江戸城(東京都千代田区)
この城、わざわざ、当HPに1項設ける必要があるのか迷った。
だいたい、HPのタイトルの「中世城郭」とは縁遠い城だし、皇居になっているので参賀の時じゃないと中も見れない。
以前、霞ヶ関で働いていた時、近場なので参賀に加わって見るチャンスがあったのだが、当時は皇室にも、城にも特段の興味はなかった。
おまけにここは徳川の城、どうも徳川家は陰湿なイメージがあって好きになれない。
この城も大名いじめの一環として諸大名に整備させたという「やくざ」の強請ような経緯で整備された過去を持つ、ここは、その徳川氏の本拠である。
そのため、取り立てて入る気にもならなかった。
昔は、時々、皇居1周マラソンをやっていた。でも知らなかったが、本丸等、主郭部である東御苑は一般人でも特段、支障なく入れたのである。
あまり進んで見るつもりではなかったが、出張で東京に行った時、打ち合わせの合間の時間が少しあった。
出張先もすぐ近くだったので、空き時間を利用して東御苑を中心に江戸城に突入することにした。
印象は?というと余り感銘は受けなかった。余りに整備されすぎていることもあるが、この城は見せるための城、威圧するための城である。
生きるか死ぬかの緊迫感が漂う中世の城とはまったく雰囲気である。
名古屋城や彦根城、仙台城、盛岡城、弘前城なども似たような目的の城であるが、それらの城より遥かにその威圧的雰囲気が強い。そりゃそうだ。ここは幕府の本拠である。

江戸城と言えば、太田道館築城と思われているが、実際は平安末期から鎌倉時代初頭まで遡る。
最初にここに館を置いたのは、江戸重継という。今の本丸付近の台地であったらしい。
この江戸氏は結城合戦から始まる関東の騒乱で没落。この跡地に目を付けたのが、関東管領扇谷上杉氏の重臣、太田道灌である。
彼は江戸氏の館を拡張整備し、原型となる江戸城を築城した。
当時、ここは西から江戸湾に突き出た岡の先端であり、東側は海であった。大手町付近が海岸だったようである。
この岡の先端部近くはいくつもの谷津が複雑に谷を刻んでいたという。その谷を掘り込んだのが、蓮池堀、道館堀、桜田堀、半蔵堀と言われる。
その当時の城域は、今の本丸、二の丸を中心に、西の丸付近に出丸があった程度であったらしい。
それでも当時としては巨城である。

道灌暗殺後、江戸城は北条氏の支配下に入り、城代は遠山氏であったという。
江戸城の立地は、江戸湾に流れ込む利根川と荒川の河川交通路と品川湊を起点に六浦(金沢)を経て鎌倉に至る海上交通を扼する水上交通の要衝であり、ここを抑えれば、関東内陸部への交通を制御することが可能となり、内陸部への進出拠点となる場所でもある。
このため、北条氏はここを重視し、関東北部への侵略拠点とした。
しかし、織田信長とは違い、北条氏はここに本拠を移して関東制覇をする気はなかった。
その北条氏も天正18年(1590年)、小田原の役で滅亡し、秀吉から北条氏旧領の関東六州(武蔵・相模・伊豆・上野・下総・上総)は徳川家康に与えられる。
家康入城時の江戸城は、太田道灌の城の規模であったという。
道灌時代から静勝軒という多重の御殿建築(三重櫓という)があったという。
この櫓は江戸時代初期に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体されたという。
徳川の江戸城の本格的整備が始まったのは、関が原の戦いで天下を掌握した後、慶長8年(1603年)である。
家康は、「天下普請」と称して諸大名に城を整備させ、財力を削ぐという1石2鳥という方法で、本丸、二の丸を整備させ、さらに西丸、三の丸、吹上、北の丸を増築。
これらの内郭部の周囲総延長は16qになるという。
このやり方、まるで「やくざ」そのものである。いや、「やくざ」より阿漕である。
また、さらにその外側に外郭を築いた。
その外周は外堀通りとして名が残り、現在の千代田区と港区、新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川がその範囲であり、この内部に武家屋敷を配置する総構えを持つ世界最大の城郭となった。
また、埋め立てを行い城下を整備し、今の東京の基礎が築かれた。

日比谷公園内の石垣。石垣の上はOLの昼食スポットとおじさん
のお昼ねスポット。
祝田橋から見た日比谷堀と東京駅方面。堀と高層ビルの取り
合わせが不思議にマッチしている。
桜田門、あの暗殺事件の現場である。門は当時のまま、
事件の目撃者である。当然、重要文化財。
おなじみ伏見櫓 二重橋と二重橋堀。 坂下門、皇室の通用門。警備の丸の内署のおまわりさん、
親切でスポットを色々教えてくれた。
乾門。ここからは入れない。 半蔵堀と鉢巻石垣と腰巻土塁。
石垣と土塁と堀、素晴らしい造形美である。
桜田堀。ここが一番美しいポイントじゃないかな。

