山王日枝神社
元々は比枝神社と言った。
赤坂の外堀通りに面する比高20m程度の丘の末端にある。
江戸城を築いた江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明10年(1478)太田道灌が江戸城を拡張するにあたり、城の鎮護神として川越山王社を勧請したという。

とは言え、神社は始めからこの地にあった訳ではなく、この地に遷座したのは万治元年(1659)家綱の時代だそうである。
それ以前、この場所がどうなっていたのかは分からないが、地形から見ると、中世江戸城の出城であったのではないかと思われる。

天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入ると、「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」と位置付けられ、江戸市民から「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬を集めるようになった。
 慶長9年(1604)秀忠の代に社地を江戸城外の麹町隼町に移し、庶民が参拝できるようしたが、明暦3年(1657)の明暦の大火で社殿が焼失、万治元年(1659)家綱の代に江戸城から見て裏鬼門に位置する現在の場所に移したという。
(それまでは、ここに松平忠房の屋敷があったという。)

明治元年(1868)東京奠都の際に准勅祭社に指定され、皇城鎮護の神社とされて大正元年には官幣大社に昇格。
昭和20年の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年に再建されたという。(神社HP等参照)

神社本殿は戦災で失われ再建されたもの 神社参道は急階段。
ここが高台であることが分かる。
外堀通りから見た神社境内。
高さ20mくらいあり、急斜面である。

赤坂見附

江戸城の三十六見附のひとつ、地下鉄の駅名にもなっているくらいであるので三十六の見附の中でも一番有名だろう。
と言っても見附は36もなく、語呂合わせで36といったらしい。
実際は門を入れても26箇所だそうである。

ここは枡形門の形式であったというが、残っているのは紀尾井町の国道246号沿い、赤坂プリンスホテル横、坂の途中に残る石垣だけである。
この石垣の西側は弁慶堀となり、堀沿いに石垣が弁慶橋まで続いている。
なお、赤坂という地名はローム層が剥き出しで土が赤いため茜山と呼ばれており、そこに登る坂を赤坂と呼んでおり、それが地名になったという説もあるそうである。
この赤坂見附は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之が枡形石垣を造り(造らされ)、同16年(1639)御門普請奉行の加藤正直、小川安則が門が完成した。
明治6年(1873)門が撤去され、石垣だけが残った。

弁慶堀

弁慶堀に沿って首都高新宿線が走る。堀幅は50mくらいである。
写真右が首都高であり、この先が赤坂見附である。

写真左の林(北側)がニューオータニの敷地である。
堀の名も弁慶橋も寛永年間に堀割工事を請負った御用大工弁慶小左衛門りから命名されたものという。



喰違見附
赤坂迎賓館とニューオータニ、上智大学間の外堀にかかる土橋にある見附で、ここは土塁がクランク状(喰違状態)のままに残っている。
このため、喰違見附と呼ばれる。
ここは他の見附とは異なり、石組みのない簡易的な門であり、枡形にしなかったかわりにクランク状にしたという。

現在の道路にもクランクしたままで、ここを車で通るのは結構危険、土塁の陰から車が出てくる所を横断するのは怖い。
この土橋の北側が上智大学のグランドになっている真田堀、南側が弁慶堀である。
なお、明治7年(1874)1月14日、赤坂仮御所から馬車で喰違見付にさしかかった岩倉具視が征韓論を退けられたことに恨みを持つ武市熊吉ら9人の刺客に襲撃された事件(紀尾井坂の変)がここで起きている。

道路の真ん中に土塁が、その脇から車
が、出てくる。
これは怖い。
北側、上智大学側にある土塁。 北側の堀跡は上智大のグランド。
対岸が上智大学。堀沿いに土塁がある。

四谷見附

四谷見附橋の北側に石垣だけが残っている。
もともとはコの字形をした「喰い違い」方式であったが、交通の障害になるため、障害となる部分の石垣が撤去されて北側の石垣だけが残った形となっている。

