内匠城(富岡市内匠)

富岡市街から県道46号線を南下、上信越自動車道と交差する南西の丘が城址である。
富岡ICは西600mに位置する。
「内匠」、この字、なかなか読めないが、「内」は発音せず、「匠」のみ発音、つまり「たくみ」と読む。

46号線は内匠地区で大きくカーブするが、そこから南へ入る道に入り、上信越自動車道に架かる陸橋を越えるとそこが城址である。
この丘、西から東に張り出し、その東端に位置する。
南から東下を「下川」が流れ、川面からの比高は50mである。
なお上信越自動車道により城の北側の堀が破壊されているそうである。

→の写真は北側、上信越自動車道越しに見た城址である。
陸橋をわたり藪を覗くとそこに堀が口を開ける。
折からの雨で空堀も水堀状態、あちこち歩き回るにも滑ったり、濡れたりどうにもならず、ごく一部を見て撤退に追い込まれた。
豪快な堀と大きな土塁が見られるようであるが・・・。
とてもそこまで行けない。
鳥瞰図は山崎一氏作成縄張図から作成したものである。

本郭にあたる曲輪Tは南東端部に位置し、60m四方ほどの広さがあり、天守台のような土壇を持つ。
深い堀を介し、北と西をL型に曲輪Uが覆う、150m×100m、幅50m程度ある。

さらに北側に100m×70mほどの広さの曲輪Vがあり、西側に40m×20mほどの大きさの土壇Aがある。
一方、曲輪Uの西側に150m×50mの広さの曲輪Wがあり、その西側を土塁Bが被い、堀@が曲輪Vの西側まで覆う。
この堀も深くて大きい。曲輪Vの北側には堀があったが、一部、沢のような感じで残るが、上信越自動車道となって湮滅してしまっている。

城は、国峯城の支城として小幡氏の家臣倉股氏により築かれ、居城にしていたとされる。
しかし、「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)によれば、戦国時代末期、北条氏勢力により築城されたともいう。
おそらく、北条氏により改修されたのであろう。 

天正18年(1590)に小田原の役が起こると、上州方面は上杉景勝と前田利家らの北国勢が攻撃、この時、既に内匠城は放棄されて城兵は国峰城などに集結していたようであり、上杉景勝が国峯城を攻略する時に景勝の重臣藤田信吉が内匠城に陣を置いたという。

「上野志」によれば、「国峰天正18年藤田能登守居住」との記述があり、国峰城開城後、藤田信吉がここに在城し、現在に伝わる改修を行ったであろうことも推定される。
@曲輪V西の堀、雨で水堀になっている。 A曲輪Vの土壇 B曲輪V西側の土塁

なお、藤田能登守信吉(1558-1616)は何度も主君を変えた武将として有名である。
上杉氏家臣武蔵天神山城主藤田氏一族の用土業国の子として生まれ、上杉氏没落後は北条氏の家臣となる。
北条氏邦の支配下で沼田城主を務めたが、天正8年に沼田城とともにそのまま甲斐武田氏に服属。
さらに天正10年の武田氏滅亡後には、上杉景勝に仕え、上記のように北条氏攻略に係る。
その後、会津に移るが慶長5年の関ヶ原合戦直前に上杉家から出奔し、徳川家康に仕官する。
これにより下野西方1万5千石を領する大名となる。
しかし、元和元年の大坂夏の陣での失態を理由に改易(多分、はめら、抹殺されたのだろう。)され、翌年に病没したとされている波乱に満ちた武将人生を送った人物である。

菅原城(富岡市(旧妙義町)菅原)
JR松井田駅から県道51号を下仁田の中小坂方面に南下し、下仁田との市町村境近くの菅原地区に。この地区の西に見える山が城址。
この山のふもとで高田川が東から南に大きく流れを変える。
城に行く道はあるのかどうか分からない。比高は100m程度であるが、斜面の勾配は鋭く、岩もむき出しの部分があり、とりつくことが難しい山である。
それだけ要害堅固ということになるが。
菅原地区から登る道があるようではあるが・・・。

山の南側、の道路沿いにフェンスが途切れた場所があり、そこの碑がある。
その場所から山麓を大きく西側にトラバース。
谷津状になっている部分に石垣@、Aがあり、その石垣のある谷津の西側を登っていくのが望ましい。

