古輪要害(常陸太田市大中町)
常陸太田市の旧里美村にある里美小中学校の西南西の山が城址である。
山の東裾を里川が流れ、水堀の役目を果す。
東から見た城址(ギリシャ数字は縄張図に示すピーク) | 南東側折橋コミュニティセンターから見たピークV |
その里川、大きく東に張り出し、再度、西に曲がる。その場所にある集落が「古輪」である。
この集落、北、東、南が里川に囲まれ、西側は山地である。
極めて要害堅固な地形である。
館を構えるならこんな場所が望ましい。
ちなみに地名の「古輪」これは「曲輪」の訛ではないかと思う。
しかし、現地に行って見ても、土塁等、居館があったような痕跡は確認できない。
その西側の山地こそが古輪要害なのである。
H城址東下を流れる里川は水堀を兼ねる。 | 里川の蛇行に囲まれた古輪地区。ここに居館があったのか? 後ろの山が城址。 |
古輪地区に居館があったなら明らかに古輪要害は詰めの城とか物見台である。
ここの標高は198mである。
その古輪要害、この城、まとまった1つの城ではない。
3つのピークがあり、それぞれのピーク部が段々になっており、埋没しかけた堀切が確認できる、・・と言った曖昧というか緩い感じである。
付近にある折橋清水館と似たような感じであり、山入の乱の頃に使われた古風な城と思われる。
遺構が分散しているため、城域は南北約350mに及ぶ。
城は北端のピーク(278m、36.7219、140.4910)が主体郭(T)であり、そこに行く通路を抑えるのが2つ目のピーク(283m、36.7214、140.4905)のU。
そして、背後の監視が最高地点のピーク(323.4,36.7197,140.4897)がVである。
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UとVの間が曲輪Wである。こには東が比較的なだらかな斜面であり、途中に帯曲輪Gのようなものがある。
この場所も城域なのであろう。
東下からはここに登る道があり、これが登城路であろう。
DピークTとU間にある堀切、ここも埋没が激しい。 | Eピ−クTの主郭。里美の谷が良く見える。北側は崖! |
ここから南に登るとピークVである。
古輪地区からの比高約125m、それなりに高い。
遠くからも目立つ山である。
ピークVの頂上部@は13m×8mの広さ、周囲と派生する尾根筋に腰曲輪Aを展開させるが、堀切は確認できない。
ピークUはピークTに通じる尾根上のピークであり、通路はピークの両側を通る。
それを抑える施設である。
南端に堀切Bがあるが、埋没が進んでいる。
ピーク部Cは径約7mの平場、周囲に小曲輪が見られる。
FピークTの西に派生する尾根の曲輪群。 | GピークU南側の緩斜面にある帯曲輪 |
ピークTとの間は鞍部になっており、平場と埋もれかけた堀切Dがある。
そこを過ぎ登って行くと、3枚の小曲輪を経て、曲輪Tの主郭Eである。
ピーク部の主郭は8m、8m、6mの三角形をしており、北側、東側は崖状の急斜面である。
この方面からの攻撃は不可能である。
ここからは里美の谷が一望である。
西に下る尾根筋Fには10段以上の小曲輪が構築させる。
このような構造であるが、尾根上の小曲輪ばかりであり、まとまった人数を収納できるスペースはない。
あくまで物見といった感じである。
この付近は山ばかりであり、緊急時に住民はどこの山にも避難できるので避難城は不要なのかもしれない。
むしろピークVは避難支援用のものかもしれない。
明神峠防塁(常陸太田市徳田町)、見つからず。
峠に防塁が築かれる例がいくつかある。
だいたい峠は国境等で一番高い場所である。
高い場所に防塁があれば、登ってくる攻撃側に対しては極めて有利である。
場合によっては石を転がせばいいこともある。
一方、峠に明神が祀られる例も多い。
江戸時代は神社は何でも明神と呼んでいたとも言うが、峠の明神は交通の安全を祈願するためのものだろう。
そのため「境明神」が多く見られ、峠が「明神峠」と呼ばれる例も多い。
タイトルの明神峠もその1つである。
国道349号線の茨城、福島県境、茨城県常陸太田市徳田町と福島県矢祭町大供(おおぬかり)の間にある標高367mの峠である。
中世は常陸国と陸奥国の境に当たる。
ここに何かないのか?
