小田辺城(鹿嶋市中)36.0117、140.5913
林外城、林中城の西、北浦を望む丘にある。
北浦は南約700mに位置する。
城址の標高は33.8m、丘上には稲荷神社が建つ。

↑南側から見た城址、撮影場所の後ろが北浦である。北浦監視の城であることが理解されよう。
城址には西の麓にある幼稚園の裏から登る。
途中から神社参道の階段があり、そこを上って行けばよい。

社殿直下に平場があるが、ここは堀切だったようである。
丘上はサツマイモ型をしており、100×30mの広さがあり、部分的に土塁が覆う。
社殿付近が少し高くなっている。
東端下には曲輪と堀切がある。
この城、ちゃんと見られるのは神社参道と社殿付近まで。
あとはこの付近の城同様、ひたすら篠竹地獄である。

@参道から見た稲荷神社、右に土塁がある。 A主郭周囲には土塁が巡る。

城の歴史等は分からない。
位置からして、北浦からやや内陸にある林外城、林中城の出城であり、北浦を監視するのが役目であろう。
(「茨城県の中世城館」を参考)

明地野館(鹿嶋市和)36.0304、140.5998
「みょうちの」と読む。
鹿嶋環境センターを目指せばよい。
館の南側が同センターである。
標高41mの北から南に張り出した丘の先端部付近にある。

平地林・里山林の保全整備で管理されており、館内は藪状態ではない。
館は42m×56mの平行四辺形をしており、高さ1mほどの低い土塁@Bが取り巻く。
虎口が東西にあるが、これが従来のものか不明である。
丘続きの北側には掘Aがあったらしいが、埋められたようで西側に一部に痕跡が残る。
北側に土塁の痕跡Cがあり、北側に二郭が存在していた可能性もある。

@館東側の土塁 A北西端にわずかに残る掘跡
B館西側の土塁。下は帯曲輪か? C北側に残る土塁跡

袴塚主計の館と言われる。
この地は大掾一族、林氏の流れを組む中村氏の領地であり、袴塚氏はその家臣であろう。(「茨城県の中世城館」を参考)

中城(鹿嶋市中)36.0184、140.5989
中野西小、北側の道を東に上って行くと中村集落になる。
ここの標高は40mである。
集落内は当然宅地が多いが、いくつかのお宅の周囲に土塁がある。
よく残してくれたものである。
家の工事や水道工事などで土塁は邪魔だったと思われるが。

本来はもっとあったと思われるが破壊されたのであろう。
ここが中城であるが、城全体の規模や構造はこうなってしまうとよく分からない。

しかし、結構、大きく、集落全体の及ぶと思われる。
城主は林の流れを組む中村氏と思われる。
(「茨城県の中世城館」を参考)

志崎城(鹿嶋市志崎)36.0628、140.5735
西約1qにある北浦を望む標高33.4mの東から張り出した尾根状の山の先端部にある。

↑ 西下から見た城址

遺構が残っているのは先端部のみであるが、東側の民家の地が二郭だったようである。
本郭は一辺70mほどの三角形をしており、東側が堀で二郭と仕切られる。

この堀、南側が浅くなり、南端部に土橋があり、東側の民家に通じる。

土橋に隣接して土塁Aがある。
本郭内は所々土塁がある。
おそらく昔は畑だったと思われ、耕作により土塁が壊されている可能性もあろう。
曲輪内は藪状態、歩くのも苦労する。
このため、写真を撮っても何を写しているのかさっぱり分からない。掲載できる写真がない!
本郭の北下は帯曲輪になっており、西端部は横堀になっている。

@ 東側の掘、南から北に向けて低くなっていく。 A 南東端の櫓台状の土塁、後ろ側に土橋がある。

城主等は不明である。
中居城や武井城が近くにあり、どちらかの城の支城と推定される。
(「茨城県の中世城館」参照)

赤山館(鹿嶋市和)36.0354、140.5875
津賀城の南東約600mにある。
北浦に近い場所にあるが、南方に少し見えるだけであり、残りの三方は山に囲まれ視界は悪い。
北側が谷津になり、東側から半島状に西側に突き出した標高32mの尾根先端部が主郭である。
南側の水田からの比高は約25mである。

先端最高箇所に60×20mの周囲を土塁が囲む細長い曲輪があり、東に延びる尾根が登城路だったようである。
津賀城の死角になっている南東側を監視する砦であろうか?城主等は不明である。
この城、2016年頃、林外城に行った帰り、寄ろうとして日没近くの為断念、後日回しにした。
そして、2023年、攻略を試みた。・・・しかし、山は土取りで半分無くなっていた。

↑ 南側の水田地帯から見た館跡、御覧の通り主郭部は湮滅状態にある。2023年12月撮影。
丘上に上がってみたが、既に遺構は無かった!悲劇である。
(「茨城県の中世城館」参照)


甲頭城(鹿島市武井)

武井城の南側の北浦に注ぐ甲頭谷津を東に800m、鹿島の杜CCの南側に突き出た比高25mの山にある。
甲頭城というが、ここを武井城ということもある。

北側が台地に続き、残り3方は谷津である。構造的には武田城とそっくりである。
単郭の城であり、主郭部は40m四方ほどに過ぎない。
しかし、切岸の勾配等、メリハリが素晴らしい。

郭内からの土塁の高さは2m。
南側に虎口がある。
東と南に帯曲輪が回り、南下に降りる虎口が帯曲輪にある。
凄いのは台地続きの北側、外枡形@があり、堀Aが抉るように構築される。

台地続きの鞍部は平坦になっており、東下を下る道がある。
これは本来の登城路であろう。
遺構はほぼ完存状態である。

しかし、どうしようもないくらいのド藪である。
写真を撮ってもさっぱり分からない。
ごく小さな城であり、物見の城程度の規模であるが、前は谷津、北浦が西に少し見えるだけである。
ここは隠れ砦ではないだろうか?居館的性格の武井城の避難施設か?
中居氏家臣に加布藤美乃と言う者あり、この者の城と言う。

東から見た城址、写真右手が入口となる。

@外枡形なのだが・・・さっぱり A外枡形外の堀

武井城(鹿島市武井)
北浦に架かる北浦大橋を渡り鹿島市津賀地区に入り、右折して鹿島市街地に向かうと楯の宮館や林外城があるが、逆に左折し県道18号線を行方方面に向かう。
そして1q、武井地区となる。
武井交差点からは東の鹿島の杜CCに向かう立派な道路があり、北側に唐臼神社がある。
武井城はその道路の反対側南側の岡である。
この岡、けっこう急勾配で比高が30mほどもある。
武井交差点から東に入り、すぐに工場裏を岡に登る細い急坂の道がある。
この道を上がった岡の上が城址である。

この道自体が登城路であったらしい。
下の写真は北西側北浦湖畔から見た城址である。
岡の上は平坦、東から西に向けて緩やかに傾斜しており、民家と畑である。
広さは300m×100m程度のものであろうか。
岡の南側縁部には土塁が残る。西側にも残るそうである。

岡北側にも一部、土塁が残る。台地続きの東側には堀が存在したはずであるが、見当たらない。
おそらく埋められたのであろう。
航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものを利用。
城址南側に残る土塁
城址東側に残る土塁