竜ヶ井城(桜川市真壁町田)36.2617、140.0956
真壁城南西約1.5q、筑波山系の湯袋峠付近から北西に派生する尾根末端付近にある。

↑北側、真壁市街方向から見た城址のある尾根、背後の山は筑波山
もちろん「竜ヶ井」は「要害」が訛ったものであり、極めて一般的な、どこにでもある名称の城である。

「平良兼」館と伝えられる場所が山麓にあり、その詰めの城とも言われる。しかし、城は戦国時代のものであり、平安時代のものではなく、この話は伝説の域を出ない。

この城には2023年12月17日、Sさんの案内で行った。一人で行ったら多分、迷うのじゃないかと思う。
結構、行くのが面倒くさい。

城には北西下の土取り場の跡を転用したバイクのトライアルコースから上がるか、北下の金井集落南側の山裾に愛宕神社から上がる。
愛宕神社からの道は横堀状であり、古道であろう。
トライアルコースから上がる道は登りやすいが、途中に遺構らしいものがあったのかは分からない。

しかし、戦国時代の城にしても不完全な形である。
城の東側はちゃんと造られているのであるが、西側がダラダラ、途中から自然地形になってしまうのである。
このような感じの城はだいたいは陣城、あるいは築城途中で放棄されたかのいづれかである。
城の東側を堀@、Aが巡るが、これは道を兼ねたものであろう。

曲輪は2つあるというが、北側の曲輪Uは中途半端でよく分からない。
造成途中という感じである。
南側が主郭Tであるが、内部Eは比較的平坦ではあるが、それでも削平は甘い。
80m×60mの広さ。標高は131m、比高は約90mである。

北側の曲輪Uとの間に堀切Bがあり、そこから西側に横堀Cが派生する。
しかし、この横堀も途中で消える。
@城東側の掘は通路を兼ねる。岩が所々にある。 A @の掘は主郭東下では道っぽくなる。 B 主郭北側の堀切
C Bの掘からは南に横堀が派生する。 D Aの掘は主郭の南側で竪堀となって西に下る。 E 主郭内部の削平は良く無い。大きな岩が所々にある。
主郭の南側には土塁があり、その下を東から回る横堀が竪堀Dとなり西下にくだる。
ここまでの城なら取り立てて注目するようなものではない。

注目すべきはこの城より、湯袋峠方面に延びている尾根にある遺構である。
この遺構、かつてはほとんど注目されていなかった。
2018年、地元に「竜ヶ井城山の会」が立ち上がり整備をしてくれた。
その結果、尾根に沿って構築された長大の掘が姿を現した。

竜ヶ井の南側の尾根を南東に進むが、しばらくは何もない。
ただの広い尾根が水平に続くだけである。

300mほど進むと、横堀Fが出てくる。
深さは6mほどか?これが二の堀である。(一の堀は城を取り巻く堀か?)堀は北側の尾根にもある。

2つの堀の間が通路ではないかと思う。
この堀はしばらくして終わり、また平坦な尾根になるが、再度、堀が出てくる。G
「三の堀」である。

堀は2本あるが、北側の堀は途中で道になるが、南側の堀は曲がりくねりながら約600m続く。
深さも深い場所では5mほどある。H、I

城の横堀と言ってもおかしくない。
カーブする場所などは横矢がかかっている感じである。
それでいて堀は登っていくのである。

やがて、百貫石という岩場Jで一旦途切れる。
この場所の位置は36.2549、140.1018,標高は263m、二の堀入り口が132mなので、130mも登ったことになる。
城からは1q以上離れている。
さすがにこのような岩場では堀は掘れない。

岩場の背後は堀切Kになっている。この岩場が砦も兼ねているようである。
横堀はこの岩場を過ぎて再度現れるが約200m行って突然終わりとなる。
F二の掘は深さが5mほどあり、城の掘より立派! G三の掘の入口 H三の掘は曲がりながら登っていく。
I三の掘はさらに続く。 J三の掘は百貫石という岩場で途切れる。 K百貫石の背後には堀切がある。

さて、この堀であるが物資輸送や人の往来と防御施設を兼ねたような堀底道という感じである。
「三の堀」はまさにその通りなのだが、「二の堀」は堀間の尾根を歩かせていたと思われる。