なお、この石垣、当時のものなのか、近世、炭焼きや石切をしていた跡なのか何とも言えない。
間違いなく炭焼きに使ったと思われるものもあった。当時のものとすれば、水場のような感じがしないでもない。
何となく八王子城の御殿曲輪から本郭部に登るルートに見られる石垣群にも良く似る。
このルート、道はなく、倒木あり、杉の葉が積もっており、崩れやすいが、比較的安全に登れる。
この場所より東側は岩が露出しており、ここを登るのは極めて危険であり、避けた方が無難である。
このルートを登って行くと、南斜面に展開する曲輪A煮出る。この曲輪、3段ほどに構築され、内部は非常に平坦に加工されている。
日当たりもよく、北風も防げる場所である。
なお、この曲輪に熊の糞があった。こんな山なので、普通に登るのは極めて危険。
ロープの持参はもとより、熊は目撃しなかったが、熊の危険性もあり、1人での登城は避け、大人数で行くべき城である。

さらに熊鈴、ホイッスルや熊スプレーなどのグッズも準備していた方が望ましい。
さて、南斜面の腰曲輪に出ることが成功したら、後は比較的楽である。
西側の山肌を北にトラバースして行くと山頂部となる。肝心の山頂部は直径4、5m程度の平場である。
その周囲に腰曲輪があるが、幅は5m程度と狭い。
この山頂から東、南、北の3方向に尾根が延びる。東に延びる尾根には巨大な2重堀切Cが存在する。
山頂側からは深さが10mほどあり、急勾配である。両側の斜面は急傾斜である。
とても堀切を構築する必要もないくらいの尾根である。

南に延びる尾根は30mほど平坦に続き、曲輪Gになっているが、先端は途切れ、崖である。
一方、北に延びる尾根は幅2mほどの細い通路状になっており、ここも曲輪状である。
途中に2つの堀切があり、2つ目の堀切Dを過ぎるともう1つの本郭というべきピークがある。(便宜上、二郭という。)
いわゆる群馬の城などに多い、2つの本郭を持つ1城別郭という形式である。
この二郭の北東下に堀があり、下にもう1つの曲輪Fがある。
さらに北東に延びる尾根に曲輪が展開し、本来の登城路が菅原地区に延びていたようであるが、すでに藪に閉ざされている。

現在の陽雲寺に居館があり、その詰の城なのであろう。
一方、西側は山に続き、深さ10m以上ある鞍部が堀切Eとなって西側の山を遮断している。
総じて、規模からして、この城は緊急時の避難場所、物見の城、狼煙台程度のようなものである。
しかし、この山自体が要害であり、つくづく、こんな山に堀切を構築する必要があるかと思うが?
それは戦国時代、心配にキリがなかったのであろう。

@南の谷津場にある石組。後世のものか? A ここは水場か?石切場の跡か? B山頂南の腰曲輪
C東に延びる尾根の二重堀切 D二郭手前の堀切 E北の二郭、西側の堀切
F二郭北東下の堀切と曲輪 G南の尾根の曲輪 山頂から見た武田氏の侵入方向、南西方面。

高田氏の出身等は分からないが、戦国時代は小幡氏や長野氏同様、管領の上杉氏の被官であったらしい。
天文年間、信濃国佐久郡は武田氏の侵略に晒される。その中でもっとも激しく抵抗したのが、志賀城(長野県佐久市志賀)の笠原清繁である。
大井氏を下した武田氏は翌天文16年7月24日志賀城を攻撃、笠原清繁は管領上杉憲政に救援を要請し、菅原城城主高田憲頼の援軍を差し向け、金井秀景ら西上野衆を援軍に派遣するが、小田井原合戦で上杉方は敗北し、志賀城も落城、高田憲頼父子も討ち死、高田氏も打撃を受ける。
武田氏が上野に侵攻すると憲頼の子、繁頼は激しく武田氏に抵抗するが、降伏。
小幡氏同様武田氏に従い、武田氏が滅亡すると織田家臣滝川氏、ついで北条氏に従い、この後、この菅原城から東の高田城に移ったという。
北条氏の滅亡で一部は帰農し、一部は徳川氏に従い信濃に移ったという。
参考:山城めぐり

後期高田館 (富岡市(旧妙義町)菅原)
菅原城より県道51号を1q北上すると西側に陽雲寺が見える。
県道から見るとちょうど真西に妙義山系の一つ金鶏山が聳え立ち圧倒される光景である。
この寺の境内が高田氏の館跡であるという。
緩やかな谷の奥を数段の平地にした場所であり、本堂のある地の西に水堀跡と思われる川があり、その西側の墓地付近が主郭であったらしい。
さらに墓地の上段にも平地があり、本堂の東側も平地となっている。
連郭式に段々状になっていたようである。
しかし、地形以外の城館遺構の確認はできなかった。

