鉾田の城郭
徳宿城(鉾田市徳宿)36.1842,140.5202
前回、訪問したのは2004年1月8日だった。 多分、初詣で、だったか? それから20年後、この付近を通ったので再訪した。 再訪した目的は20年前のイラストなど、とても低レベルで何とかしなきゃ! と考えたからである。 驚いたことに、目に写る光景、20年前と全く変わっていなかった。 ここは時間が止まっているように思えた。 結局、神社のある西側だけ歩けて、それ以外はひたすら藪だった。 写真を撮ったのだが、さっぱり分からず、今回も掲載は見送り。 肉眼じゃちゃんと認識できるんだけどね。 さて、徳宿城を改めてよく観察すると、「古い」という印象を受ける。 鹿行の主要城郭に比べて緩い。 本郭周囲は北側から東にかけては掘であるが、それ以外の南側、西側は腰曲輪である。 確かにその外側は切岸になっており、下は湿地帯であったと思われるが、戦国後期なら掘があっても不思議ではない。 |
↑ 南から見た徳宿城
城の歴史は文明18年(1486)江戸氏の攻撃で徳宿氏が滅亡したという所では途絶えている。
その後はどう使われたのであろうか?
その時点で廃城になってしまったのだろうか?
見た印象では徳宿氏滅亡後はそれほど使っていたような感じはない。
戦国後期仕様の城に積極的に改装した感じは受けない。
@本郭南西端に建つ神社の社。 | A 本郭北側の虎口は土塁間に開く。現在は参道。 | B本郭北の掘に架かる土橋 |
C二郭西側に下る竪堀 | D 三郭内、北側に土塁が残る。 | E本郭南側に開く虎口、下は腰曲輪。 |
以前の記事
徳宿城(鉾田市町徳宿)
鉾田市街地から北上し、丘を越えて4qほど走ると道が丘から降りて若干広い谷津がある。
その北側に見えるこんもりとした森が城址である。
鹿島氏の祖、成幹が平安時代末期に鹿島郡北部の徳宿郷に進出し、長子親幹を置き、徳宿氏を名乗らせたのが始まりといい、城もこのころ築城したものと思われる。
文明18年(1486)に水戸の江戸氏の攻撃を受け、烟田氏や鹿島氏の援軍が遅れ、劣勢の状態で戦うことになり9代当主、徳宿延幹は壮烈な戦死を遂げ、300年近く続いた徳宿氏は滅亡した。 しかし「子道春幼児にて龍寿丸と称し、家臣磯部兼長に助けられ逃れて那珂西部岩船村に隠れ、後東茨城郡桂村阿波山に移り子孫ここに住す。」という記録があるように一族は完全に滅亡した訳ではない。 城は七瀬川左岸側に南側へ突出する舌状地上にある。 |
南側から見た城址。 | 本郭西下の腰曲輪。 | 本郭上より見た南側の腰曲輪 | 本郭内 |
本郭北虎口。この先が二重堀。 | 本郭北側の堀西側 | 本郭北側の堀東側 | 二郭東端の物見台? |
本郭は腰曲輪から7mほどの高さがある。
本郭は北側を除いて土塁はない。
本郭北側の堀間の土塁が東側で二郭となる。
その東端には櫓台の跡らしい盛り上がりがある。
本郭側の堀底は本郭西側の腰曲輪につながる。
本郭付近の遺構は廃城から500年以上経た現在でも良く残っている。
城の北側は民家や徳宿本郷の集落となっているが、この方面にも城が展開していたのではないかと思われる。
野友城(鉾田市野友)
「のども」と読むそうである。
鉾田市の中心部から西に約3q、巴川の右岸、野友小学校の東側の標高約28m、比高約25mの岡が城址である。
北浦町の木崎城付近を根拠地としていた常陸武田氏の支城である。
一族の武田信房が元亀年間(1558〜1572)に築城し、天正19年(1591)の佐竹氏による三十三館主謀殺事件による武田氏滅亡で廃城になったと言われ、わずか20〜30年という短命の城である。 この付近は武田氏の領土の北辺であり、領土の北の守りの要であったと思われる。 野友城の北の巴川低地の水田の標高は1〜2mであり、これは堆積が進んだためと思われる。 当時は北浦はこの付近まで入り込み、城の北側には港があったのでないかと思われる。(北浦の湖面の標高は0m) 城は巴川の低地を北に望む台地北端部にあり、西側は谷津。 東側と南側も若干低くなっており、南西部のみが台地につながる。 城は南西部から西側にかけて壮大な堀Aを構築して遮断し、独立した岡状態とした高台上にある。 規模は東西約100m、南北約150mほどである。 東西30m、南北100mほどの本郭の周囲に土塁、堀、腰曲輪を巡らした構造であり、東側以外は土塁と堀が巡っており、その外側に腰曲輪を置いている。 本郭(T)の南東下が二郭(U)であり、さらにその下が根小屋にあたる「宿」集落である。 ただし、集落方面は宅地化や土取りで改変が進んでいる。 居館は北東下の華蔵院のお堂が建っている場所Eであろう。 |
