一郷山城(高崎市吉井町)36.2204、138.9873
上信越自動車道を長野方面に走行し、吉井IC付近から南の山を見ると、山頂部に「怪しい城」すなわち天守閣風展望台、牛伏山展望台が建っている。
この場所が一郷山城である。
↑ 北側、上信越自動車付近から見た牛伏山。左手に模擬天守が見える。そこが城址である。
標高は454m、吉井町中心部からは比高が330mもある。
この山、牛伏山は東西に長い尾根状の山で最高箇所標高490mには電波塔が建ち、城は少し下った東端部に位置する。
車で行けるが、その道、狭い!
対向車が来たらすれ違いに苦労しそうである。
幸い行った時は対向車に出くわさずに済んだが、11月の平日にも関わらずけっこう人が来ていた。
展望台からは赤城、榛名、妙義、浅間の山々や高崎、前橋市街が一望である。
↑ 展望台からの北方面の眺望。左手の山が榛名山、右手の山が赤城山、その下の街が前橋、高崎市。絶景である。
しかし、展望台、かなり老朽化が進んでしまっている。
この展望台、昭和の遺物かと思ったが、造られたのが平成2年だそうである。
まあ、ぎりぎり昭和か?中世の城址に天守閣って、よくあるパターンだったが、その終末期のもののようである。
遺構はほぼ湮滅状態、イラストは山崎一氏の図を基に作成。
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| B主郭の地に建つ怪しい城、天守閣風展望台 |
模擬天守の建つ場所が城の最高箇所、主郭であるが、遺構は東に下る尾根筋の北側に土塁を持つ曲輪群と西側に堀と土塁の残片が現存するのみで、その他は展望台と駐車場建設により遺構は湮滅している。
典型的な尾根式の城であり、北東下の新堀城(多比良城)の詰め城であったという。
| @西側、山頂部側に部分的に残る土塁と堀 | A展望台に向かう坂の下に堀切があった。斜面に竪堀が残る。 | C東側に残る北側に土塁を持つ小曲輪群、ここはオリジナルな遺構である。 |
築城は永享10年(1438)関東管領上杉憲実が足利持氏との抗争に際し、本城の平井城を守る城砦の1つとして築いたという。
上杉憲政が北条氏康に敗れ越後に亡命すると、武田氏が進出し、永禄6年(1563)上杉氏家臣安部中務尉之友が守っていたが、武田氏に攻め落とされたという。
(図説 群馬の城郭 を参考にした。)
長根城(高崎市吉井町)36.2488、138.9656
上信電鉄西吉井駅の南約700m、国道254号線を越えた所の比高約30mの岡北端部が城址で、長根神社が東端に位置する。
かなり広域な城であるが、城域は宅地や畑となりかなり遺構は失われている。

本郭部はそれでも何とか形は残り周囲の堀跡、土塁、櫓台が残る。
かなり広域な面積を持つ城であったようである。
この城には長根神社の東下にあるコミセンに車を置くのが良いだろう。
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| 北東先端部から見た城址、上に長根神社がある。 | @北東端に位置する長根神社、ここも曲輪だろう。 | A本郭東側の堀跡は畑になっている。 |
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| B Aの堀の南西端の本郭切岸は石垣が残る。 | C本郭虎口、両側の櫓台は墓地になっている。 | D本郭(右)西の城坂、竪堀兼登城路だろう。 |
城主は小幡氏一族長根氏であり、上杉氏に従っていたが、北条氏が進出すると上杉氏の下を離れ北条氏の傘下となり、さらに武田氏が進出するとその傘下となり、武田氏が滅亡すると滝川氏に従い、滝川氏が撤退すると再度北条氏の傘下となる。
しかし、小田原の役で北条氏が滅亡すると没落し、廃城になったようである。
上州の多くの武家はこのパターンであり、ほとんどは北条氏と運命を共にしてしまう。
(図説 群馬の城郭 を参考にした。)
庭谷城(甘楽町)36.2649、138.9457
鏑川の崖に面した段丘上にある赤城神社の地が本郭である。

↑@城址本郭に建つ赤城神社
川面までの高さは約15m。
南側の奈免沢との間にある梯郭式の崖端城であるが、遺構が残るのは赤城神社の地を本郭とした約30m×40mの範囲に過ぎない。
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神社社殿を囲むように東側以外の3方向を土塁が覆う。
神社の入口は南にあり、西側にも土塁の切れ目がある。
果たしてどちらが本来の虎口なのだろうか?
土塁の外側の堀は湮滅している。
その外側が二郭であるが、宅地や畑になって湮滅している。
国峰城の小幡氏の家臣庭谷左衛門尉の城と伝わる。
天正3年(1575)には上原淡路守が在城している記録がある。
この当時は西にある慶恩寺が居館だったという。
この城、西側が平地続きであり、弱点となる。
慶恩寺は弱点の西側を防御するための砦、三郭でもあったのだろう。
天正18年(1590)小田原の役での北条氏滅亡とともに廃城になった。
(図説 群馬の城郭 を参考にした。)