福田館(笠間市福田寄居)
国道50号線から県道61号線が分岐する才木交差点の北東約3q、涸沼川の右岸にある福田寄居地区の香取神社の地が館跡と言われる。
神社は西側の岡から東の水田地帯に下る緩斜末端部に位置する。

神社の場所が館跡とされるが、館跡という感じはなく、初めから神社として造成されたように思える。
東側から参道が延び、本殿までの間に2段の段差があり平坦地になっているがどこの神社にでもあるようなものである。

しかし、本殿の左右、東西に延びる堀A、Bがある。
長さは本殿西側Aが約60m、東側Bが約40mあり、深さは約4m、幅は10〜15mある。
これは城館遺構であろう。

さらに、この堀に平行して西側に土塁aがあり、その西側に堀跡と思われる窪み(土塁を作った時の溝か?)がある。

そこから西側の岡には何もない。
館があったとすれば岡の末端部の本殿の東側と思われ、堀は背後の防御用の遺構と思われる。

城館としては居住性はあるが、防御は弱く感じるが、現在、水田地帯となっている東側は当時、湿地帯であり、ある程度の防御性は有していたのであろう。
なお、ここの字名は城館に係わる「寄居」であり、館が存在した可能性の証拠の1つとなろう。
神社は廃館となった後に建てられたのであろう。

笠間氏家臣福田氏が館主と言われる。福田氏は「秋田家諸子文書」の「福田氏系図」によると下野芳賀の領主、紀姓の下野大夫の流れで、鎌倉末期ここに移り福田を称したという。
参考:笠間市史

香取神社の位置口。境内は3段になっている。 社殿の脇にある堀A。
結構、立派なものである。
左の堀の西側には土塁aがあり、
その外にも堀(窪み)がある。

金井館(笠間市金井)
国道6号線から県道39号線が分岐する金井交差点の北約400〜600mにある2つの方形館から成る双子館である。
東館、西館と呼ばれる。

西側の岡から東側の水田地帯に傾斜する斜面末端部にあり、標高は約56m、東側の水田地帯からの比高は約8mである。

東西2つの館の間は約120m離れている。
規模は両館とも約80m×70mの同規模の方形館であり、周囲を土塁と堀が廻る。
東側に虎口があり、西側に搦手の虎口がある同構造である。
どちらが上位の館であるか分からない。
土塁の高さは3〜5mであり、堀幅は4〜5mである。
両館跡には民家が建っている。
土塁と堀は一部、失われているが比較的良好な状態で残存している。

館の来歴は不明であるが、笠間氏家臣の居館と考えるのが妥当だろう。

東館内部は民家である。 土塁の高さは3mほど。北側に折れがある。

岡の宿館(笠間市大橋岡の宿) 
笠間から県道61号線を城里(常北)方面に8q走った岡の宿地区西側の比高40mほどの山にある。大橋城ともいう。
この山の北で東流している涸沼川が向きを南に、さらに南西方向に大きくカーブを描く。
旧道脇に笠間市が建てた城址碑があるが、さて、どこから登っていいのか分からない。
そこで地元の人に聞くと、よく知っているおじいさんがいるというので紹介してくれた。
その80歳くらいのおじいさん、親切にも城址まで案内してくれた。しかし、軽々と山道を歩く足腰の強ささすがである。
麓からの道を登ると城の南東側に開く虎口に着く。館の内部はほぼ全周、曲輪内から高さ1mほどの土塁が覆っている。

しかし、内部は傾斜している。これでは居住できたかどうか疑問である。
曲輪内部を測量してみたが、40m四方の正方形であった。周囲に堀が巡っているが、東側は堀外側の土塁を崩してしまったということで腰曲輪状になっている。
比較的傾斜が緩い南側は全面に土塁を持つ堀が巡っている。
西側は堀切状になっている。北側は山の傾斜が急であり、犬走りとなっている。
「重要遺跡報告書」によると、西側に「西館」という曲輪があったというが、そこは平坦ではあったが、特段、城郭遺構は見られなかった。
戦国時代、ここは、江戸氏の領土であり、江戸氏と佐竹氏が争った時に、江戸氏重臣、外岡美濃守(内原の大足城の城主)が、江戸領西端部の守備のために築いたといわれている。
詳細は不明であるが、規模と造りから見て、佐竹領城里方面からの侵攻路である中山峠方面を監視する城であろう。
居住性は少なく、緊急時に要員が詰め、監視と狼煙台としての役目を担った場所ではないかと思う。
@ 土塁間に開く館の虎口 A館南西側の横堀 B館北西側の堀

