高部城2023

高部城は茨城県常陸大宮市の栃木県那珂川町に接する美和地区にある。
緒川の流れるこの谷筋は20を超える城館が並ぶ、城館密集地帯である。
この地は下野方面からの侵略を防ぐ最前線なのだ。
その多くの城館群の中で最高の防御力を持つ城がこの高部城である。
つまり、この城は防衛拠点という訳だ。

この城に行ったのは2004年2月だった。
当時、城は藪に埋もれていた。
でかいのと、横堀、丸馬出、三日月堀がある戦国後期の気合の入った戦闘城郭であることはすぐに分かった。
しかし、本郭内部は野ばら地獄、とても入れる状態ではなかった。
他の部分も似たようなもの。写真を撮っても藪しか写ってない。
そんなのでHP記事は貧弱なものになっていた。

その後、2013年、地元が城内の整備を行い、リニューアルした姿が公開され、続いてこの地区のごつい山城が次々と整備、公開されていった。
2023年11月11日、10周年に当たり、第1弾であった高部城が再度、公開されることになり、ツアーコンダクターを依頼された。

ところが、管理人、19年前に行ったきり、見てないのである。
ほとんど忘れかけている。そんな状態ではツアコンどころじゃない。
って、ことで1度、現地を見に行くことにした。
19年振りに訪れた高部城、俺は浦島太郎だった。
19年前、俺は何を見たんだ?
違う姿の城がそこにあった。
城内を歩き回っているうちにようやくかつての映像記憶と光景が一致し始めた。
やはり、気合の入った最前線の城である。
城が平和ボケしていないのである。当時の緊迫感がヒシヒシと伝わってくるのである。
@2023年10月の最南端の堀切、大手口がここだろう。 A2023年10月の大手の岩盤堀切、竪堀が西斜面を豪快に下る。 B2023年10月の本郭西下から南下を覆う帯曲輪
C2023年10月の本郭内部 C2004年2月の本郭内部、野バラ地獄でとても歩けない。 D2023年10月の本郭北側の土塁と北下の掘と二郭。
E2023年10月の二郭から見下ろした北下の馬出。
巨大オムライス。
E2004年2月の二郭から見下ろした巨大オムライス F2023年10月の馬出(右)の北側を覆う掘(三日月掘)と土塁。
F2004年2月の馬出北側の三日月掘 G2023年10月の馬出と二郭の西側を覆う横堀 G2004年2月の馬出と二郭の西側を覆う横堀
H 2023年10月のGの横堀から下る竪堀 H 2004年2月の左の竪堀、廃木材捨て場である。 登城路から見た高部集落、戦国時代も城下町が広がっていた。

高部城(常陸大宮市(旧美和村)高部) 
美和支所北側の山が城址である。
城のある山の比高は130mあり、城址は一面の杉林に覆われる。
城域は200m四方程度あり、本郭、二郭、腰曲輪や馬場と思われる曲輪が明瞭に残り、結構大きく堅固である。
森林伐採用に道が付けられているが、遺構の残存率はほぼ100%である。

城址には東側から山を半周して西側に回ってから大手と思われる沢を登るが、この道は高度差100mを登るため、結構きつい。
(美和村役場から時計台がある民家の西側を通って登って行くのが近道である。)
道を登ると尾根の鞍部の平坦地に出る。ここが馬場であったと思われる。 

 城はここの東側にあり、鞍部から本郭はさらに25mほど高い。
 驚くべきことに傾斜がやや緩い東側から西側にかけて北側を大きな土塁を外側に持つ横堀が城を半周している。
傾斜が急な南側には横堀はない。
 堀の外側にある土塁の高さは2〜3m、堀の幅は最大8m近くある大きなものである。
 平城であればこの程度の堀と土塁は珍しくないが、山城でこの規模の横堀を持つ城は、近くでは日立市十王の櫛形城、つくばの多気山城位である。
この遺構は明らかに戦国末期のものである。
 城は尾根の末端のピークにあるが、いわゆる細尾根城郭ではない。
 郭も広く本郭は80×40m、二郭も40m四方はあり、内部は平坦である。
鞍部から登る道が大手と思われるが、大手口は土塁の間に開いている。
そこを過ぎると堀底をとおり二郭に登る。
 大手の南側、北側の土塁は一端途切れ、堀は竪堀となり斜面を下る。
(おそらく排水の目的もあると思う。)二郭の本郭側には堀があり、本郭は一段高くなっている。
 本郭へは本郭西側下の帯曲輪を経由して南側から上がる。
 決して真っ直ぐに本郭へは到達できないように巧妙に道が付けられており、道の横、正面には必ず塁壁が立ちはだかる。
本郭の南側、西側斜面にも郭が展開する。
(現在、大手から直接、本郭に登る道があるが、森林伐採用の後付けの道であろう。) 
@西の登口から見上げた城址(右側)
この道を比高で100m登る。
A北側の横堀と土塁の切れ目。
ここから竪堀となり斜面を下る。
B二郭内から見た本郭。土塁があり、
その前に堀がある。
C本郭西腰曲輪から見下ろした西側の横堀。
道は後付けのものと思われる。
D本郭南の腰曲輪。とにかく藪がひどい。 E北側の横堀。左が二郭。 F二郭(右)東の馬出(左)間の堀 東の麓から見上げた城址。
問題の横堀は北側から東側にかけてカーブしながら半周し、東側の急斜面に至る。
その外側の土塁上にも一部、広い場所がある。
ここには櫓があった可能性がある。
二郭の東側下に半円上の20m四方程度の大きさの郭(馬出?)があり、二郭の間に堀がある。 
以上が高部城の概要であるが、想像以上の規模と要害性である。

