長者平砦(常陸太田市赤土町)36.6232、140.4473
金砂山城の南、赤土町の圷地区と中沢地区の谷間に挟まれた標高約150m、比高約60mの山にある。

北東側、谷の反対側の山には赤土圷館(赤土天満宮の地)が望まれる。
堀切は確認できず、段郭からなる古い感じの城である。
名前は城の東側の平坦地、「長者平」から付けた。
城は長者平(36.6227、1404507)から西に張り出した尾根の先端が広がった場所にあり、長者平とは細尾根で繋がっている。
その細尾根の篠竹藪を抜けて100m進めば城に到着する。なお、長者平までは車で行けるのでありがたい。駐車場も完備!
驚いたのは細尾根の先と城の東側の鞍部に廃墓地があり、墓石がこっちを睨んでいるのである。
手を合わせ挨拶し、墓誌を確認すると、飯村氏の墓らしい。
天明、文化、文政という年号が確認できた。
江戸時代後期のものだ。
それにしても墓石がきれいで劣化していないことに驚く。
この付近には「岩部」という石工集団の村があったというが、そこの作か?
石材も目の細かい風化しにくいものを使っているようだ。
墓地の先、西側の切岸を上がると腰曲輪があり、主郭の切岸が聳える。A
| 西下の中沢地区から見た城址 | @長者平から延びる通路になっている細尾根 | A東下の曲輪から見た主郭の切岸 |
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| B主郭内部、バナナ形をしており、若干南に傾斜する。 | C北下の腰曲輪から竪堀(虎口)が西に下る。 | D城址西端、虎口に岩がある。この下には小曲輪が並ぶ。 |
城の主郭Bは東西約80m、幅約10〜15mの中央部が少し窪んだ形の細長い形で東側が若干高く(151.7m)西端(149m)に向かって緩く傾斜している。
西は尾根が下りとなりD、小曲輪が数段あるが、非常に曖昧な感じである。
東端部は径約15mと若干広く、平坦で北東と南東は鋭い切岸になっており、約3m下に小曲輪がある。
北側の曲輪Cからは北西下中沢集落方面に竪堀(虎口か?)が下る。
北東側に緩やかに尾根が下るが堀等はない。
以上のような「緩い」城であり、位置と構造から、南北朝期の瓜連合戦における金砂山城の南を守る佐竹氏方の出城兼部隊の駐屯地であろう。
山入の乱の頃なら村の城として避難城として使われていた可能性もあろう。
御館山要害(常陸太田市上宮河内町)36.6261、140.4328
常陸太田市西部、旧金砂郷村北部の上宮河内地区は西金砂神社や常陸大宮市山方に向かう県道29号線沿いにあり、金砂の湯などの施設がある。
西金砂神社は金砂山城でもあり、平安末期の頼朝が佐竹氏を攻めた金砂合戦や南北朝時代の瓜連合戦、そして佐竹氏の内乱、山入の乱で戦いの舞台となった歴戦の地でもある。
これらに関わり、地元には多くの伝承が残る。
しかし、多くの合戦の舞台となったことでこの地に残る伝承に関係のない時代のエピソードが入り込んでごちゃごちゃ状態になっている感が拭えない。
その1つ、頼朝の佐竹氏攻めの金砂合戦、金砂郷村史に掲載される「金砂軍記」の金砂合戦前の配置図として両軍の武将の配置図がある。
頼朝方の武将はともかく、佐竹方の武将の配置リストが凄い。
長倉、戸村、野口、桧沢、高部、部垂、宇留野、山方、大塚、額田など、平安末期にはいない武将の名前が記載される。
これらのほとんどは南北朝の争乱後、常陸北部の各地に根付いた佐竹一族が地名を姓にした連中なのである。
金砂合戦より200年弱も後の時代の人たちなのである。
存在していない人が参戦しているのである。
伝承を記事にするとこんな4次元世界の話になるのである。
しかし、そこに載っている城館、鏡徳寺(上利員城)、館野の城(赤土館)、山方城、天下野館、全て実在の城館なのである。
おそらく、金砂合戦時にはなかったと思われる。地元で知られている城館を載せただけかもしれない。
↑ 西から見た「御館山」、山裾を県道29号線が通る。左手前の山が物見?の場、中央部が主郭部にあたる。
その中に「御館」という地に城館があったと記載され「鷹巣神官」が籠ったとされている。
前術の城館は実在が確認されているが、この御館は知られていないのである。
もちろん、金砂合戦の頃の城館ではなく、もっと後の時代の城館の可能性も高い。
そこで、地元の方の案内でこの「御館」を訪ねてみた。