大渕館(笠間市大渕)
笠間市街地から国道50号線を挟んだ北側の大渕地区に大井神社がある。
延喜式にも登場する古い神社である。この大井神社の社殿の西側にこんもりした杉林がある。
この杉林のある山が茨城県遺跡地図では大渕館としている。
この山は北側から南の平地に張り出しており、末端部で大井神社のある尾根とこの山がある尾根に分岐する。
標高は70m程度、比高は20m程度の山である。
西側からこの山に突入する。すると、堀がうねうねと山に続いている。
長さは50mくらい。深さは2m、幅は5m程度であるが、かなり埋没している感じである。
この堀は山の頂上部では曖昧になって若干窪んだ道となっている。埋められた感じである。
遺構はこれだけである。この山の南側の集落の字を「堀の内」という。
言うまでもなく城館を示す地名である。どうもこの館とは、主郭部がこの集落であり、その南側、東側、西側は水田地帯で湿地。
山続きの北側をこの堀で遮断した構造であったようである。
館の来歴は不明であるが、笠間氏家臣の居館と考えるのが妥当だろう。
下左がこの館?のイメージ図である。

南から見た城址。右の民家付近が居館跡?
正面の木の左に横堀の出口が見える。
これが、山中を這い回る横堀。

稲田館36.3707、140.2004と稲田城(笠間市稲田)36.3657、140.2021

JR水戸線笠間駅の西約500mに稲田神社(36.3685、140.2066)があり、その間を国道50号線が通る。
稲田館は稲田神社から北西約500mの山にある。

↑稲田神社(左の森)北東下から見た城址のある山、比高約100m。正面の民家の横に土塁がある。
 石が手前に積んであるが、ここは石材、稲田石の産地である。

国土地理院地図を見ると標高173.9mの三角点が表示されているが、その場所ではなく、そこから東に張り出した尾根突端部に位置する。
館としては小規模なものであり、東西約100mの直線尾根式の城館である。
明確な遺構は堀切1本のみである。

最上部の主郭は東西11m、南北6mに過ぎず、その前後に緩く傾斜した曲輪が続き、東下に3段ほどの腰曲輪が確認できる。
東に下る一部塹壕状の道があり、これが登城路であったと思われる。
その道が下った麓、稲田神社の北西側谷津部の民家(36.3693、140.2038)には土塁が残る。
ここの標高は64m、館までは比高が約100mとなる。
おそらくここが山上の館を管理する麓居館ではなかったかと思われる。

@唯一の明確な城郭遺構、西端付近にある堀切。 A主郭部とは言っても狭いものである。 B東の斜面に腰曲輪が3段展開する。

一方、主郭の西、鞍部に唯一明確な遺構である堀切があるが、規模は深さ約2mであり、南側に竪堀が下る。
その西側は人が一人しか歩けない細尾根になっており、北側は崖である。
これは崩落したものと思えるが、館があった以前に崩落していたものか、後世に崩落したものかは分からない。
前者のケースであれば格好の防御用のものとなる。

C館西端部は崖になっているが、いつ崩落したものか? 館西側の尾根の途中に抉れた堀のような場所がある。
多分、石材採掘跡ではないかと思われる。
館から南東下に下る道は横堀状、登城路だろう。

この崩落場所の西側に三角点があるが、その付近は広い尾根であるが遺構はない。
ここは住民等の避難場所であったかもしれない。
尾根はさらに緩やかな下りとなり西に続くが遺構はない。
標高160mの鞍部を過ぎると、再度登りとなり西端にピーク(36.3703、140.1969)がある。
標高は173m、館主郭部からは西に約300mの位置である。
上が直径約5mの平坦地になっているが、西方向を警戒する見張り台の可能性がある。

