笠間城 外郭遺構
笠間城は茨城県で唯一ちゃんとした石垣を持つ城。
でも3.11でかなり損傷し、まだ、完全には修復されていない。
前回、笠間城に行ったのは2004.9.19だった。

まだ小学生だった末娘を連れてである。
その頃、家庭にはもう彼女と犬、猫しか、俺の相手をしてくれる家族はいなかったのだ。
こずかいを握らし、おいしいお昼ご飯を食べさせてやるという餌を吊るして・・。
彼女がいたから学校になっている城址にも「親子を装って」(本物の親子だ!)安全に突入できたのだ。

↑北側の「つつじ公園」から見た笠間城。中央が天主曲輪、右が本丸、左の山が正福寺跡。

俺にとってこの笠間城、全然興味の対象外だった。
江戸時代も使われいた近世城郭だし、近世城郭に向けて主要部はかなりの改修を受けている。
中世、戦国時代から使われていたのだが、戦国時代の姿がどこまでなのか、どうも曖昧である。
そんなことでずうっと忘れていたというか、無視していた。

しかし、発掘が行われ、2023年度の茨城城郭サミットでその発掘成果が紹介された。

現在、笠間城として整備されているエリアは駐車場になっている三の丸(的場丸、千人溜)から本丸までである。
これが近世、江戸時代の笠間城の範囲である。
でも、遺構はさらに広範囲に広がっていたのだ。

このうち、北西側にある遺構は大黒石から谷津を隔てて南西側の尾根にある。
谷津越に曲輪の平場が見えてはいた。
でもド藪だった。冬場以外、入れるような状況ではなかった。

また、駐車場の東の山、正福寺があったという山も興味はあったのだが、時間が過ぎ去り、結局、行かず終いのままだった。

2026年2月2日、Sさんと一緒に22年振りにその外郭遺構に行ってみた。
外郭遺構、そこはほぼ中世の世界だった。
近世っぽい雰囲気はあまり感じられない。
正保絵図(1645)を見れば、近世、江戸時代の初期は武家屋敷等に使っていたようだが、城下に武家屋敷が整備され、時代が進むと使われなくなったようである。

この外郭遺構は、主郭部の北側一帯である。
それ以外の方角には遺構はない。
なぜ北側なのか?
北側には何が?誰が施工した?
残っている遺構を見る限りでは、かなり大規模な工事をしている。
笠間氏時代この方角には江戸氏や宍戸氏がいた。
でも彼らはそれほどの強敵とも思えない。どこまで脅威だったか?

笠間城の主郭部の石垣等は慶長3年に笠間城に入った蒲生郷成が施工したとされる。

折しも関ヶ原の前夜である。
蒲生氏は家康側である。
笠間城の石垣化は対佐竹を意識したものとされている。
笠間領は佐竹領に囲まれた島のようなものである。
その佐竹氏の本拠は当時は水戸である。
何か事があったら佐竹の主力は水戸方面から笠間盆地に侵攻するであろう。

当然、佐竹氏の脅威に備えるために構築した、及び佐竹氏を牽制するためと考えるのが妥当であろう。
いずれにせよ対佐竹を念頭に置いて構築されたものと考えてよいだろう。
当然、蒲生郷成の考えではないだろう。然るべき者が指示したのだろう。
おそらくその者は家康だろう。

石垣化された笠間城とこの外郭遺構を見れば、佐竹氏は中立ではなく、家康からは西軍側として見られていたということが理解できる。

以下、その遺構を見ていく。

上の図は国土地理院の地図を使い、以下に紹介する遺構の場所を示したものである。

正福寺跡遺構(36.3850、140.2695)

この山には中世から明治初頭まで正福寺が存在していたという。
僧房もあったが近世初頭には移転させられていたらしい。
しかし、明治初頭の廃仏毀釈で潰されてしまったという。
日本もタリバンのようなことをしていたのだ。