常陸太田市教育委員会のHPに「境神社(境の明神)と猿喰の大ケヤキ」として以下の文が載っていた。
「徳田町は、国道349号と里川が町内を縦貫し、福島県に隣接する市内北端に位置します。
県境はその昔、常陸国と陸奥国の国境であったことから、国境線として延々と土塁が築かれていて現存しています。
県境の国道付近を明神峠といい、この高台には文永3年(1266)に国境の守護神として佐竹氏が建立した境神社があります。
またこの一帯には、国境を守るための城、通行人や物流を取り締まる関所、番所、木戸等が置かれ、現在も往時をしのばせる城跡や地名が残っています。」
この中で「 国境線として延々と土塁が築かれていて現存しています。」という部分にピンときた。
土塁?それって城郭遺構じゃないか!長塁があるのか?
で、確認に・・・。結論、「分からん!」
一番、低い場所には国道349号線Cが通る。
その東の一段高い場所に「境神社(境の明神)」があり、南側から参道が延びる。
この参道、尾根に付けられいる。
古い石段でありけっこうきつい。
@境神社境内、削平されていて広い。 | A神社から東に尾根が延びるが土塁らしいものはない。 | B Aの尾根のピーク、標高401m、茨城福島の県境。 平場になっているだけ。周囲の尾根にも堀切、土塁はない。 |
社殿が建つ場所@は標高380m、東西約30m、南北約50mの平坦地。
北側を低い土塁が覆うが、これは神社に伴うもののように思える。
神社境内の北側は急斜面、城の切岸としても十分機能する。
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C神社西下の狭隘部を国道349号線が通る。 写真の先が峠で県境になる。 |
東が山に続くが神社との間は溝のようになっており、山沿いに山道が延びるがこれは古道か?
問題は東に続く尾根、土塁があるなら、その尾根である。
で、その尾根Aを登るが・・・尾根上は広いが、土塁はない。
尾根の北側(福島県側)は傾斜が急、尾根直下には尾根と並行して道がついている。
尾根の先、最高箇所のピークBは若干広い平場になり、三角点はあるが曲輪という感じではない。
ここの標高は401m、県境でもある。
ピークからは尾根が周囲に派生しているが、周囲の尾根筋には堀切は確認できない。
結局、人工的な土塁は確認できなかった。
しかし、神社からこのピークまで尾根沿いに柵列を並べれば防塁として十分、役には立つと思われる。
それとも土塁は別の場所に存在しているのか?
愛宕山館(常陸太田市(旧里美村)大中町)
「Pの遺跡侵攻記」を見て行った館である。
この城については茨城県遺跡地図に城址マークが付いていなかったので完全に見逃しをしてしまった。
旧里美村の中心部大中宿の西側の愛宕神社の建つ山が館跡である。
東下に里川が流れ、さらに南側に沢があり水堀の役目をしている。
館には愛宕神社の参道を登ればよい。
大中宿からの比高は60mほどあり、山の斜面の勾配は急である。
北から南に延びた尾根を利用した館であり、南端部に双子のようなピークがある。
その南側の直径15mほどの広さのピークに愛宕神社が建つ。
ここが本郭であろう。
参道がある南側に2段の腰曲輪があり、参道自体も曲輪であった感じである。
一方、40mほど北側に長さ20mほどのピークがある。
その北側は一気に15m下り、途中に2つほどの小曲輪がある。
ピークの麓には堀切があった感じはない。
本格的な城郭遺構はそこから80mほど尾根を北に行った場所にある。
そこには幅3m、深さ3mほどの立派な堀切があり、佐竹系山城の特徴である主郭側に土塁がある。
全長150m程度の小さな城館であり、歴史も分からない。
物見か狼煙台として使った館であろう。
下の右上は南側から見た館跡のある山。右下の写真は鳥瞰図のCの位置にある堀切である。
なお、写真の番号は鳥瞰図中の撮影位置番号である。
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登城口である愛宕神社参道入口 | @ 社殿(本郭)直下の参道は曲輪? | A本郭南下の曲輪から見た本郭 | B本郭を北側の曲輪から見る。 |
参考 「Pの遺跡侵攻記」