ここからの登城路が非常に変わっている。北側は3重の土塁と堀B、Cになっている。
現在は土塁間を分断し直接登る道となっているが、当時は3重の堀の堀底をS字を描くように登って行ったようである。
ここを登ると二郭の北端に出る。
@本郭南西側でAの堀は曲輪状になる。 | A本郭の北側から西側を覆う壮大な堀 |
目の前には本郭の切岸が約7mの高さで威圧的に聳える。
本郭へは二郭の東側から登る道がある。
本郭内部は一面の藪でとても歩けたものではないが、北端は櫓台Dのようになっている。
北方向を監視する井楼櫓が建っていたのではないだろうか。
本郭の西側から南側を壮大な堀Aが覆うが深さは本郭側からは約8mはある。
B本郭北下の3重堀の2番目の堀 | C本郭北下の3重堀の一番下の堀。ここが登城路だろうか? |
西側は曲輪状@になっており、実際、武者溜、腰曲輪として使われていたのかもしれない。
この堀の外を囲む土塁もかなり切岸が鋭く、長い土橋が続く感じである。
この堀の西側は谷津であり、谷津も含めると2重堀のようでもある。
D本郭北端の土壇、ここに井楼櫓が建っていたのでは? | E華蔵院が建つこの場は居館跡だろう。 |
この城を攻撃する場合、城の南西に続く岡方面から行うのが一番想定できる。
特にこの方面から宿地区が攻撃された場合、無防備に近い。
このため、南西に続く岡方面、特に源照院付近にも防衛施設があったと思われ、現に土塁の残痕のようなものが確認される。
または、整備途上で廃城になってしまったので中途半端感を感じるのかもしれない。
烟田城(鉾田町烟田)
鉾田町市街地の南東、北浦を西に見る標高25mの台地上に築かれた烟田氏の城。
南側は水田地帯となっている低地、西側は北浦に面する。
北側は浅い谷津が北側の台地と隔てる。東側のみが台地に続く。
築城時期は明らかでないが、城主の烟田氏の起源はは常陸平氏一族吉田清幹の子成幹が鹿島氏を称し、その子親幹が分流して烟田に土着したことから始まる。
資料に烟田氏の名が見られる最も古いものは文暦元年(1234)であり、すでにこの頃、館程度の施設は置かれていたものと思われる。
烟田氏は鹿島一族を代表して鹿島神宮大使役を務め、南北朝、室町時代には鹿島氏とともに足利氏に従い行動し、上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏方として転戦し戦功を挙げた。
戦国時代における烟田氏の行動は必ずしも明確ではないが、秀吉の小田原攻撃には参陣せず、これが元で武田氏、鹿島氏などとともに天正19年(1591)佐竹氏に謀殺されて滅亡した。
この時に城は廃城になったと思われる。
城址のうち本郭部分は新宮小学校の敷地となっており、かなりの部分は破壊されてしまっているが、それでも周囲に堀、土塁等は残存している。
城域は南北200m、東西300m程度の規模を持つ。
3つの郭からなり、大手は東にある。
ここには古墳を転用したという物見台があり、堀で台地を遮断している。 城の東方の台地には烟田氏の家臣団の屋敷跡が点在しており、緊急時には城に集まるようにしていたと思われる。 二郭は本郭を東側と北側から覆うように配置されている。 これは東側と北側が比較的要害性が低いためと思われる。 大部分は西光院の敷地と墓地になっているが北側の墓地の北側の土塁が残る。 なお、西光院の参道も土塁のような感じであるが、これは城址遺構と関係はないと言う。 本郭の二郭側には堀と土塁があったと思われるが、現存するのは北側の一部のみである。 しかし、この部分は見ごたえのある遺構である。 本郭の北西側には西郭があり、その間にも土塁と堀がある。 西郭は民家と畑となっている。 本郭の南西端には櫓台があり、現在、氷川神社が建つ。 その下に搦手口が台地下に通じ、この部分は古城の雰囲気が十分である。 本郭や二郭の南側斜面には腰曲輪が残る。 |