東から見た金鶏山、
左下に本堂が見える。
陽雲寺本堂、この裏が主郭。 本堂裏の堀跡。左が主郭

宇田城(群馬県富岡市宇田)
富岡ゴルフクラブの南東の山が城址、本郭からは北下にゴルフコースとプレーヤーが良く見える。
鏑川の流れる富岡の盆地の北側の山地にあり、宮崎城からは丹生川の対岸、北東に1.2kmほどしか離れていない。
国道254号線の信号一ノ宮から県道47号線に入り、西進、宇田の交差点を南に入り狭い道を進み、神守寺を目指す。
この神守寺が宇田西城であり、居館の地であったと言われる。

宇田城は神守寺の東にある池から北に延びる道を登る。比高は70mほどである。
城は谷間にある水の手である法華堂(ここが本来の居館ではないのかと思うが。)を覆う山の尾根に曲輪を展開させる馬蹄形をしており、西側に本城部分、東側に北城を置く。
さらに鞍部を隔てて西側の山に出城の西城を置く。
このうち、西城の一部はゴルフ場の建設で破壊されているが、その他はほぼ完存状態である。

しかし、城内はほとんど藪状態である。冬場は何とか歩くことが可能であるが、一部、野ばらがビッシリ生えており、とても歩けないような場所もある。
池の北の道を登って行くと、段々の地形@が現れる。これが後世の耕作に伴うものかもしれないが、おそらくは城郭遺構ではないかと思われる。
また、ここから東に岡が張り出し、一見、曲輪のように見えるが、城郭遺構ではなく、耕作に伴うもののようである。(しかし、城の曲輪の切岸っぽい。)
この尾根筋を登ると本城の本郭に着く。

虎口のような場所を過ぎると堀切Aがある。
かなり明瞭な堀切で竪堀は通路として使っていたと思われる。ここから先は間違いなく城郭遺構である。
この堀切を越えると長さ100m以上もある細長い曲輪となる。西側には低い土塁がある。この東西の斜面には帯曲輪が存在する。
曲輪の北端が土壇になっており、その北側に堀があるが、堀とすれば幅15mほどの箱堀Bであるが、武者溜まりのようにも見える。

この北側が帯曲輪を介して本郭Cである。径40mほどであるが、土塁等はなく、ただの平坦地である。
本郭から北東に向かうと北城であるが、その間に2重堀切がある。
この東側の堀切Dが深さ5mほどあり、豪快。本郭と北城間は100mほど。
北城の主郭は1辺50mほどの3角形であるが、内部は野ばらが混ざった笹藪、全然分からない。
北城は北に位置するピークから南東に300mほどにわたり段々状に曲輪が展開し、3本ほどの堀切Eが確認できる。

神成城にも近いため、小幡氏関係の城と考えられるが、資料はないらしい。
上野古城塁記には小幡図書介の城とには記載されている。
また、伝承として、甘楽太夫友政という人物の城という話も伝わっている。
築城はともかくとして、位置的には小幡氏関係の城として使われていたのであろう。

左の写真は南(北城の南端)から見た本城部分である。左の林の中に曲輪が展開する。
谷間に見える屋根が法華堂、ここが居館の地ではないかと思うのだが?

@ 尾根を登って行くと段々が現れる。
ここは城郭遺構であろう。
A本城の南の尾根にある堀切から下る竪堀。 B本郭南下の堀は箱堀状。果たして堀か?
C 本郭内部は藪、土塁も何もない。 D本城、北城間の巨大二重堀切。
 向こう側にゴルフ場が見える。
E北城から南に延びる尾根の堀切

宮崎城と神成城(富岡市神成)
富岡市の西部、下仁田に近い神成地区にあるこの地の土豪、小幡氏の城である。
国峰城に次ぐ拠点であり、内山街道が通り、佐久と上野を結ぶ街道筋の要衝の地にある。
また、国峰城の西の防衛拠点であるとともに小幡領の西を守る城でもある。
城は居館にあたる宮崎城と詰の城である山城の神成城の2城からなる。
城は上信越自動車道下仁田ICから鏑川の平地を介して北東側に見える山である。

上信電鉄線、神農原駅から北に行くと台地を登った上に「西中学校」があり、ここが宮崎城の跡である。
鏑川からは比高50mほどあり、ここからの眺めは非常に良い。
内山街道の監視場所としては絶好の地である。

