切り、谷川を飛び越え、山の斜面に取り付き、木にしがみつきながら登る。
まさに藪レンジャーの本領発揮である。

↑主郭東側の谷津から見た主郭部T
急斜面で下が杉葉ばかりで滑る。

悪戦苦闘の末にようやく平坦地に。
そこには土塁を持つ横堀が・・・。
一気に疲れが吹き飛ぶ。
この横堀は帯曲輪を兼ね本郭の周囲を螺旋状に回っていた。
さらに下にもう1重の堀と帯曲輪が回っていた。

城の大手らしい虎口は県道方面から登って来る尾根方面、南東側にあり土塁間が開いていた。
もっぱら防御に神経を使う尾根方面に土塁や曲輪が厳重に構築されている。
城の規模としては200m×100m程度の大きさである。

ただし、この城の本郭は小竹の密集が凄まじくほとんど確認はできなかった。

笠間市史によると本郭内部は3段になっており、北端部が櫓台のようになっていたという。
しかし、どうにも確認のしようがなく、鳥瞰図では本郭内をフラットに描いた。

『笠間城記』によると、
「笠間領主笠間朝貞(笠間氏第4代)の家臣大嶺広基飯田を領す。
禄百石、飯田、石寺、真端を領す。陣営を飯田前原にきずき、ここに居る。
広基の子広康、その子広政、笠間氏亡びて、宍戸の城主秋田氏に仕え、広康の末葉、今に飯田村にありという。」
と書かれている。

赤尾杉家(飯田新谷在住)の系図によると、室町時代の中頃、江戸氏が勢力をもっていた時、江戸氏の家臣に赤尾杉氏があり、飯田を領したとある。
このことから、大嶺氏時代に飯田館がつくられ、城山に山城がつくられたと推定できる。

 笠間氏が滅びたのち、江戸氏や佐竹氏の支配下に入ったことがあるので、大嶺氏のあと、赤尾杉氏が飯田の地を領したと考えられている。
(重要遺跡報告書より)

「大日本国誌・常陸国」では城主は江戸氏家臣、外岡氏としているが笠間城の近くのこの飯田の地に江戸氏の家臣がいるのもおかしい。
この山にある城は、街道筋から奥に入りすぎており、見通しも良くない。
詰めの城としては十分であるが、不便である。
このため麓に居館があったと思われる。
その場所は南東に延びる尾根末端部だったのではないだろうか。

@北東部にある横堀と土塁 A本郭北下の帯曲輪 B城北端下の土塁と堀
C城南の帯曲輪の土塁 D大手の土塁 E城東の帯曲輪


飯田城東出城(笠間市飯田)
(旧題 飯田城もどき?)
上の縄張図のUがこの東出城である。一応、遺構はある!
笠間市街地から国道50号線を越え、県道36号線を七会方面に2.5qほど走ると新屋地区に至る。
この西側の山に飯田城があったという。

しかし、困ったことに当時の茨城県遺跡地図と茨城県重要遺跡報告書の城の位置の尾根が違っていたのであるが・・。(でも半分は正解である訳だが。)
これは困った。
2008年3月とりあえず、茨城県遺跡地図に示す山に突入。
この山、先端部に墓地がある。
ここから登るが、すぐに倒木地獄にはまる。何もない。

さらに登っていくと尾根上に出るが、そこに高さ1.5mくらいの土壇がある。
これが城郭遺構か古墳かは分からない。
その先に尾根に沿って100mほどにわたり、深さ1m程度の浅い溝がある。
これが堀なのかは良く分からない。
の先に平場があり、その北側に土塁を持つ堀切がある。

ただし、この堀切、土塁が北側の山側にあるので、北側に主郭があると思って向かうが、行けども行けども何もない。
結局、これだけである。さっぱり訳が分からないが、堀切は本物である。

先に述べた溝もあわせて考えると、東下の山口集落を守るため、背後の山に構築したものではないかと思う。
左の左の図は上に書いたことを図にしたものである。
だいたいこんな感じの山である。およそ城らしくは感じられない。
この構造、福田館や大渕館の構造と良く似る。
しかし、茨城県重要遺跡報告書に示す場所の城は何だろう。と当時、思った。

こちらの方が城らしい感じを受けるが。
鎌倉時代、笠間氏4代目、笠間朝貞の家臣、大嶺広基が、飯田を領し、陣営を前原の地に築いたという。
この居館が山口地区にあり、その背後を守る城がこの城であった可能性もある。
大嶺氏は笠間氏滅亡後は、宍戸城の秋田氏に仕えたという。

その後、分かったが、茨城県重要遺跡報告書に示す場所の城が本当の飯田城だった。
こっちの飯田城もどきは出城であろう。

城址の南端。先端に墓地がある。 北端にある堀。明瞭な城郭遺構はこれだけ。 左の堀の100mほど南にある土壇。古墳か?

なお、飯田城周辺は耕作放棄などで藪化が進み、歩くのが困難になり、城の北側と西側は太陽光発電所となってしまった。
幸い、城の主要部は失われていない。
さすが、遺跡じゃ手が出せなかったのであろう。
その後、2025年赤色図が公開された。
そこで赤色図と昔行った時のスケッチを基に、縄張図を作成してみた。