 「館」と言われているが、館ではなく居住性、要害性を兼ね備えた戦国末期の戦闘城郭である。
 城のある場所は馬頭、烏山方面から佐竹氏の本拠、常陸太田方面へのメインルートである。
 この城より西に河内城、高沢城等があるが、防御性がある城郭ではない。
高部城付近は緒川の谷が最も狭まるため、この城を防衛のための前線拠点にしたものと思われる。

 佐竹義胤の5子景義が鎌倉時代に築城し、高部氏を称した。
 200年後、高部氏は山入の乱では宗家側に付いたため、山入氏に攻められ落城したこともある。

 しかし、高部氏は滅亡せず、佐竹義重の時代、家臣の中に高部孫兵衛、高部左馬守の名が見える。この者が高部氏の子孫と言われ、現在も子孫はこの地に住んでいる。
当初は小規模な砦程度であったと思うが、現在残る城の遺構は明らかに戦国後期に拡張整備された姿であり、佐竹氏がこの城を重視していたことが伺える。

上の鳥瞰図のマル付き数字は、写真の撮影場所を示す。

高部向館(常陸大宮市(旧美和村)高部)
旧美和村の中心部、高部(たかぶ)にあるこの地の拠点城郭、高部城の支城である。
高部城のある標高290mの山からは緒川を挟んで南側の山にある。

この山は標高160mの場所にある常陸大宮市美和総合支所の南南東の標高200〜250mの山であり、南から高部の谷に下る標高360m山の末端部にあたる。
山の麓に墓地があり、山側に三峰神社の鳥居があり、そこを登って行った場所にある社殿(と言っても小さな祠に過ぎないが。)のある場所が主郭である。
そこまでの参道はあるのだが、過疎化のためか誰も整備されていないのだろうか、道も消えつつある。

主郭までに高度6〜9mほどおきに3つほどの腰曲輪がある。
幅は7〜10mほどである。
主郭は「おたまじゃくし」形をしており、直径は18mほど。
三峰神社の小さな祠がある。

南側に延びる尾根に遺構が続き、尾根上は土塁状になっており、西側は帯曲輪になっている。
祠から南65mの場所に堀切がある。
深さは5m、幅8mほど。

@主郭に建つ三峰神社の祠と覆屋。 A主郭南の堀切 B2つ目の堀切と土塁
C3つ目の堀切 D東側の山、先端部の平坦地 E東の山、中腹部にある平坦地

堀切に面して土塁があり、西側に竪土塁が延びる。
さらに10m南に深さ3mほどの土塁があり、さらにそこから45m南に最後の堀切がある。
その南は高度を上げていく。
城域としては南北250m、東西40mほどである。

さらに東側の沢を挟んでだ尾根にも尾根末端地に平場や虎口を持つ曲輪状の平坦地がある。
この高部向館、高部城の支城として高部の谷の交通を制する城であるのは疑いない。
南側に続く山は斜面は急勾配であるが、標高350m地点から比較的アップダウンが少ない尾根となり元沢方面に続く。
非常時の避難路を確保する役目もあるのではないかと思われる。

以上の記事は2014年1月3日に訪問した時の記載である。
その後、地元有志により、城址の藪払いが行われ、西側斜面の腰曲輪郡が姿を表し、竪堀は途中、クランクし沢まで下っていることが判明した。
想定以上に規模の大きい城であった。
2016年3月13日、見学ツアーが開催され参加した。

上のイラストはその時の情報を基に描きなおしものである。
なお、赤の○数字は、2014年1月3日訪問に撮影した写真の撮影位置、青の○数字は↓の今回の見学ツアーで撮影した写真である。

@本郭北下の帯曲輪と本郭の切岸 A本郭部を南側の腰曲輪から見る。
B主郭部背後の堀切と竪土塁 CBの堀切は竪堀となり、途中クランクして沢まで下る。

高沢向館(常陸大宮市(旧美和村)鷲子)