北側の堀跡?小学校の登校口。 | 小学校西側に残る土塁。 | 氷川神社の建つ櫓台を西郭より 堀越しに見る。 |
氷川神社西下の搦手口。 |
本郭(右)南東側の堀跡。 | 本郭南下の腰曲輪。 | 大手口の古墳を利用したという櫓台。 | 本郭(右)北の堀。 |
馬場館(鉾田市烟田)
烟田城付近には烟田八館と呼ばれる家臣団の居館群がある。
家臣の居館であると同時に烟田城の出城だったと思われる。
馬場館はその中でも一番大きく、遺構も良く残っている。
元々は烟田氏の館であったとも言う。
烟田城の北東、新宮神社東南側に位置する。神社参道の北側に堀があり、その北が曲輪である。
曲輪は1辺が60mほどの台形に近い形状をしており、一部に土塁が残る。
堀は周囲を1周する。内部は畑である。
堀は深さ5,6mほどあり立派である。
北東側、北西側のコーナー部に土橋があるが多分、本来のものではないかと思われる。
南側の堀 | 曲輪内に残る土塁跡 | 曲輪内は休耕した畑であった。 |
塙館(鉾田市烟田字塙)
烟田城の北東1kmほどのところにある。馬場館とは道路を挟んで南西側に位置する。
馬場館の西側の道路途中に「西光院」という案内板があり、その道を50mほど進むと切岸が見え、堀@が見える。
烟田八館の1つで、最大規模のものだったらしい。 塙氏の居館という。 40m×90m程度はあったという。 しかし、館内に突入してびっくり。 深さ5mほど館内が大きくえぐれているのである。 土砂採りで削られた跡Bという。 よくもまあ、これだけ見事に破壊したものである。 土砂採りの跡地は孟宗竹が密集し、かなり以前に作業は止めたようであり、藪化しつつある。 館の東側の城塁や土塁、堀は見事であるが、北側は小さい。堀というより古道かと思ったくらいである。 立派な部分Aと粗末な部分@が共存しており、つかみどころがない館である。 |
@館北側の堀は意外と小さい | A館東の堀は幅8mほどあるが埋没している。 | B館中心部は土砂採りでえぐれている。 |
富士山館(鉾田市烟田字富士山)
烟田城に一番近い館であり、5,600m程度の距離にある。
塙館北の道を西光院方向に走行すると、民家の横、道路左手に「富士山館入口」の標柱が立っている。
ここから延びる道を100mほど入ると館の北側の土塁下@に突き当たる。
車でここまで入れる。
この館は台地の南縁に位置し、台地下までは20mほど。
館は台形の単郭構造であり、北側が40mほど、他の辺が60mほどの長さである。
土塁@、Bは高さ4m程度。
堀は台地続きの北側が明確であるが、尾根が突き出している南東側、南西側にも見られる。
その他の部分は腰曲輪であったらしい。
虎口Aは西側に開いている。
土塁が一周するが、内部は藪状態である。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。
@館北側の土塁と堀。車でここまで来れる。 | A西側の土塁間に開く虎口 | B館西側の土塁 |
金色館(鉾田市烟田字金色)
「きんいろ」などというゴージャスな名前ではなく「かねしき」と読むのだそうだ。
でも実際は「金色」どころか、とんでもない藪に埋もれていて、人の接近さえ困難な状況にある。
烟田城のある台地から北東に延びる台地に点在する烟田氏家臣の居館、烟田八館のうちの1つである。
烟田城からは北東1.5qに位置する。
しかし、場所が非常に分かりにくいうえ、ほとんど藪に閉ざされている。
新宮神社からさらに道を東に進み、小高根集落の東端にちょっと不気味な墓地が道沿いにある。
そこから南に2本の道が延びるが、そのうちの東側の道を南に200mほど行くと、西に道が分岐する。
といっても、すでに耕作が放棄され、通る人もいなく小竹に閉ざされている。
この道を強行突破して100mほど進み、さらに南に行くと、館の土塁に行き会う。
館西側の土塁である。高さは2.5mほどあり、上に大きな木がある。
実はこの木が館跡を示しているのではないかと思い、藪漕ぎしたのだが、ズバリ的中。
しかし、ここまで。
これ以上は藪に阻まれどうにも動けない。
ここまで到達したのは余湖さん以来だろう。
50m四方の館であったというが、かつて畑であったため、堀は埋められているのか、それとも存在しなかったのか?