しかし、中央線の線路に沿って土塁が残っており、南側は上智大学の南側、真田堀沿いに高さ4mほどの立派な土塁が紀尾井坂交差点方面まで続いている。
四谷見附橋の北側に残る石垣。 四谷見附橋南側、上智大学の南側の真田堀沿いに高さ4mほどの立派な土塁が紀尾井坂交差点方面まで続いている。

牛込見附

飯田橋駅西口を出るとに牛込橋に繋がる牛込門の石垣が両側に残っている。
この石垣は寛永13年(1636)蜂須賀忠英が築き、同15年渡櫓門と高麗門が完成。
明治35年(1902)に撤去された。なお、江戸湾からここまで船で来れ、荷揚げ場があったという。
牛込橋北側の石垣。 牛込橋南側の石垣

中央線沿いの外堀

飯田橋駅から四ツ谷駅の北付近まで1.5qの区間が残っている。幅は70mくらいである

ここにはもともと長延寺谷があり、その谷を利用して、家光の時代、寛永13年(1636)拡張工事を行い神田川につなげた。

南は四谷で南東方向にカーブし、現在の上智大学のグランドになっている真田堀、紀尾井坂の喰違見附から弁慶堀に繋がっていた。

谷を掘り込んだ土は内側につまれ土塁が造られた。

常盤橋門
東京駅日本橋口の北、日本橋川にかかる常盤橋に面してあった門であり、門跡は「常盤橋公園」になって現在、石垣と土塁が残っている。

この橋は天正18年(1590)に架けられた江戸でも最も古い橋の一つで、長さ十七間,幅六間と両国橋が架かるまでは江戸一の大橋であったという。
解説板によると、3代将軍家光の頃までは,常盤橋門は江戸五口の一つで浅草口、追手口と呼ばれ、その橋も大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。

しかし、その名はあまり良くないので、家光は町年寄の奈良屋市右衛門に改名するよう命じた。
市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常盤という名を献じたという。
なお、常盤橋門は明治6年に撤去され、現在の橋は再現もので人だけが通れる。
橋がかかる日本橋川は、水道橋駅の西、神田川の小石川橋のたもとから南流し、大手町の北縁から呉服橋北、日本橋を経由し、永代橋付近で隅田川に注ぐが、この川の西半部は外堀の一部となっている。

この川はもとは平川と呼ばれ、小石川沼から江戸湾へと注ぐ川だった。
江戸の都市整備で主流が神田川になったため、内堀の排水用水路に過ぎなかったが、明治になって再度神田川に接続された。

しかし、現在では上を首都高池袋線が走り、暗い。
かつてより水はきれいになっているが、どぶ状態である。
外堀は通りの名前のとおり、この付近から南にカーブし、東京駅の八重洲口を通り、有楽町方面につながっていた。

愛宕山神社
東京都港区愛宕一丁目にある愛宕山にある神社で、境内に三角点があり、標高が25.7m、実はここが都内23区の最高地点なのだそうである。
完全なる自然形成によってできた山であるが、低地から一気に盛り上がった感じであり、どうようなメカニズムできたかは分からないらしい。
昔は東側に海岸が広がっていたという。

この愛宕山が歴史に登場して来るのは江戸時代、家康が幕府を開いてからである。
山上の愛宕神社は家康が、これから整備しようとした江戸の街の防火を願い、祀った神社である。
以後、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られるようになり、各大名が地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地に愛宕神社を祀ったという。

また、高層建築のない時代、ここは天然の展望台であり、山頂からの江戸市街の景観が素晴らしく、第1級の観光地でもあった。
幕末にここから撮影された有名な写真があるが、かなりの遠方までが写されている。

また、『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われ、新橋駅からもはっきり見てたのであろう。
また、桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達は、愛宕神社に集合し、成功を祈願してから現場に向かったと言う。
この神社の東から登る参道の石段が凄い迫力である。

この坂、「男坂」というが、別名「出世の石段」と呼ばれている。
この謂れは家光が増上寺参拝の折に山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の曲垣平九郎が馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。
しかし、この話、現地を見ればとても信じられない。
とても馬で登れるような場所とは思えない。

さらに日本放送協会(NHK)の前身、東京放送局(JOAK)がこの愛宕山から1925年に日本初のラジオ放送を発信している。
こんな数多くのエピソードに彩られた山、そして神社である。

この愛宕山、現在は周囲を高層ビル群に囲まれてしまい、かつての姿は想像できないが、大木はそのままであり、都会の中の緑のオアシスである。
神社周辺は昔の江戸の雰囲気が残っている。
さて、この山の歴史、江戸初期からが明確なだけである。
果たして中世はどうだったか?

