鉾田市(旧大洋村)の城

札城(鉾田市札)36.0859,140.5476
前回、札城に行ったのは2005年3月3日だった。
それから19年後、2024年3月20日、Sさんの案内で再訪した。

19年も経つと、どこに車を置いて、どこから城に行ったか、記憶はなくなっている。
しかし、城址に行ってみると段々記憶が蘇ってくる。
当然と言うか、幸いと言うか、遺構は19年前と変わらなかった
本郭北側の掘は相変わら豪快である。
深さは8m、いやもっと深いか?
鹿行の城、掘がやたら深く、でかい。
藪化しているかと心配したが、藪の状態も当時とそれほど変わらなかった。

この城、改めてよく見ると、本郭付近のみが厳重な造りであり、南側のエトク屋敷、二郭、普門寺が建つ三郭は東側の防御が弱く、捨曲輪と言った感じである。
こちら側は居住の場というべきだろう。
その東側にも城域が広がっており、湮滅してしまったかと思ったが、どうやら始めから城域ではなかったようである。


↑ 普門寺から見た西側、北浦と北浦大橋、対岸には山田城がある。
@本郭(左)北東端の櫓台と掘、深さは約8m、幅は約25m。 A本郭北側の掘、西側の参道脇、さすがここはきれい。 B本郭南東端部で掘が分岐し、東側は二重の掘となる。
C本郭北東下の腰曲輪

以前の記事

札城(鉾田市(旧大洋村)札)
 
札の集落に面する東側の山末端部全体が城域である。
 西に北浦を望む。現在は北浦西岸とは北浦大橋で結ばれているが、北浦方面から橋を渡ると正面に見えている山が城址である。
 古くから北浦の水運に係った城であったのであろう。
この城、結構大きく、東西500m、東西200m程度ある。

札の集落内の道は狭く車で来ると駐車場探しが1苦労である。
この場合、札公民館が駐車場として最適である。
 ここから少し北の安福寺の裏の道を北の松尾神社に上がっていけば良い。

そもそもこの参道の右手が高い切岸になっており城郭の一部である。
 鳥居の所まで来ると右手に堀が見えてくる。
この堀は東で2本に分岐し、1本は鳥居の右手前方に見える郭Tをぐるっと回っている。

 
 特にこの曲輪の東側と北側の堀は幅10m、深さ6mほどの豪快である。
この曲輪の西、鳥居のある平坦地にこの堀は合流するが、ここも腰曲輪である。
 この堀に囲まれたこの郭Tが防御が厳重であり、本郭であろう。

先端部の松尾神社のある郭Uが一見、本郭のように見える。
 この曲輪には郭1側に土塁を持ち、東に降りる虎口がある。
しかし、狭く、氏神が祀られていた神聖な場所であり、本郭ではないであろう。
 
言わば腹切り曲輪でもあり、物見にも使われていたと思われる。
同様な形式は付近の島並城、小高城も同じ形式であり、遠く佐竹系の宇留野城や石神城、水戸城も類似の形式である。
 登り道の右手に見えるのが郭Vである。
西側と郭Vの切岸は鋭く、高さ10mはある。 
本郭北側の横堀。 郭U南側の土塁。 郭Vと郭W間の堀切から見た郭V
郭Vと郭W間の堀切 郭W東側の堀切。深さ8mほどある。 郭W南側にある櫓台跡。

また、この部分は堀切のような形で郭Vと分断されている。この堀切状の道を上がっていくと小盆地のような場所に出る。
 東は山である。どうもここが館址ではないかと思われる。

 東の山側から攻撃されたらひとたまりもないので、堀や土塁があってもよさそうであるが、主郭側から堀と土塁が延びているが、八幡神社の鳥居のあるところまでであり、その南には確認できない。
耕作のため破壊されたのかもしれない。
 ここまでが北半分の部分であるが、安福寺からの登り口の右手に勾配の急な切岸が見える。
 この南側が南半分の部分である。
ここは普門寺の墓地になっている。
ここも曲輪であるが、「コ」字型をしており、北端と南端部がひときわ高くなっている。

 北端部は3段ほど段々になっており、全面墓地になっている。
 最上段部は北側にある郭T、Uよりも5mほど高い。南端側も土塁状になっており、一面の墓地である。
 ここを東に行くと、深さ、幅とも10mはある大堀切に出る。
 この堀切で東側の山と遮断するとともに、南に通じる堀底道も兼ねていたようである。
 北側と南側の間は堀状になっている。
 西側に下る道があり、ここを降りると郵便局前に出る。