この御館については大正13年に刊行された「久慈郡郷土史」に「御館山、宮の殿山、またの名をお館山という、佐竹の一族が住んでおり、ここに城を構えていたという。
頼朝の部下、畠山、熊谷、和田の諸将が西金砂を攻めた時、ここも攻めた」と書かれ、今は地元では「お館山」と呼ばれ、城と言われている。
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そこに突入したのであるが・・・・。 「お館山」は金砂の湯、南東500mの山である。山頂部の標高は180m、浅川からの比高は約90m、山頂部B、Cはほぼ平坦であった。 南側や東側に帯曲輪のような段々状の場所Dはあった。 間違いなく人の手が入っている。 そして、北西側に突き出した部分@があり、そのピーク(36.6270、140.4313)上は平坦になっている。 径は約8m、山のどこからも西金砂山が見え、狼煙などで連絡は取れる。 ところが、城館の決め手となる堀切などは皆無である。 1箇所、竪堀のようなものがあったが、城郭遺構か確証が持てなかった。 城館なら尾根の途中に堀切を置く場合が多いが、「ない」のである。 帯曲輪のような場所Dは畑に使っていた可能性もあり、下に下る道もある。 桑畑なら結構高い山にも造られることもある。 しかし、麓からはここは畑とするには高すぎる場所である。 |
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| D山頂東側には段々状の平場がある。 |
城とすれば、結構高い場所なので、防御を山の高さに頼るだけで十分かもしれない。
この山の上には大勢の兵が駐屯できるスペースがあるのである。
城館とすれは平安末期の金砂合戦ではなく、その約150年後の瓜連合戦における佐竹氏側の部隊の駐屯地、宿営地の可能性が高いような気がする。
この時代の城館なら堀は未発達であり、高い山の上の駐屯地なら、なくても不思議ではない。
伝承、立地、平場の存在から判断すると、古い時代の城としてこれでいいのかもしれない。
「御館山要害」と呼ぶ。
愛宕山物見台 36.6212、140.4406 下宮河内町
旧金砂小学校の北約700mに愛宕神社を祀る愛宕山、標高160mがあり、南下から参道が延びる。
この山、地元では物見と伝えられる。
↑西側から見た愛宕山
この参道も横堀状であり、かなり古くから使われていたことが分かる。
ともかく、参道を辿れば山頂の社に至る。
そこまでの道、所々に平場@はあるが、特段、城館ぽくない。
そして山頂の社Aに。ここからも西金砂山が見える。
もし、城郭遺構が存在するとすれば、山頂の社から北に延びる尾根筋である。
ここに堀切が・・・そんな、期待を抱かせるが「ない」。どこまで行ってもない。
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物見台としては南を見ているので、南北朝時代の瓜連合戦において、北朝方の佐竹氏側が使ったと思われる。
城郭推定地 富士山(36.6180、140.4342)下宮河内町
御館山から南に約700m、浅川西岸に標高156.3mの山があり、国土地理院地図にも標高が記載される。
地元では富士山と呼ばれ、物見台ではないかと言われている。
↑北側から見た富士山
なお、富士山は山頂に「富士権現」が祀られていることによる。
麓からの比高は約80m、富士権現の参道を上がればよいのであるが、この参道@がヤバイ、南斜面を一直線に登るのである。
斜度は30°位か?おまけに冬場、広葉樹の落ち葉が積もりフカフカ状態、晴天続きで滑るのなんの。
這いつくばりながら登る。
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ここを登り切って、さらに登ると山頂Aである。 直径は約20m、祠が残る。 |
山頂からは西金砂山はばっちり見える。浅川沿いの交通もばっちり見える。
物見台としては最高のロケーションである。
山頂部付近には特段、城郭遺構は見られない。岩が多く、岩が切岸のようになっている。
遺構があるとすれば山に続く南西側の鞍部である。ここに堀切があれば本物だ。
で、比高約30mを下る。
でも鞍部には何もない。鞍部から道が下るだけだ。
結局、城館という決めてはないのだ。
下山、登るより怖い。参道が落ち葉で滑ること!2度ひっくりかえる。
ダンボールがあればダンボール橇で楽しく滑り降りられるのだが・・