上の台館(常陸太田市(旧里美村)徳田町永戸)
里美の谷の最北端にある館。 800m北は明神峠、ここを越えれば福島県矢祭町である。 館は里美の谷の東側、里川が北から西下をカーブして流れ、そのカーブに南から突き出た山の先端部にある。 城のある部分は、標高が367m、里川からの比高は50mほどある。 山の北、西側は急坂であり、里川が天然の水堀となり、この方面から攻撃される心配はない。 東側はやや勾配は緩いもののかなりの急坂である。 登城路はこの方面であり、今もその道が残っており、ここを通れば城址に行くことができる。 南側は標高が高い山である。この方面からの攻撃が想定されないことはないが、この山方面に迂回することはかなり困難である。 この方面から攻撃するのは源義経くらいだろう。 館は東から登る道を行けば5分で到着する。 明らかに虎口と思える場所を通ると、そこは堀状になっている。 この堀状の場所の北側が館の主要部であるが、内部は3段の曲輪があるだけである。 |
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しかし、比較的平坦で曲輪は広い。 北側が一番高く、土塁状になっており、西端に稲荷社がある。 この土塁上からの眺望は良く、西側、北側が良く見える。 明らかに街道監視の機能が見て取れる。 その南側が3段になっているが、各曲輪内は南に緩く傾斜しており、曲輪間のみ1.5mくらいの明確な段差になっているだけである。 各曲輪は東西70mほど、南北は40mほどである。 館はこの程度のものであるが、虎口から南側も平坦であり、曲輪であったと思われる。 この館については中野丹後という者が館主であったと言う。 しかし、居住できるような場所ではない。先に街道監視の機能があったと書いたが、それだけの機能にしては、内部は結構広いスペースがある。 この館の西下は棚倉街道が通り、その街道は常陸太田から棚倉方面に通じる佐竹氏の行軍ルートである。 この館は佐竹軍の宿城、または集合場所ではなかったかと思われる。 この場所であれば、1000人程度の人間が安全に宿営できそうである。 左の写真は西側から見た館跡である。鳥瞰図中の番号は写真の撮影場所を示す。 |
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@ 館の入口の虎口? | A 北端部の土塁 | B 曲輪傾斜し内は鬱蒼とした杉林 |
参考 「余湖くんのホームページ」
和台館(常陸太田市(旧里美村)徳田町)
行石館から1.5q、国道349号を北上し、徳田宿北のせせらぎの郷がある。
この駐車場から県道349号線をはさんだ西側の段丘一帯が館跡という。
県道からの比高は7mほど、里川からは10mほどである。
この丘、北側は畑と人家、竹林であるが、土塁の残痕と思えるようなもの、曲輪らしいものがあるが、遺構であるか自信が持てない。
西側の山に山城があるのかと突入するがただの山であった。
そこは物見台のようなピークはあるが、堀切等もないただの山であった。
館主等は不明。
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せせらぎの郷駐車場から見た館跡 | 館跡には曲輪のようなものがあるが。 | 館跡内部は畑である。 | 土塁残痕のようなものがあるが本物? |
行石館(常陸太田市(旧里美村)小妻町)
小中交差点からを国道349号を1q北上すると、里美牧場方面に向かう県道245号が分岐する。 里川の橋をわたった台地の上が行石集落であり、そこが行石館である。東側は山が迫る。 山の麓の段丘が館である。館は集落で民家になっているため、遺構は不明瞭であるが、民家内に土塁が残る。荒蒔氏の館という。 この里美地区は戦国時代、岩城領であったという。しかし、里美の谷は佐竹氏の奥州進出ルートであり、さらにこの館の主、荒蒔氏は佐竹氏の有力武将であり、大子の拠点城郭、荒蒔城の城主でもある。 そのような者が里美にいたということも、里美が岩城領であったことに疑念を抱かせることである。 |
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