小屋下城(行方市麻生)36.0011、140.4865
麻生城の北約1.6q、城下川が流れる水田地帯を遡ると丘がある。
丘の北側はセントラルGCになっており、丘先端の城のある部分のみがGCから取り残された状態で残されている。
丘の標高は28m、南下の水田地帯の標高が5.3mなので比高は約23mである。

↑東から見た城址、右側はゴルフ場である。
ここにはなかなか行きにくいアクセスする道は農道、しかも未舗装である。
だいたいどこから農道に入るのかが迷う。
城址へのアクセスは丘先端西側からである。
丘上に上がる道を上ると平坦地があり、そこから城址に行くのだが、道などない。
切岸を上るのだが、野ばらがあちこちにあり痛い。
肝心の城址、篠竹地獄、ほとんど写真は撮れない。
西側のみ若干藪が薄い程度。

単郭の小さい城であり、全体で約70m四方の規模に過ぎない。
40×50mの主郭があり、南側が尾のように付きだしている。
その周囲、南側を除き、掘が3方を取り巻く。
東側は土塁から主郭に上がる坂虎口になっている。

@西側の掘 A西側の掘越しに見た主郭

城主等は分からない。
麻生城の北を守る城のようだが、なぜか、城が見ているのは麻生城の方向である。
敵が来る北側、CG側には掘はあるが、それほど厳重な造りではない。
むしろ、麻生城に対する付け城のように思えるのだが。(「茨城県の中世城館」を参考)


石神城(行方市石神)36.0172、140.5187
石神城と言えば、東海村の石神城を連想する。
こっちの石神城、それとは全くイメージが反対、どう見ても城というイメージはない。
だいたい、遺構は腰曲輪程度である。

城は県道186号線沿いにある熊野神社の東側の丘にある。
この丘、南北に長く。丘の上が平坦、その平坦部が城である。
城には県道沿いから上がる道@を行く。民家があり、さらにその上Aが城址である。
城址のある平坦地B、200×70mほどあり、北東側に突き出し部がある。

@県道から城址に上がる道は登城路か? A民家の裏が切岸になっており、一段上が主郭である。、 B丘の上、ここが主郭のはずだが・・一面の畑。

西側に櫓台、または古墳がある。
他、遺構らしいものは全くない。
丘の上は畑であるが、丘周囲は民家である。
城址の畑で作業していたじいちゃんに城のことを聞いたが、「聞いたことねえなあ」といういつもの回答。
城主等は不明である。

小貫館と西蓮寺(行方市西蓮寺) 36.0713、140.4393
霞ヶ浦を西に臨む標高31mの丘に名刹、西蓮寺がある。
地名になっているくらいなので古くからあった寺院である。
西約1qには霞ヶ浦が望まれる。

西蓮寺は、天台宗の寺院で、山号は尸羅度山。
院号は曼珠院。本尊は薬師如来。
常陸の高野山ともいわれる。山門(仁王門)と相輪塔は国の重要文化財、木造薬師如来坐像は茨城県指定有形文化財である。
境内には県指定天然記念物である樹齢1000年以上といわれる2本の大イチョウがある。

創建は延暦元年(782)、桓武天皇の勅願により天台宗の僧で最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる。
中世から近世にかけては末寺が30寺あったという。

元寇勝利を記念した相輪塔 天文12年建立の山門 樹齢1000年超の大イチョウ

鎌倉時代中期、比叡山の無動寺から慶弁阿闍梨が来て七堂伽藍を造営、
京都の曼殊院の門跡忠尋大僧正が、乱を逃れてこの西蓮寺に来てとどまり、曼殊院の額を山門に掲げたと伝えられる。
境内に建つ相輪塔は日本三相輪塔の1つで、慶弁が元寇の役で勝利したことを記念して、信者の浄財によって建立したと伝えられている。
江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。
明治16年(1883)の火災で本堂・薬師堂などを焼失したが、天文12年(1543)建立の山門と弘安10年(1287)建立の相輪塔は焼失を免れた。
(以上「Wikipedia」を参考)

・・・となっている。で、何でここが小貫館でもあるのか?
もちろん、城より寺の方が先にあったのは間違いないだろう。
しかし、寺が城という僧兵を擁した武装寺院ではなさそうである。

寺の南側に張り出した半島状のでっぱり部分が城館の主体部だったようである。
本堂の南側がその部分に当たり、本堂との間には堀があったらしい。
張り出し部@は80×50mの広さであり、南西端部に土塁BCや堀Aが残る。

↑南側の低地から見た館跡。中央部がEの谷津部である。
@西蓮寺本堂南側のこの場所が館の主体部らしい。 A館南西下を覆う掘。 B Aの堀底から見上げた土塁。
C 南西下の腰曲輪にある土塁。 D 館西の谷津E西側の突き出し部の竪堀?虎口? E西蓮寺側から見た館(左側の藪)西側の谷津、
先端部に掘、土塁がある。

しかし、谷津Eを挟んだ西側にも竪堀のような通路、虎口Dがある。
こちらも城郭遺構のように思えるが果たしてどうなのか?