二の掘の横堀は純粋に尾根を斜面側からの攻撃から守るための防御施設であったのであろう。
これを模試図にしたものが下図である。

堀間の平坦地を歩かせるのは、長野県松本市の亀山城-西牧城の尾根間に類似したものがある。
一方、尾根に曲がりくねった横矢が架かる横堀を掘り、通路兼迎撃場所にしている例は山入古道等に見られる。
こちらは、多くの類例がある。

竜ヶ井城とこの横堀の位置付けは何だろう?
「真壁町の城館」は竜ヶ井城を関ケ原直前、下館城の徳川軍に対峙した佐竹方の真壁城の後詰めの城と推定している。
後詰めの城なら陣城程度で十分である。

真壁城を見下ろす位置からも、逆にここを取られると、真壁城が危険な状態になるので確保しておく必要があるし、ここから後詰め行動も起こせるからである。
この考察が管理人も妥当と思う。

背後の道は防御と輸送を兼ねたものであろう。
この横堀の工事量、膨大である。
余程の財力がある者でないとできない工事である。
佐竹氏なら十分可能であろう。

おそらく、正規の輸送路は湯袋峠から谷筋を下る道であろう。
ただし、谷筋を通る道は大雨等の自然災害に弱く、襲撃にも弱い。
そこでバイパスとして山上を通る道も整備していたのであろう。
山を通る道なら大雨で通れなくなる確率は低いし、兵を潜ませる場所も限られるので襲撃されにくい。

横堀状の道が途中で終わっているのは、整備中に関ケ原の戦いの決着がついてしまったからだろうか?
関ケ原の前夜を想定させる遺構としては谷貝峰城も挙げられる。
意外な場所に裏関ケ原の戦いを推測させる遺構が隠れているようである。

長岡堀の内(桜川市真壁町長岡)36.2917、140.1136
真壁城の北約1.5q、樺穂小学校の東側の200m四方の範囲が館跡と言われる。
館主は真壁氏一族長岡古宇田氏とされる。
「堀の内」「御正作」等の字名が残るが、遺構らしいものは確認できない。
この場所@の標高は43m、南側の水田からは比高約2mの東西に長い微高地上の一角である。
東から流れ出る不動沢川Aを南側の水堀とし、この川の水利を管理していたのではないかと推定される。
(「真壁町の城館」(真壁町歴史民俗資料館編)を参考にした。航空写真は国土地理院のHPから借用)


@館跡推定値を南側の不動沢川沿いの道から見る。
正面の家付近が少し高くなっているが、関係あるのか?

A館跡(左)の南を流れる不動沢川。
 水堀兼用水路だったらしい。右側の水田地帯より、館跡は
約2m高い。


道夢様用かい掘(桜川市真壁町伊佐々)36.2710、140.0861
真壁市街地の南西約1q、桃山中学の北西側の集落に館があったらしい。
ここの標高は34m、西側の桜川の開析した水田地帯からの比高は約5mである。

↑西側、桜川低地の水田地帯から見た館跡の微高地の集落

東から西に張り出した微高地である。
しかし、集落内には遺構らしいものは確認できない。
地図を見るとこの集落、東西約300m、南北約200mの範囲で道路が長方形に回っており、その内側にも約100m四方に道がある。
どうも二重方形館だったようである。


↑用かい掘と言われる用水路。
左の航空写真での水色の線がその用水路である。

「道夢様用かい掘」とは集落と水田地帯間を流れる用水路のことであり、かつては水堀だったらしい。
ちなみに「道夢」は戦国時代、小田氏と抗争を繰り返した猛将と言われる真壁久幹のことであり、「用かい」は「要害」の訛りから来ている。
ここに城館があった名残である。
真壁城の南に当たり、出城の1つであろう。
(「真壁町の城館」(真壁町歴史民俗資料館編)を参考にした。航空写真は国土地理院のHPから借用。)

椎尾城(桜川市真壁町椎尾)36.2533、140.0703
「しいのお」と読む。
真壁城の南西約3q、紫尾小学校から県道41号線を挟んで西側のが城址である。
ここの地名、ずばり「堀の内」である。
東側から桜川の低地に延びる微高地の末端部にあり、標高は32m、西側の水田地帯からの比高が約6mである。