寺のあった山は段々状CDEになっており、寺院があった。
百防とも呼ばれている。
絵図ではかなり豪勢な伽藍(鐘楼?)が描かれており、礎石も残っている。

城に寺が隣接していたなんて安土城みたいである。
寺のある山の直径は約150m、標高は150mである。
的場丸が140.2mなので10m高い。
寺域も当然、城の領域である。
寺が抱える僧兵も笠間氏の軍事力の一端を担っていたはずであり、ここも曲輪である。

その西側から北側を巨大な横堀@ABが覆う。深さは約7mある。
小幡城並みの規模である。
この横堀の存在で城の一部であることが分かる。さて、その横堀、誰が構築したか?史料では何の裏付けもないようである。
管理人、笠間氏ではないかと思うが・・。
@北側を覆う横堀 A @の横堀の外側土塁 B Aの土塁上から見た掘底
C正福寺の一番下の平場 D正福寺の2番目の平場 E正福寺の最上階の平場

正福寺跡北東部遺構(36.3850、140.2690)

正福寺の東側に位置する。
径約150mの大きさである。

最高箇所の約100m×80mの広い曲輪Fがあり、部分的に土塁がある。

北側、東側に横堀CDを回し、南側は帯曲輪Hが数段重なる。
西側は広い曲輪@になっていて、ここに武家屋敷があったとされる。
城の北東側を守る出城である。

ここで北の坂尾方面から侵攻してくる敵や東側の標高183mの山方面から侵攻してくる敵を阻止しようと意図しているのだろう。
@西端の平場、周囲を土塁がある。 A窪みと思ったら堀である。 B主郭部西端、櫓台のようになっている。
C北側の横堀、通路になっている。 D東側の横堀、若干登りになっており、主郭南下に出る。あ E東端、東側の山と仕切る横堀
F主郭内部は広く平坦、発掘が行われている。 G主郭南側の土塁間に開く虎口 H南側の帯曲輪、数段重なる。


北西尾根遺構(36.3855、140.2650)

的場丸(三の丸)の西側、西に延びる尾根に構築されている。
標高133.6m地点から114m地点まで約100mにわたり5つの曲輪@があり、その末端、最西端部に約100m×50mの広い曲輪Aがある。
ここに武家屋敷があったという。

曲輪周囲を土塁が覆い、その外側は横堀Eが囲む。
ここは中世の雰囲気があり、中世の城郭遺構を僧房を経て、武家屋敷に転用したのであろう。

南西側に尾根が続き、二重堀切Eがあるので麓から登る通路があったようである。

その東側の、的場丸の西下に展開する谷津部にも平坦地があり、武家屋敷があったというが、ここは谷底のような感じである。
谷津部は湧水がある等、ジメジメしており、生活空間としてはどうだったのか疑問が残る。

注目すべきは南側の尾根である。
この尾根に深さ約10mの巨大堀切FGがある。
さらに西下にも堀切Hがあるが、その間は緩斜面であり、何かあった形跡はない。
この尾根に道があったのは確実であるが、道がどうつながっていたのかはよく分からない。
@的場丸側から腰曲輪が段々に重なる。 A北西端の広い曲輪は土塁が覆う。 B北西端下を覆う横堀
C Bの横堀は西側にカーブする。右下が二重堀切E。 D BCの横堀は西下に竪堀となって下る。 E北西側に派生する尾根の二重堀切。
F西側の尾根の大堀切、深さ約8m、上から見ると谷! G Fの堀底、外側(左)にも土塁がある。 H F、Gの堀の先にある堀切。堀切間には遺構はない。

以上の3か所は蒲生氏が対佐竹用に構築したもの・・・と推定すると面白い。見た目はほぼ完成された感じである。

果たしてそうか?
管理人、これらは笠間氏が構築したものではないかと思う。
笠間氏、小領主である。それほどの力があったのか疑問であるが、傘下の橋本城、羽黒山城を見るとそれなりの工事量を投入している。
それにライバルの益子氏の西明寺城などの工事量を見ると、笠間城並みの規模であり、実力は軽くは見れないと考えられる。
笠間氏が行った部分に蒲生氏がさらに手を入れたということではないだろうか。