この館、どうも寺の一部に間借りしていたような感じでもある。
「芹沢文書」には「小貫内蔵、小高城主より遣わされ西蓮寺に館を築き住む。天正19年、佐竹義宣の為亡さる。」とある。
寺との関係は果たしてどうなっていたのだろう。
寺の用心棒なのか?(「茨城県の中世城館」参照)

諏訪山砦(行方市藤井)
行方市藤井にある香取神社から国道355号線旧道方面に南西500m、船子城からは北西に約1qにある。
岡の末端に諏訪神社の小さな祠がある。

↑西側、国道355号線から見た砦跡

その祠のある場所が本郭、その北に二郭、三郭が並ぶ長さ200mほどの直線連郭式の小城館である。
規模は小さい城であるが堀は明確に確認できる。

国道旧道側から登る道があるようであるが、登り口は民家の間を通ることになるのでよく分らない。
管理人は背後,北東側の道路になっている鞍部から突入した。

三郭は果樹園Cであるが、その先の神社までの間は藪であるが、それほど酷い状態ではないので、冬場は問題なく遺構を見ることができる。
先端部、神社の祠が建つ本郭@は台形に近い形であり、長さは最大でも40m、周囲約4m下に帯曲輪があり、本郭と二郭の周囲を巡る。

北側の二郭は20m四方ほどの小さな曲輪であり、本郭との間には堀が存在し、緩い縦堀Aとなって帯曲輪に合流する。
堀の埋没は進んでいるようだが、土橋があった痕跡を残す。

その北の三郭との間にはこれも帯曲輪と合流する幅20mほど、深さ4mほどの堀Bがあるが、幅は広いがかなり緩い感じである。
三郭は果樹園と畑にになっており、長さ70mほど、幅は30mほどの広さ、北西側に突出部がある。
その北側は鞍部になる。
鞍部は道路になっているが、堀切だった可能性もある。
@本郭に建つ諏訪社 A本郭、二郭間の堀 B二郭、三郭間の堀であるが・・・藪!
C三郭内部は畑になっている。 三郭の北側の鞍部の道路から見た西側の霞ヶ浦、対岸はかすみがうら市出島地区。

ここの標高は24mである。
本郭の標高は30m程度であり、霞ヶ浦の眺望がよく水運監視用の城館である。
船子城の北の防御も兼ねた支城であろう。
館主は船子城の下河辺氏の家臣であろう。

稲荷館(行方市手賀)
人見館前から国道355号線旧道を約2q北上するとさらに旧道から道が分岐するが、その分岐部に消防団車庫と稲荷神社の鳥居と石段@がある。

↑館跡から見た西側の霞ヶ浦

その石段を登った岡の上に建つ神社社殿の地が館跡である。
ここからは西に霞ヶ浦を望むが、館から霞ヶ浦までの間の低地部には鯉の養魚池が密集する。
社殿東側が緩やかな土手状Aに南北60m程度続く。

ここの標高は23mである。
さらに南端で西側に30mほど突き出る。
しかし、内部は平坦ではない。
切岸部、斜面も非常に曖昧であり、どちらかというと古墳のような感じである。

東側は尾根続きであるが、堀切が道として残る。

この館も霞ヶ浦東岸に2qほどおきに存在する湖内監視用の城館の1つであるが、隣接する付近の城館の中ではもっとも単純である。
城館ではないと見る人もいるだろう。
居住性はなく、防御性はほとんど考慮していない。

単なる物見の場所、隣接する北の手賀城や南の人見館とのつなぎの場所なのであろう。
@稲荷神社の鳥居と石段の参道。この上が館跡である。 A館跡最上部。平坦ではない。まるで古墳上のようである。

代田館(行方市井貝)
小高城の北側の谷津を介して反対側の岡にある。
ちょうど小高氏の菩提寺常光寺の真北にあたり、館のある部分の標高は33m、谷津部が8mであるので比高が25mである。
館のある部分は東側に位置する井貝の集落のある岡が半島状に西に延びたその先端部分に当る。

南側の常光寺前からの道を登って行った頂上部から西側に入って行く道@がある。
その道自体がどうやら帯曲輪を転用したもののようである。

そしてこの道の分岐する部分が堀切だったのではないかと思われ、北西下方向に竪堀が下っている。
道を西に進むと南側は高さ5mほどの切岸になっている。
この切岸を登るとそこは土塁A上である。

東側は土塁があるだけであるが、西側は土塁が平行四辺形状に覆う曲輪Bになっている。
50m×25mの規模である。
曲輪内から土塁上までは約2m。
一方、元の道を西に進むとそこには豚小屋?の廃墟があり、曲輪内に入るため土塁が崩されている。C
曲輪内は藪であるが、豚の放牧か何かに使っていたようである。

豚小屋の南側も帯曲輪が覆い、東側に回り込んでいる。
非常に単純な構造の城館である。
位置からして小高城の北側を守る砦であろう。
@北側の道は帯曲輪跡 A主郭の土塁上
B主郭内部、今は藪状態 C帯曲輪西側の廃墟と土塁間に開く主郭への通路

人見館(行方市井上)
名刹「西蓮寺」の南約1.5q、霞ヶ浦東岸を通る国道355号線旧道脇に「酒の松本」というリカーショップがあり、その東に消防団の車庫がある。
その前の道路の反対側に山に登っていく山道がある。

ここを登って行けば館跡である。単郭の小さな城郭である。
霞ヶ浦の湖内水運監視の城であるとともに主城の船子城の支城である。

山道を登ると腰曲輪@のような場所があり、さらに登ると墓地がある。
ここは腰曲輪と推定される。
主郭部はここの東側である。
主郭部の標高は約31m、内部は藪状態である。東西50m、南北60mほどの広さがあるが、藪でよく分からない。
内部は多少、凸凹しており、それほど平坦ではない。

@西側の腰曲輪には墓地がある。 A主郭の土壇には石の祠がある。 B東側の岡続きは堀で遮断するが、藪!

小さな祠が低い土壇Aに建つ。
東側は若干低くなり、定番の堀切Bを置いて尾根を遮断しているが、堀底は倒木などで藪状態である。
なお、消防車庫の裏の岡も独立した土壇状であり、城域ではないかと思われる。
船子城の下河辺氏家臣、人見氏の館と言われる。(余湖くんのホームページを参考)