その宮崎城であるが、小幡氏滅亡後、江戸時代初期まで使用されていたため、小幡氏時代の姿は不明である。
中学校建設で遺構のほとんどは失われている。

校庭の真ん中に堀があり、その西側が本郭であったらしい。
縄張図を見れば、250m、250m、200mの3辺からなる三角形をしており、西側、神成城側に「ささ郭」があり、2重の堀@、Aが残る。
北側から東側にかけて「城谷」と呼ばれる外郭の堀があった。
一部、その痕跡が残る。B
北端の櫓台C跡は畑の中に残っている。
@ささ郭東側の堀 Aささ郭西側の堀 B 外郭の堀跡。
この宮崎城から西に続く尾根を500mほど行くと、神成城である。
ここには、西中学校から「神成山ハイキングコース」が整備されている。

神成城は南の鏑川に面した部分が断崖であるが、北側には傾斜の緩い尾根が延びる。
その南側の断崖を背に主郭部を置き、北側、北東側、西側、東側に延びる尾根筋に曲輪が展開する。
宮崎城からハイキングコースを進むと、碑が建つピークがあり、細尾根が西に続き、岩盤の上の見晴台に出る。
ここから西に本郭から南に突き出た形の物見台@が見える。
見晴台を西に行くと岩盤堀切Aがあり、そこからが神成城の城域であり、曲輪が展開する。
所々に堀などはあるが、曲輪内は広く、あまり平坦化していない。
ほとんど自然の山状態である。
その南端部が本郭であり、櫓台があるのだが、出城のような感じであり、メリハリは全くない。
いつの間にそこを通り過ぎてしまった。
ここの標高は270m、鏑川からの比高は80mほどである。
C北端の櫓台
この本郭からは5方に尾根が延び、曲輪が展開する。
1本は西中側に延びる尾根、1本は永蓮寺方面に延びる尾根、鍛冶屋方面に延びる尾根、南の物見台方面、そして西の御嶽山方面に延びる尾根である。

永蓮寺方面に延びる尾根の曲輪は広いが凄い藪である。
鍛冶屋方面に延びる尾根には大きな堀切G、Hが2本、その間の谷津には井戸跡Fがある。
本郭は周囲を土塁Eが覆うが凄い笹藪である。

南に延びる尾根に物見台Cがあるが、周囲は崖、ここからの眺望は抜群である。
御嶽山方面が搦め手であり、堀切がある。

御嶽山Dは標高321m、本郭より50mほど高い。
ここが本郭かと思ったが、どうも物見台程度のものである。
この御嶽山の裾にも曲輪が展開している。

この城、北方面が緩やかであり、弱点と思われる。
このために傾斜の緩い北側の尾根方面に多くの曲輪を築いていると思われるが、一方では、防衛のためというより、この方面の広い曲輪は住民の避難スペースのような気がする。
左の写真は御嶽山から見た東方向。
左下の林が本郭。右上が宮崎城である。

戦国時代は小幡信実の弟、播磨守昌高が在城していたという。
小幡氏は上杉氏に従っていたが、上杉氏の退潮に伴い、上野に侵入した武田氏に従うが、長篠で大打撃を受ける。
その後、武田氏が滅亡すると一時、織田家臣、滝川一益に従うが、本能寺の変後、滝川氏が撤退すると北条氏に従う。
しかし、天正18年(1590)、秀吉による小田原の役が勃発、ここには小幡吉秀・同則信が守備していたが、豊臣方、北国勢の上杉家臣、藤田信吉や木戸玄斎らに攻略され、降伏開城したという。(多分、戦いはなかったであろう。)
その後、関東に転封された徳川家康の家臣、奥平信昌を三万石で宮崎城に入るが、関ヶ原後、慶長6年(1601)美濃加納に移封となり、廃城になったという。奥平氏が宮崎城に入った後、詰の城である神成城が機能していたのかは分からない。
しかし、当時は豊臣秀吉の時代であるが、まだまだ先は不透明な状態である。
特に関ヶ原直前の時期は、奥平氏により、神成城が再整備されたことも十分考えられる。
@ 宮崎城との中間点、見晴台。 A この岩盤堀切が神成城の入口。 B Aの堀切を越えると曲輪がある。大手曲輪?
C 見晴台から見た物見台 D 西の御嶽山山頂。ここは物見だろう。 E 本郭の櫓台であるが、本郭内は笹藪状態。
F本郭北の谷津の井戸跡 G鍛冶屋方面の曲輪の堀切 H鍛冶屋方面の曲輪末端の堀切

参考:山城めぐり