しかし、これらの遺構の北側は比較的緩やかで広い尾根が続くだけであり、特段、敵を阻止するようなものがないように見える。
これでは敵はそれほど苦労することなく上記の外郭遺構まで侵攻する可能性がある。

城兵が少なければ兵を分散させず集中運用するのが望ましいので、防衛を放棄する手もありえる。
山が険しいとか、谷津が連続するような地形なら防衛を放棄する方法も合理的である。

でも、あまりにも北側は平坦であり、そこに何もないというのもおかしい。
って、ことでSさんが探し歩いた結果、正福寺北東遺構から約400m北の坂尾方面に延びる広く緩やかな尾根に巨大な横堀が存在していることの連絡があった。
そのため、2026年2月24日、確認に行った。

坂尾尾根遺構
確かに巨大な横堀は存在していた。場所は36.3874、140.2704である。標高は108m。
堀@は直線状ではなく、緩く湾曲しており、長さは50m、堀幅は14m、深さは6〜7m、堀の両側に土塁Aが盛られ、土塁の高さは約2.5mであった。
ほぼ尾根全体を遮断するように構築されている。

@堀底、深さ6〜7mあるが、さらに2m位深かったと思われる巨大なものである。
A北側を覆う土塁。高さ2.5〜3m。 B南側から道が横堀状になって堀の東側で合流する。

尾根の東側は谷津であるが、谷津には竪土塁を伴う竪堀となって横堀が下っている。
この横堀の南側では南側から尾根を下ってくる道Bが横堀状になり、横堀の南側の土塁裏から東側の谷津に面した場所に出てくるようになっている。
この横堀は明らかに中世の遺構であり、尾根上の侵攻を阻止するように構築されている。

しかし、正福寺北東遺構までの間には何もなく、北側も平坦で広い尾根が続くだけである。

尾根西側の谷津部に面した尾根斜面に「コ」の字形をした堀がある。

谷津部に平行に土塁と堀が構築され、堀の両側から谷津部に出る堀がある。

単独で存在している場合もあるが、部分的には5つ互い違いに存在している場所もある。
大きさは一律であり、画一的である。
堀の最長部は20mである。

一見、遮蔽塹壕、谷津部を進んで来る敵を土塁の陰から銃撃し、怯んだところを堀両側から出撃し打ち取るための銃座に見えるのだが・・・。果たして戦国時代に類似の遺構があるのだろうか?

土塁の上に木を置き、土を被せれば、簡易のトーチカとなる。戦国時代でもありそうではある。
近代の戦争でもそのようなものはある。
旧日本軍が演習用に構築したとも考えられる。
しかし、ここで演習をしたという記録はあるのか?
部隊とすれば水戸第二連隊?または太平洋戦争末期に東海、阿字ヶ浦海岸に上陸予定だったアメリカ軍を迎撃する部隊か?

軍事的なものではなく、自然薯堀の遺構?それとも笠間焼の粘土採掘溝?金等の鉱物の採掘穴? トーチカ風に施工すれば何等かの食物の貯蔵庫とも思える。果たしてこれは何だろうか?

やはり、軍事用のものと言うのが説明に合理性はあるような気がするのだが・・戦国時代?日本軍?
さらに、尾根上を約400m北に行くと、尾根東側に長さ約20m、高さ約2mの土塁が現れる。

36.3899、140.2704、標高87mの位置である。
始め、これは古墳か?と思ったが細長いので違うようである。

しかし、尾根の東側に位置しているのだが、西側には土塁はない。
西側は平坦地が広がっているだけである。

土塁が存在していた痕跡すらないのである。
これは一体なんだ?
あまりにも中途半端である。

なお、この谷津部、北側の出口に食い違い虎口構造を持つ「坂尾土塁」(36.3913、140.2683,標高57.3m)がある。


↑食い違い虎口構造を持つ坂尾土塁、この先の坂尾集落が根小屋の1つだろう。
→北側の国道50号線から見た坂尾土塁。左右の岡上に城郭遺構らしいものがある。
正面の山が笠間城である。

