鉾田市(旧旭村)の城館
平成の大合併で鉾田市に吸収合併された旧旭村は大洗町の南、東は太平洋に面する農業の村だった。
海に近いので温暖で、台地が広がる。台地上はほとんど畑である。
今も、昔も名産は何と言っても「メロン」である。ブランドである。
他にイチゴとか、乾燥イモとか農産物は事欠かない。
そんな旧旭村の城、ほとんど北西側の涸沼周辺に集中する。
ここに湖内水運の港があったからである。

下太田館(鉾田市下太田)
36.2647、140.5294

鉾田市北端、旧旭村の涸沼が望まれる標高28mの丘にある。

↑大洗鹿島線「涸沼駅」から見た東の丘が館跡。写真右下の墓地参道から登る。
涸沼の東岸に位置し、東に日本原子力研究開発機構の大洗研究所があり、その東は太平洋である。
館は涸沼の南東端に南から流れ込む大谷川の東の丘にあり、直ぐ西が大洗鹿島線の涸沼駅である。
涸沼までは約500mの距離である。
この付近には大洗町に属する大館、小館、そしてその南に本館、その南に金弓館、大谷川の西の丘に天神山館があり、比較的濃密に城館が分布する。
この地に多くの城館があるのは当然、ここが湖内水運から陸送に変わる交通の要衝だったからである。


@ 南東側を覆う横堀の掘底

戦国時代の主要交通路の1つが、那珂川から涸沼川、涸沼というルートであったという。
ここの南が徳宿であるが、文明18年(1436)の徳宿合戦では江戸氏の軍勢は那珂西城を集合場所にし、那珂川を下り、涸沼川を遡り、ここに上陸して徳宿に向かったという。
ここには湖内水運の港があったのである。
館主は分からないが、戦国時代の涸沼の水運は江戸氏が統制していたと想定されるので、江戸氏の家臣と思われる。

A主郭南東側の土塁。主郭内は笹と篠竹の藪である。 B北端の櫓台を北下の掘底から見る。高さ約5m。
CBの櫓台上、2段になっている。井楼櫓が建っていたか? D主郭北東下の巨大な掘。

下太田館は南側が墓地となり、土取りなどで一部は改変を受けてはいるが、かなり良好な状態で藪の中に残っている。
基本的にほぼ単郭の館と思われ、丘続きの北東側は現在、畑になっているが、ここは城外と思われる。
主郭は南が突き出した形をしており、東西50m、南北最大70mの大きさがあり、南側を除いて掘@、Dがまわる。
北端の櫓台BCは立派であり、北方向の涸沼を監視する場であろう。主郭内も土塁Aがほぼ一周する。
北側、東側の掘Dは幅が15m、深さは6mほどの巨大なものである。

本郭内部、かつては畑、果樹園だったようであるが、耕作は放棄され、藪状態になっており、篠竹が密集しており歩きづらい。
(「茨城県の中世城館」、「続 図説・茨城の城郭」を参考にした。)

金弓館(鉾田市下太田)36.2583、140.5267
下太田館の南約700mの標高27mの丘にある。
50m×25mの単郭の砦であり、周囲の掘部を含めても60m×40mという小規模なものである。


北西下から見た館跡。正面の墓地の裏から突入する。

南側に土塁や虎口があり、土塁は折れも持ちきちんとしている。
その一方、北側はだらだらとした斜面に過ぎない。ほとんど無防備と言ってよい。

@主郭西側、南側を覆う土塁。 A南側の土塁間に開く虎口。 B主郭東側の土塁は低い。

この構造から南方向のみを警戒していることがわかる。
内部は藪であるが、それほどひどい状態ではなく、十分に歩ける。

C主郭東側の掘と土塁は折れを持つ。 D主郭北側に30pほど窪んだ場所があるが、これは何だ?

北側が無警戒であるので下太田館(または大館)の支城と推定され、南方向を警戒している姿が見て取れる。
南方向とは鉾田方面の烟田氏等であろうか?
となると江戸氏側の城ということになり、この付近の城館が江戸氏にかかわるものである裏付けと言えようか。
(「茨城県の中世城館」を参考にした。)

天神山館(鉾田市田崎)26.2643、140.5219
下太田館の西、大谷川を隔てて約700m、対岸の標高22mの丘の東縁部にある。
丘の北東先端近くに天満社があり、それが館名になったようである。

@館南西側の土塁 A@の土塁の南に掘が残る。が、藪で分からん!
この丘は西、南に広がり一面の芋畑である。
館は東側が土取りで削られてしまい遺構はあるが、全貌を把握するのが困難な状況にある。
館の南西側に土塁@と掘Aが残り、さらに西側に土塁Bが残る。

南東側と東側はほぼ湮滅している。
北側にも掘と土塁があったと思われるが、その位置は分からない。
その痕跡も確認できない。
東西は約80mの大きさと推定されるが、南北の規模は分からない。

B館西側に残る土塁。外側の掘は湮滅している。 C館南側、ここが虎口か?
東側(右)の土塁と掘は湮滅している。
ビニールハウス前に掘があったらしいが、場所が特定できない。
DC南側の掘状遺構、右に土塁がある。
その東に曲輪があったが、土取りで湮滅している。


↑館跡北西端部からは北に涸沼が一望である。その先が水戸市街である。

南側の掘状の場所Dがあり、東側に土塁が残る。
この土塁の東側に曲輪と推定される場所があったが、土取りで湮滅している。
館跡からは北に涸沼が一望である。
下太田館等と連携し大谷川沿いの街道を両側から抑える役目が推測される。
(「茨城県の中世城館」を参考にした。)