龍子山城西出城(高萩市大字上手綱)36.7398、140.6968
龍小山城の南西約600m、南東下に朝香神社のある山にある。
龍子山城に西及び南西側が迫る敵に対する砦であり、南を流れる関根川を天然の水堀に使っている。

このため、西側と南側に対する防御は厳重であるが、龍子山城側東側の防備は緩い感じである。
神社北側のピークが既に城域であり、そこが物見台である。
おそらく神社境内も城域だったと思われる。この付近を曲輪Vとする。

@ 東端に建つ朝香神社は曲輪を利用したものだろう。 A神社社殿北側のピークは物見台であろう。 B Aのピークを降りると西側に堀切がある。

なお、朝香神社は修験に関わる神社であり、もともとは南側の能仁寺の地にあった。
江戸時代の始めに徳川光圀により、修験の力を削ぐため、能仁寺から分離させられ、この地に移されたという
おそらく廃城状態だったこの出城の曲輪を利用したのだろう。
社殿@の北にピークAがあり、龍子山城と連絡を取るための場と思われる。
城の中心部Tは神社から北西に約200m行った標高46mのピーク部にある。
神社から尾根を北西に向かうとまず堀切Bがある。

C曲輪U内部は不整地状態、
  一見、城の一部には見えない。
D曲輪U(左)と本郭間の通路を兼ねた巨大堀切。 E曲輪U西の切岸を鋭くするため、構築された西下の
 帯曲輪

そこから約150m、広い尾根が続くが尾根上に城郭遺構はない。
ここが曲輪Uである。
この曲輪C、上は不整地であり、一見、城郭とは関係ないように思える。
しかし、西下を見ると帯曲輪Eが巡っているのである。

つまり、曲輪Uの西側の切岸の勾配は鋭く加工されているのである。
また、北側及び東側に緩やかな尾根が派生し、段々になっている。
そして幅5m、深さ5mの鋭い堀切Dがあり、その西側が本郭(T)である。

F本郭からさらに北に延びる尾根にある堀切 G出城南下を流れる関根川は当時は山の下を洗い、
 道は右の城内に入るようになっていたと思われる。

堀切Dは南に竪堀となって下るが、通路も兼ねており、敵をここに誘導する仕掛けでもあるようである。
当時、関根川はこの丘の南側を洗うようにG流れており、関根川の北側を通っていた道は本郭Tと曲輪U間の谷津に入り、堀切Dを通るようになっていたのであろう。
想定ルートを鳥瞰図に赤の破線で示す。
つまり、この出城は龍子山城の西大手門であり、関所城とも言えるだろう。
もちろん、戦闘時には敵迎撃ポイント、撃滅ポイント、キルゾーンとなる。

なお、本郭のピーク部は狭く物見台程度の規模、その周囲に小曲輪が展開する。
本郭付近は一辺約50mの三角形をした範囲に過ぎないが、コンパクトではあるが、綿密な構造になっている。

そこから北に尾根が北に約150m延び、尾根自体が防壁のようになっており、西側は急こう配である。
この尾根上は通路になっており、所々に堀切やピーク上や尾根の途中に平場がある。
もっとも大きな堀切がFであり、巨大な竪堀が東西の斜面を下る。