高沢城の北西600mの標高300m、比高60mの山にある高沢城の出城といわれる。
山としてはよく目立つ。高沢城より目立ち、こちらの方が城があっておかしくない感じである。
案の定、城は存在していた。
しかし城としては出城レベルのものであった。

不思議なのが、東下の平坦地Eの存在である。
この平坦地、水田地帯から15m程度あり、切岸も鋭い。居館があってもおかしくはない。
現在、ここは畑と墓地である。
ちなみに墓の所有者は「薄井さん」家紋は、南東1.2qにある河内城の城主の江戸氏と同じ紋である。
下の写真は東側から見た館跡である。
右下の林がテーブル状に張り出した台地部である。
この墓の裏を登って行くと城となる。
途中から急勾配となるが、東下に向けて竪堀が下り、竪土塁があり、竪土塁上が登城路のように思える。
竪堀のスタート地点付近には帯曲輪があり、一部、横堀@となる。

北側には竪堀がある。この付近は急斜面であり、2段くらいの帯曲輪を介して山頂である。
藪は凄いが、広葉樹のため、冬場は見通しが良い。
なお、山頂付近には有刺鉄線が巡っているが、これは猪避けなのだろうか。
山頂部Aは小竹が密集しているが、北側は2段くらいの曲輪が明瞭である。

尾根が西に続き、尾根続きを遮断するように3本の堀切B、C、Dが構築される。
なお、この尾根を600m西に行くと栃木県境である。
高沢城の出城といわれるが、東下の館の緊急避難施設だっただけのもののように思える。
@南東側斜面の横堀 A山頂部、平坦になっているが狭く、藪。 B山頂背後の堀切
C二重堀切の山頂側 D 末端の堀切、600m先は栃木県 E山東端の台地は居館跡か?

Pの遺跡侵攻記を参考にした。

河内城(鳥ノ子城)(常陸大宮市(旧美和村)鷲子)
栃木県の県境近く、国道293号線沿いにある鷲子郵便局の北側、東側の山系から緒川が流れる平地側に張り出した尾根に築かれている。
城址の標高は270m。3つの郭からなり、稲荷神社Aが二郭の地に建つ。
城は佐竹氏と那須氏の領土と境を接する重要な地に位置する。

城の規模は長さは180m、最大幅は80m程の典型的な直線連郭式城郭である。
西下の鳥居から稲荷神社に向かい登って行くのであるが、この参道@沿いが曲輪とは思えない。
稲荷神社Aは二郭の地に建ち、60m四方程度。
その周囲を帯曲輪が覆う。
東側が本郭であるが、二郭側からは高さ5m、間に堀があるが藪状態。
南側に虎口がある。

本郭は80m×70mほどの広さであるが、内部は藪。
東側に高さ1m程度の土塁Bがある。
その東に深さ5m、幅15m程度の堀Cがあり、三郭となる。
東端に堀Dがあり、ここが城の東端のようであるが、どうもその先にも堀らしい感じのものがある。
(埋まっているのかもしれない。)
城のある山の麓に製材所があるが、南側に土塁のようなものEがある。
多分、ここが居館の地であろう。

築城は寛正6年(1465)江戸通治によると言われる。
この当時、佐竹氏は山入の乱で弱体化し、その間隙を縫って江戸氏がこの地を横領し、築城したという。
しかし、その後、この城の江戸氏は水戸の宗家とは立場を分かち、一貫して佐竹氏の家臣として行動、天正18年(1590)水戸の宗家が滅ぼされても、立場は変わらず佐竹氏の家臣として優遇され、この城を居城にした。
最後は佐竹氏に従い、秋田に去り、その時、城は廃城となった。

@ 稲荷神社までの参道、周囲 A二郭に建つ稲荷神社 B本郭内は藪、東端に土塁がある。
C本郭東の堀切 D二郭東の堀切は埋没している。 南下の材木工場は居館跡では?

2017年3月5日再訪
地元が河内城の草刈りをやってくれた。この藪を刈払機とチェーンソーで刈るにはとてつもない労力を必要としただろう。感謝あるのみ。
そして地元の団体「森と地域の調和を考える会」主催で説明会が開催され参加した。
藪ではさっぱり分からなかった遺構が現れ、藪状態だったころに比べると別物の城である。
その一部を追加、○番号は上の写真と同じ場所なのだが・・・。

A二郭の稲荷神社社殿脇から曲輪内部と本郭方向を見る。 D二郭東側の堀と本郭の切岸 二郭北側の帯曲輪は本来は横堀だったようである。
B本郭内部 C本郭東側の堀切と本郭の切岸 三郭から一段高い本郭の土塁を見る。