従って、上記に紹介した構造物は一概に城郭遺構と無関係のものとも言えない。
その坂尾土塁は谷津部の入り口にあり、この谷津の中の道が笠間城に北側から行く道であることを示している。
この土塁は笠間氏が構築したと言われる。坂尾集落が根小屋の1つであったと推定される。

その土塁のある谷津の東西の丘の平地に面する北側部分が人工的な段々になっているのである。
この段々の段差、約4m、西側の台地北端は4〜5段ある。↓

西側の岡はかつてキャンプ場(36.3915、140.2667、標高83.6m)だったといういうが、航空写真を見ると段々は昭和22年撮影のものにもうっすら写っており、キャンプ場造成以前からあったようである。

もっとも、谷津部に坂尾土塁があっても、その左右の岡上に迂回されて攻撃されたら容易に突破されてしまうであろう。
岡上を防御しないととあの食い違い虎口を持つ土塁の意味がない。その意味であの段々も遺構の一部ではないかと思う。

もう一つの推測案はあの部分は笠間城から北に延びる末端である。

北から敵軍が来る場合、一番先に目に入る部分である。
そのため、威嚇効果を狙った可能性もある。
つまり未完成を誤魔化す見せかけということでもある・。
実際、岡の内部(段々の後ろ側)には何もなく、平坦地が広がっているだけである。

新に確認された遺構及び遺構の可能性があるものを見ても、周囲に何もないのが不思議である。未完成のようにも見える。
この程度の防御遺構なら簡単に突破される恐れがあるだろう。

「つつじ公園」になっている城の北西側の岡、富士山にも位置的に見て、出城があったのではないか、と推定されるが、現状では何も分からない。
古い航空写真でもよく分からない。近世江戸時代に改変されてしまったのか?

正福寺跡北東側遺構等の外郭部遺構のさらに外側の遺構群が今一つ曖昧な理由として以下のことが推察される。

1つ目として、蒲生氏が入ったのは関ヶ原の戦いの2年前である。
ここから関ヶ原までの2年間に主郭部を石垣化し、外郭部を構築するだけで時間的に厳しく、その外側までは手が回らなかった。
あるいは十分な工事人を確保できなかった、ということもあり得るだろう。
関ヶ原の戦いが終わった後は、防御設備は不要となり、工事は取りやめになった、という仮説。

2つ目として、これらの尾根は広く緩やかであり、応援部隊の宿営地を想定し、それも敵から良く見える北側に配置し、威圧することを考えていたのかもしれないという仮説。
ただし、果たして笠間城に増援部隊を送る余裕が東軍にあったかどうか疑問である。
当時の笠間城は周囲を佐竹氏の勢力に囲まれた孤立地帯なのである。

3つ目、これらの遺構群は蒲生氏以前の戦国期のもの。
天正18年(1590)に坂尾土塁の北側、山内山の南(36.4009、140.2940)で笠間城の宇都宮氏家臣玉尾氏の軍と江戸氏の軍が戦い、江戸氏が敗北した「金沢の戦い」があった。
当時は小田原の役不参加を問われた笠間氏が滅亡し、宇都宮氏家臣玉生(尾)氏が笠間城に入るが、その混乱に乗じ、江戸氏が笠間城奪取を狙い攻撃して起きたのがこの戦いである。
その時、玉生氏が笠間城の外郭陣地としてここを使った可能性がある。
しかし、この戦いは奇襲であり、玉生氏に構築の余裕があったとは思えず、笠間氏時代に築かれたものを使った、あるいはこの戦いの後、玉生氏が構築した可能性があろう。

1、2は蒲生氏関与説であるが、笠間城の蒲生勢それほどではないだろう。精々3000くらいだろう。
その兵員を広いエリアに分散配置させることはないだろう。防御範囲を縮小し、兵力を集中させるのが鉄則である。
その点からして坂戸土塁付近まで整備しようとしたことはあり得ないだろう。

果たして真実はいかに。
個人的には坂尾尾根の大堀切、坂尾土塁付近の遺構は蒲生氏以前、笠間氏または玉生氏時代の構築物ではないかと思う。