なお、それまでの間の尾根の南側に大きくえぐったような場所がある。
一見、堀のように見えるが、石切場の跡と思われる。

館南東下の民家には土塁がある。 左の民家前から東に笠間城が望まれる。

館はこの程度のものに過ぎないが、この簡素な造りから笠間城へ情報を伝える狼煙台ではないかと思われる。
笠間城は東約6kmに位置し、山にある館からは木があって見えないが、麓からは良く見える。
この地の西は益子氏との境目であり、笠間氏と益子氏は境界を巡り紛争を度々起こしていた。
その最前線の羽黒山城等からの狼煙を笠間城に伝達する中継所であったのではないかと思われる。

稲田館は笠間氏初代時朝の重臣、時朝の父頼綱の猶子、稲田頼重の館と言われる。築城は鎌倉時代初期元久2年(1205)と推定される。
稲田氏は笠間氏重臣として続き、天正18年(1590)小田原の役が起こると笠間氏当主綱家の名代として稲田頼国が秀吉に参礼したという。
この後、笠間氏は改易されてしまうが、稲田氏が笠間氏滅亡時点でも重臣であったことが分かる。

その居城は西念寺(稲田御坊)の北の山(丘)にあったとされ、茨城県遺跡地図では西念寺の北の丘が稲田城とされる。

しかし、そこには城館の遺構は見られない。
果たしてここが、笠間氏重臣の城なのか?

↑ 茨城県遺跡地図では稲田城は西念寺の北の丘ということになっている。
 西念寺の御頂骨堂付近である。
 でもそこはただの山、遺構は確認できない。本当にここか?


重臣クラスならそれなりの居城を持つはずであるが、この稲田には重臣の居城と言えるような城は存在しないのである。
それとも稲田氏は拠点をこの地から別の場所に移しているのか?
ただし、西念寺から稲田館の西にある物見台のような平坦地のピークに道が延びているのである。

(現在はピーク部付近の道はほとんど消失)そのピークと稲田館の間の広い尾根は避難場所と前述したが、稲田城の場所が西念寺の北側にあったとすれば、そこが避難場所でもあり、そこを守るのが東端の稲田館だったかもしれない。
狼煙台と避難場所の2つの役目があったのかもしれない。

この稲田館と麓居館と思える遺構は稲田氏の拠点とは思えない。
麓に住んでいたのは稲田館の管理の役目を持つ稲田氏の家臣であろう。

笠間麓城(笠間市笠間)

笠間城が築かれる前の笠間氏の居館であったという城である。
その場所については諸説があるようであるが、笠間神社北側が有力という。

この場所は笠間稲荷神社北にある美術館のさらに北、笠間稲荷神社の鳥舎がある場所の北側である。
ここに高さ2mの土塁がL型に残存している。

北側が用水路であるが、堀跡であった可能性がある。
しかし、遺構はこれだけであり、全体像が掴めない。
周囲の道路が正方形に巡っており、これが掘り跡なのかもしれない。
多分、鳥舎のある場所を本郭とし、さらに美術館などの値を外郭とした笠間稲荷の北側に隣接した二重方形の館ではなかったかと推定する。

笠間稲荷神社
別名、胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷ともいう。
茨城県笠間市にあり、日本三大稲荷の一つとされている。

祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)で五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間350万人の参拝客が訪れ、正月の初詣は茨城県初詣参拝者数第一位だそうである。
伝承では白雉2年(661年)に創建されたとされるが、近世までの沿革は不詳である。

常陸国風土記には「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記され、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれている宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられているという。

鎌倉時代から戦国末期にかけてこの地を支配した笠間氏が崇拝し、笠間氏滅亡後、江戸時代には歴代笠間藩主が崇敬し、初代松平氏をはじめ松平(戸田)氏、永井氏、そして忠臣蔵で有名となる浅野氏、井上氏も移封先にも分祀しているほどである。
最後の藩主牧野氏も笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定め保護した。

ここは藤棚や菊人形でも有名である。
この神社は正面の拝殿が写真に載るが、この建物は昭和35年建築のもの。

建築物で素晴らしいのは、その裏手にある本殿である。
江戸時代 安政・万延年間(1854-1860)の建築であり、国の重要文化財。
銅瓦葺、総欅、権現造である。特に一面に施された木彫りの彫刻が見事である。これらには後藤縫之助作「三頭八方睨みの龍」
「牡丹唐獅子」弥勒寺音八(上野国)、諸貫万五郎(武蔵国)作の「蘭亭曲水の図」があるそうである。

笠間稲荷神社の拝殿 拝殿の裏にある国重文の本殿 本殿に施されている見事な木彫