山は南から北に突き出た尾根、突端部が高くなった感じの山であり、西側が抉れている。
しかも、この付近では最高峰。
さらに北側には中世江戸城がある。
そうすると当然考えるのは、ここは江戸城の出城じゃなかったかということである。

その明確な証拠はあるのかないのか分からないが、神社南側、放送博物館側が低く、ここに堀切を入れれば、神社のある地は三方が急勾配の立派な砦となる。
果たして堀切は存在したのだろうか?

愛宕神社の参道、通称「男坂」 神社本殿 神社境内

将門塚
東京大手町のビル街の中、江戸城の大手門にも近い場所に異質な一角がある。将門塚(しょうもんつか)である。
周囲が高層ビルなのだが、ここだけは木々が鬱蒼と生い茂っている。

しかし、結構、人が来ているものである。
管理人が訪れた平日の午後でも7,8人の人がいた。(ここの一角に喫煙所があることも要因)
近くに勤務するサラリーマンか、出張で立ち寄った人かは分からないが、熱心に解説板を読んでいたり、中には手を合わせる人もいる。
ここは近所の三井物産等の企業の有志がきれいに管理してくれており、ゴミ1つ落ちていない。

名前のとおりあの平将門の首を祀った塚ということになっている。
伝承では、将門の首は京の東の市・都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き、ここに落ちたとされる。
この伝承は数カ所あるそうであるが、ここ大手町の首塚がもっとも知名度が高い。

でも、本来は首塚ではなく、古墳が存在しており、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったという。
この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であり、ここは浜辺に近い場所であったようである。
いつから将門と結びついたものかは定かではない。
伝承はさらに続き、住民は長らく将門の怨霊に苦しめられ、諸国を遊行回国中であった他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、霊を慰め、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗芝崎道場に改宗したという。

なお、日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えている。
この伝承からは、鎌倉時代にはすでに将門伝説が存在していたことになる。
江戸時代になって、江戸城外郭拡張のため、日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともにこの首塚の管理者になっている。
これが、時宗における怨霊済度の好例なのだという。

江戸城の拡張でも首塚は破壊されることはなく、この付近は大名屋敷街となる。
しかし、さすが将門は武士の間でも英雄である。この場所は一切、手を付けられず、そのままの状態で大名屋敷間に残され、武士から崇拝されていたようである。
この首塚は関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。
この時、古墳の墳土が失われた。

ここは、古くから霊地、心霊スポットとして有名であったようであり、破壊行為に及べば祟りがあるという伝承もすでにあったという。
その伝承がよみがえる事件が起こる。
関東大震災後、ここに大蔵省の建物が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員に相次ぐ不審死が起こる。
これが新たな将門の祟り伝説の始まりである。
この噂で大蔵省内はパニックになり、昭和2年に将門鎮魂碑を建立、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われたほどである。
また、この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本されたという。

さらに戦後、再び祟りが起こる。GHQが周辺の区画整理をしようとし、その障害となるこの塚を破壊しようとしたとき、また不審な事故が相次ぐ。
結局、造成計画を取り止めたという事件でが起こる。
以後、この首塚は誰も手を付けず、かつて以上に名所として、そして心霊スポットとしてここに存在し続けるのである。
この辺の詳細はhttp://www.k2.dion.ne.jp/~hike/fest.htmlを参照して下さい。
wikipediaの記事、現地解説板参考
いやあ、あんな小さな敷地にすぎない塚だけど、凄い話があるもんだ。