  常陸大掾の流れを組む馬場氏の一族が築城し、札氏を名乗ったという。
 または平國香の後裔平繁幹がこの地に来て築いたともいう。
 両説には300年以上の違いがあるが、ルーツは常陸平氏であることには違いはない。
 以後、戦国末期まで札氏はこの地を支配する。
 札氏も南方33館の館主であったため、天正19年(1591)佐竹義宣に常陸太田城に招かれるが、虐殺にはあっていない。
 当主、札幹繁は小里に逃れてそこで病死したともいう。
 佐竹氏との密約があって、生命だけは保証されたともいう。

 しかし、城主としても生命は絶たれ、以後廃城となったと思われる。
 城郭遺構は台地縁部に比較的良好に残っており、予想以上に広い感じの城である。
 しかし、台地上、縁部東の山との間の平坦部の遺構が曖昧である。
 この部分は畑にするには適切な場所であり、耕地化され長い年月が経って分からなくなってしまったのであろう。


武田城(鉾田市(旧大洋村)二重作)
 
北浦東岸、県道18号沿いの二重作から東の岡に登り1q、古屋山という比高25mほどの台地上にある。
この台地上南の縁部に淡島神社がある。ここからさらに未舗装の農道を東に500mほど行く。
農道はそこまで。後は畔道を歩く。この北側から城内に突入。
下の写真は北側から見た城址である。

城のある部分はこの台地の南側に半島状に突き出ており、そこに40m四方ほどの土塁B、Dで囲まれた単郭の曲輪が残されている。
残念ながらここも杉の藪でろくに歩けない。

北側に横堀Aが残り台地と遮断される。
さらに北側にも土塁@と堀が存在していたようであるが、耕地となって湮滅しているようである。
この横堀、東側は竪堀となる。
西側、東側は犬走りになっている。
南側は腰曲輪になっており、虎口が開き、外枡形になっている。
そして西下に道Cが下る。
A主郭北側の堀 B主郭内から見た西側の土塁 C先端部から西下に下る道 D主郭南西端の土塁

甲斐武田氏の流れを組む武田次郎左衛門尉が築城したという。
彼は甲斐の騒乱を逃れ鹿島郡司小久保七郎元従を頼り、二重作に住むようになったという。
その後次郎右衛門信定、次郎右衛門尉就利、四郎右衛門信忠と続いた。
3代就利の時に佐竹氏の家臣となり、慶長6年の佐竹氏の秋田転封に同行せず、信忠は小見川の領主内田若狭守に属していた。
のち帰農し現在に至っている。


阿玉館(鉾田市(旧大洋村)阿玉字城亀) 
旧大洋村はかつては都会で働いていた人が退職後に住むための別荘地として土地が売り出され、そこら中に別荘風の建物が建っている。
老後は温暖なこの地で家庭菜園などをしながらのんびり過ごすというのが売りだったと記憶しているが・・・。
しかし、実際はどうなのか?
聞くところによると都会風の自分勝手な主張をして原住民との軋轢を生んでいるとか、税金を納める額より使う額の方が大きいとか、色々な話があるようだ。
別荘風の建物以外は林と畑といった田舎の地である。


一応、館南側の堀と土塁を写したのだが・・・
これじゃあ、さっぱり・・この館、どこを撮っても藪。
とりあえず、到達記念の証拠写真

その中にこの阿玉館がある。
別名は「城亀城」という。
館跡のすぐ北側に東電の大洋変電所があるので、これが目印である。
変電所は西の県道18号阿玉交差点から国道51号汲上交差点に向かい1.2kmほど走った市道沿いにあり、変電所の西側の小道を進めば堀があり、土塁がある。
そこが館跡なのだが・・・。ここも凄まじい藪である。
とても内部を歩ける状態にない。80m×60mほどの単郭の方形館であるが、遺構はほぼ完存のようである。
堀はかなり埋もれてはいるが、土塁上からの深さ3m、幅5mほど。虎口は西側にある。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。

阿玉城(鉾田市阿玉)36.1673、140.5204
大儀寺境内が城址である。
東約500mが北浦であり、標高は32.6m。
やや奥まった場所である。鹿行大橋からは北約1qに位置する。


@寺北側に残る長さ約70mの掘。

寺北側に土塁と幅約10m、深さ約2mの掘@が東西約70mにわたり残る。
寺の入口の土塁Bも遺構と思われる。
途中から南に掘と土塁が南に延びているAので複数の曲輪があったと推定されるが、全貌は分からない。
北約100mに掘と二重土塁が北東側の谷津に沿って残るが、この遺構と寺の遺構が関係があるのか分からない。

中居時幹の第3子、幹時が阿玉氏を名乗り、東約500mにある阿玉館に住んだが、後に阿玉城に移ったという。
(「茨城県の中世城館」を参考にした。)

A @の掘は途中で南に分岐する。 B寺の入口の土塁も城郭遺構らしい。