高館城(常陸大宮市(旧緒川村)上小瀬)
要害城とか、堀の内城とか、城山城などと同じくこの名前の城はいくらでもある。
だいたい「高館城」とは高い山の上に築かれた城という意味ではないかと思う。
それが城の名前となり、山の名前になったこともあるのではないだろうか。

ここで取り上げる高館城もそのような立地を持つ城である。
やたら目立つ山の上にある城である。
この山なら眺望は優れ、遠くまで見通せることは間違いない。
山の標高は229.8m。緒川からの比高は160m、塙集落からも110〜120mほどある。
緒川の中心地、小瀬地区の北東1.2qに位置する。

城へは「塙」集落から登るが、登城路は2通りある。
1つは民家裏の谷津から登るルート、もう1つは若干遠回りであるが、西に延びる尾根沿いに登るルートである。
その後者のルートで登った。
この道は頂上部はかなり曖昧ではあるが、途中までははっきりしたしっかりした山道である。

不思議な道であり、まるで堀底道Hなのである。深さは2mほどある。
普通の山道ならまさか2mも掘り込む必要はない。
これは城郭遺構の一部ではないかと思う。

塙地区に居館があり、緊急時に安全に山城まで移動するための塹壕なのではないか?
似たような道が群馬県の丹生城にあった。
この道を行くと、途中で南に派生する尾根と合流する。
その部分が不思議な感じである。まるで堀切Gのようになっている。ここに木戸があった感じがする。

さらに道を行くのであるが、肝心の高館山がこの道からは見えない。
途中、凄く離れたところに山頂が見えるので道を間違えたような錯覚に陥る。
それもそのはず、この道がある尾根は山頂から南に延び、途中で西に向きを変えるように派生しているのである。
山頂の少し南西で民家裏からは登る道と合流し、山頂部に向かう。傾斜は緩いが藪である。
山頂南側は緩斜面であり、いきなり高さ3mほどの切岸@がある。
そこから北側が城域であるが、斜面の勾配は緩い。切岸2段を過ぎると堀Aがある。
@南端部の切岸、ここからが城域。 A@を少し北に行くと堀切がある。 B主郭南側の堀
C Bの堀は東斜面で竪堀となる。 D 主郭部に建つ社 E 主郭東の横堀
F 主郭北西端の横堀 G 尾根途中にある堀らしい遺構は木戸跡か。 H 塙地区から登る堀底状の道
深さは3.5mほどある。
さらに50mほど、高さで10mほど斜面を登って行くと、再び堀Bがある。
堀の南側には土塁がある。
この堀を越えると主郭部となる。

なお、この堀は南北の斜面では竪堀Cとなる。
主郭部東下側に帯曲輪があるが、この曲輪は北に向かうと横堀となる。
主郭部は長さが80mほど、幅は15〜20mほどの南北に長い長円形であるが、平坦ではなく、4段ほどになっている。

最高箇所に三角点があり、その南側、一段低い場所に社Bが建つ。
内部は一部、杉などもあるが、ほとんどは広葉樹の林であり、冬場はすっきりしている。

主郭の東側は帯曲輪、横堀Eがまわるが、主郭の西側は緩い斜面であり、どこまでが曲輪か分からない。
この部分を見ると未完成のようにも見えるし、想定した敵の方向が東側、すなわち緒川の上流方向、那須方面であったとも思える。
北端部は急坂となり、東側の横堀が5m下に位置し、主郭側は石がむき出しである。

この横堀は竪堀となって下る。
一方、西側にも堀Fと土塁があるが、その南側は曖昧な感じになっている。
一応、城の要素は備えているが、西側が未完成という感じである。
城は佐竹一族小瀬氏がこの地で始めに構えた城という。
塙地区にあったと推定される館の詰めの城だったようであるが、横堀の存在を見れば、もっと新しい時期でも使われていた、またはまだ、未完成状態で整備を続けていたようにも思える。


花立峠(常陸大宮市(旧美和村)高部)
高部城の南西1.5qに花立峠がある。
標高は260m程度、そこから西500mが最高箇所であり、標高は320m。
そこは天文台がある公園になっている。
北下に見える道の駅美和の標高が190mであるので比高は130m。
公園の下を国道293号線花立トンネルがある。
この付近一帯は花立自然公園になっている。
尾根上東西600mにかけて各種の施設が山上に並ぶ。
この花立の名であるが、多くの場合は「旗立」が訛ったものが多い。
下野方面に進軍する佐竹氏の軍勢の駐屯地であった可能性もある。
残念ながら公園化により遺構らしいものは確認できない。

花立峠の道標 山頂部西側の通信施設 最高箇所のバンガローと天文台
峠から見た北西側栃木県馬頭方面 峠から見た高部城方面 眼下の道の駅美和、比高は130m。