↑北側から見た城址、水田地帯は桜川の東岸の低地、左の山は筑波山
城の範囲は約300m四方と推定され、所々に遺構が確認できる。
南側を紫尾川Aが流れ、今はコンクリート化されて雰囲気は失われているが、水堀を兼ねていたという。
その川に面した南西端部に土塁、虎口が残るが、民家の中である。
かろうじて高さ約3mの土塁@が庭の一部になって残っているのが確認できる。

川沿いに宝筐院塔、五輪塔Bもある。
これらの存在から城があったことが伺える。
集落北側の道路は掘跡という。

@民家の庭に残る土塁、庭と一体化していて分からん! A城址南側を流れる水堀を兼ねていた紫尾川 B紫尾川沿いに残る宝筐院塔、五輪塔

C旧筑波鉄道線路跡(右側)北西側の丘は墓地になっている。
ここも城域であろう。
D南西端部にある神社の社が建つ島状の微高地

北西側をかつて筑波鉄道の線路があり、現在はサイクリング道路「つくばりんりん道路」となって城址が分断されているが、その北西側の墓地となっている丘Cも城域のようである。
また、南西端にある神社の祠が建つ方形の島状の境内Dも城域と思われる。
城主は真壁一族、椎尾氏という。
(「真壁町の城館」(真壁町歴史民俗資料館編)を参考にした。航空写真は国土地理院のHPから借用。)


亀熊城(桜川市真壁町亀熊)36.2853、140.0935

この城、以前行っているのだが、中途半端なHP記事だったので、2024年1月、近くを通った際に再訪した。
行ったのは本郭部である。
本郭部は墓地になっている。
以前行った時、納骨があったのか、多くの人がいた。
とても、入って行ける雰囲気じゃなかったので、ちょっと覗き込んで帰った。

さすが、今回はそんなことはなかった。
墓参りに来ていた夫婦にあっただけだった。

亀熊城は真壁城と真壁市街地から桜川を挟んで西岸の丘にあり、標高は38m、桜川からの比高は約8mの丘にある。
本郭は約50m四方の大きさ。
桜川に面しており、桜川が水堀の役目を果たしている。
北西部が一段高く、その部分から墓地になっている。

かつてはもっと墓があったような気がしたが、・・・・その意味が分かった。
墓仕舞いが進んでいるのだ。
墓地、入口部には墓石が沢山、積み上げられていた。
これも過疎化が進んで、墓が管理できなくなってきているためだ。
さすが、ここ真壁は石材の産地、見た目、かなり石材の質が良く、大型の立派な墓石が多かったのだが、悲しい光景である。
こんな光景、日本であちこち見られるのだろう。

@本郭の南側は畑になっている。 A本郭の北側に掘跡が明瞭に残る。
BAの掘は西側では竹藪になる。 C南側、県道7号線沿いに残る坂虎口

本郭の東側にも掘があったようであり、四方に掘が廻っていたようであり、北側から西側にかけて掘がL型に残存し、北側の曲輪が民家になって残る。
一体、どこまでが城域であったかは分からないが、亀熊集落全体が城域で約800m×350mの範囲だった感じである。
(「真壁町の城館」(真壁町歴史民俗資料館編)を参考にした。航空写真は国土地理院のHPから借用。)

(以前の記事)
亀熊城(桜川市(旧真壁町)亀熊)
真壁市街地の北東、桜川西岸比高5m位の岡の南端部にある。
この付近は民家と畑が多く、かなり破壊が進行しているようであり、どこまでが城であったのか良く把握できないが、所々に土塁のような遺構が点在する。
もっとも城の感じがするのは南端部であり、堀跡や段郭が明確に見られる。
「真壁町の城館」でもこの部分を城郭遺構としている。
この地の地形から推定すると城は真壁城と似たような平城であり、北側、西側には大規模な堀と土塁が存在していた可能性がある。

この城は真壁城に移る前の真壁氏の本城であったという説もあるが真偽のほどはわからない。

真壁城が機能していた時も城の西側を守る城として機能していたと推定される。

城域は東西200m、南北600mとかなり広いがインパクトは少なく、どこが中心部であったのか検討が付かない。

真壁氏家臣団の武家屋敷の団地、城砦集落のようなものであったのかもしれない。
城址中央東に一段と盛り上がった部分がある。 城址南側。道の脇が堀になっている。

城域内には古く広い民家が多くある。これらは真壁氏が秋田に去った後、帰農した家臣の子孫の家なのではないだろうか。
古い寺もあったというが、寺も城域に取り込まれていたのであろうか。