虎口は西側にある。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。
館西側の土塁であるが・・何だかさっぱり分からん。 |
勧請地館(鉾田市烟田字勧請地)
金色館の北東500mにある。小高根集落から北東の白塚方面に行く市道沿いに墓地があり、その先300mの民家横の農道を北側50mに入った場所に位置する。
そこに小竹に覆われた土塁がある。この付近が勧請地館の跡である。
白い標柱が建っている・・と余湖さんのHPに書いてあったが・・・と探すと、その標柱、すでにボロボロの状態で捨てられていた。 それでこの場所に間違いないことを確認する。 しかし、館跡と推定する場所はとんでもない藪であり、土塁らしいものが続いているのは確認できるが、そこまで。 どうにも探索は不能。 館は方形単郭で60m四方ほどらしい。虎口は南にあるらしい。 堀はあったのかなかったのか分からない。
|
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
余湖くんのHPを参考。
三階城(鉾田町安房)
鉾田町中心部の北方約1km、高野地区に位置する。
七瀬川の低地を西に望む標高30mの台地上にあり、北側と東側は谷津になっており、南側のみが台地につながる。
東側には鹿島線が通る。
比高差約25m。東方500mに高野城、北側の谷津を隔てた丘上に要害城があり、いずれも三階城の支城である。
城址までの道は台地西下の未舗装の農道を走る以外にない。
鹿島氏の祖、成幹は平安時代末期に鹿島郡北部の徳宿郷に進出し、長子親幹がこの地で徳宿氏を称し、三代目に長子俊幹を安房の地に、二子幹秀を烟田(かまた)に配し、四子幹直が徳宿氏を継いだのが、安房氏の起源。安房氏が築いたのが三階城であり、別名は安房城ともいう。
しかし、安房氏は上杉禅秀の乱に加担して滅亡(同族の烟田氏は鎌倉公方方に組して活躍している。)し、鹿島氏の臣額賀大炊助が三階城に入城したといわれる。
廃城になった時期は鹿島氏が佐竹義宣により滅ぼされたころと思われる。
城の名前が変わっているが、これは形状から名づけられたものであり、名前のとおり3階建て構造である。
形状から名が付いた城はいくつかあるが、別名で形状に起因した城名が記載されることがあるが、本城のようにその逆の場合はないのではないか?
城は完全な輪郭式であり、城域は直径300m程度かと思われる。
本郭までの道は周囲を回りながら行く。まるでバベルの塔である。
三郭は通路兼用であり、北側から東側にかけては二郭の堀の役目もある。 この通路(登城道)はさながら堀底道である。 西側の低地から三郭に入るが、二郭虎口までは螺旋状に三郭内を登っていかなければならない。 この間、常に二郭から見下ろされ、攻撃がかけられる構造となっている。 二郭への虎口は180度反対側の東にある。 二郭は本郭を覆うように配置され、本郭側には堀があったと思われる。 (かなり浅くなり、単なる窪みにしか見えない。) 周囲は土塁に囲まれてはいるが、幅は20m程度と狭い。 台地に続く南側には深さ15m程度ある深い堀が掘られている。 なお、この堀の堀底には三郭からそのまま通じる。 本郭は二郭より8mほど高い位置にある。 虎口は東側にあり、二郭の虎口から一直線である。 ただし、防御上、これは疑問であり納得できない。 この虎口は林の伐採と搬出のための後付けではないかと思われる。 これでは三郭が制圧されたら直ぐに本郭が攻撃を受けてしまうことになる。 |
三郭を通る登城路。左は二郭の塁壁。 | 三郭から見た二郭への虎口。 | 本郭内部。 | 本郭から見た二郭。 外側に土塁があり、本郭側に堀がある。 |
二郭から見た本郭。 | 二郭南の深い堀。 | 三階城の北の台地にある要害城址。 | 南西側から見た城址。 |
このため、本来は本郭には他の方向から入ったのではないかと思われる。
本郭は直径40mほどの円形であり、周囲に土塁があるが、かなり低くなっている。
城址はほぼ全体が杉林であり、遺構はほぼ完全な状態で残っている。
本郭、二郭の南側は木が伐採されており、遠くからも郭の形状が良く分かる。
要害城(鉾田市安房字要害)
三階城とすぐ北側に谷津を介し比高30mほどの台地が北東側から延び、その南西端が城である。
三階城の北を守る出城である。
その山麓から行けそうなのだが、斜面は藪状態で直登は困難。
このため、台地続きの北東側からアプローチ。
安房球場前の道を進んで行く、この道、途中で未舗装となるが、道沿いに畑が点在し、普通車なら鹿島臨海鉄道に架かる橋まで行くことができる。 この橋を渡ると畑がある。その畑の先が城址である。 北東側に横矢がかかる全長80mほどの堀@がある。 結構立派な堀であり、主郭の土塁からの深さ7mほど、幅8mほどの堀である。 東側は堀が2重になっている。 もしかしたら、畑になっている部分にもこの堀が延びていたのかもしれない。 中央部に土橋があり、土塁間に虎口がある。 曲輪内は小竹が密集してとんでもない藪。 土塁は曲輪内からも3mほどの高さがある。 三階城側の南側には土塁はなかったが、内枡型の虎口があり、腰曲輪がある。 三階城との連絡路だろう。単郭の城と推定するが、北東側の畑が二郭であった可能性もある。 航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。 余湖くんのHPを参考。 |
↑ 城址東側の堀、深さ6mほどある。 ←昭和49年の航空写真、上が要害城、その下が三階城、 右下が居館である高野館。 |
大洗鹿島線を渡る橋を渡ると畑がある。 ここまで小型の車で来ることができる。 写真の林が城址であり、横堀が横たわる。 畑も曲輪であった可能性もある。 しかし、すでに遺構は分からない。 |
高野城(鉾田市安房)36.1673、140.5204
三階城北の谷津が東に入り込んだその南側の標高31.5mの丘にある。
ここに行ったのは2004年、要害城に行った帰り道であった。
しかし、余りの篠竹地獄に恐れをなし突入をためらった。
それから19年、ついに突入を敢行した。 ためらうだけあり、凄まじい篠竹地獄、藪度は超一級である。 篠竹の中を進んで行くと、土塁@と掘Aが現れる。 掘幅は15mほどある。結構大きい。 堀底から主郭側に約4mの高さの土塁がある。 主郭内からも約3mある。 主郭周囲を回る土塁であるが、土塁上から主郭内が掘のように見える。 一辺約70mの三角形のおにぎり型をした単郭の城であり、北側以外を土塁が覆い、周囲を掘が囲む。 さらに北側と南側に掘がある。西約500mにある三階城に接近する道を遮断する城でもある。 居館であるとともに三階城の出城でもあるようである。 徳宿氏一族安房氏が築いたとされるが、上杉禅秀の乱で滅亡、その後、この地には鹿島氏家臣額賀氏がいたというので額賀氏が城主と推定される。 (「茨城県の中世城館」を参考にした。) |
@主郭を覆う土塁、やっと写真が撮れた! | A主郭土塁上から見た周囲を囲む掘、藪!! |