江戸時代の江戸城については、ここに書いてもしょうがないので割愛するが、度々、火災にあって、その都度、建て直しが行われ、姿を変えている。
最後は幕末、文久3年(1863)に被災し、本丸内部のほとんどの建物を焼失。
この時、大奥などの建物も燃えてしまった。その後、幕府の政庁としての機能は西の丸に移され、本丸は半分、廃墟のような状態で明治維新を迎えている。
明治以後、皇居になるが、西の丸が皇居主要部となる。
昭和43年から本丸、二の丸、三の丸部分は東御苑として一般公開されている。

江戸城の皇居部分で最もポピュラーな場所は、二重橋前と桜田門であろう。
ここはいつでも人が多く写真を撮っている。修学旅行の時もここで写真を撮ったっけ。
江戸城の一番きれいな場所といえば、南の半蔵堀、桜田堀付近だろう。
この付近はジョギングで良く通ったが、いつもきれいな場所だと感じていた。
特にビルの灯が堀の水面に写る夜の風景が最高であった。
城郭としての美しさもこの部分が最高である。土塁の高さと土塁の上の鉢巻石垣、そして堀のカーブが素晴しい。

東御苑

江戸城の本丸、二の丸、三の丸を中心とした地域で、面積は約21万m2という広大な面積を有する。
皇居造営後は、宮内庁の書陵部と楽部の庁舎、馬場、内親王の呉竹寮などに使われていたが、昭和35年一般公開が決定され、施設の整備を行い、昭和43年から一般に開放された。

大手門、北桔梗門、平川門から入ることができる。
正門である大手門Dは、馬上9人、徒侍3人、足軽30人、仲間20人、鉄砲20丁、弓10張、長槍20筋、持筒2丁、持弓2組、提灯30で警護にあたったという。
門は枡形門になっており、高麗門をすぎると道がクランクしており、渡り門櫓がある。
平川門@は、三の丸の正門である。平川堀に竹橋から堤防状の土橋がかかっており、本来はこれが正規のルートであったらしいが、今は平川橋がかかっており、この橋で出入りをする。
江戸城の勝手口でもあり、大奥の女性はここから城内に出入りをしていた。
また、御三卿の一橋、田安、清水の各氏もこの門から入城した。
北桔梗門Aは北の丸から天台守の裏に出るルート。ここの平川堀と乾堀の間にかかる土橋は、堀水面から20m程度の高さがあり、高石垣の勾配が鋭い。桔梗門Bもあるがここは非公開。
大手門を入ると三の丸である。その南側には桔梗堀に面して、皇居のシンボルの1つ桜田二重櫓Cがあるが、ここは非公開である。大手門を入るとその先に下乗門Fがある。
ここを入ると二の丸であるが、二の丸と三の丸間にあった堀は失われている。門のところには警備所である番屋がある。
ここを入ると二の丸であるが、二の丸の主要部分は北側の庭園になっている部分である。
本丸の入口が中門である。ここは大きな外枡形になっている。巨大な石垣の石Fで威圧する。
門前に百人番所があり、門を入ると大番所Eがある。

百人番所で護衛にあたったのは、甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎組の四組で鉄砲組などもいた。
忍者もいたというが、忍者達の仕事は大奥の護衛、空き家になっている御殿の管理、また、お庭番か黒鍬組などの名前で知られる隠密などであったというが、どちらかというとガードマンに近い仕事であったという。
ここを入り、中雀門を通ると本丸内部である。ここまでの道はS字を描いている。
本丸は全周を高石垣で覆う。出入口は正門である中門の他、北桔梗門、汐見坂、梅林坂などがある。
汐見坂Lが二の丸への通用門である。
梅林坂からは平川門に通じる。梅林坂Mから平川門に通じる道もS字を描いて下り、その間に天神堀と平川堀の一部が湾のように食い込む形となる。
本丸の周囲は高さ5mほどの石垣交じりの土塁が1周する。所々高い部分は櫓台である。
本丸内部は公園であるが、かつてはびっしりと建物が建っていたという。
南端にあるのが富士見櫓Gである。
富士見櫓は、万治二年(1659年)に再建された櫓である。
江戸時代の遺構は意外と少ない。天守閣が明暦の大火で焼失した後、富士見櫓が天守閣の代用にされた。
どこから見ても美しいので八方正面の櫓と呼ばれましたというが、後ろから見れば意外と質素な普通の櫓である。
将軍は夏に両国の花火をこの櫓の三階で見物したという。
富士見櫓が建てられる前にこの場所に建っていたのが、精勝軒と言われる3層という。
文明6年(1474年)に建てられ、そこから海や富士山が望め、歌合わせの会がよく開かれたというので、いかにも太田道潅好みという話である。
この櫓は南下から見るのが良いらしいが、立ち入り禁止になっている。

@平川門(左)と城内で亡くなった死者を城外に出すための不浄
門、生きてこの門を出されたのは浅野内匠頭と絵島だけとか?
A北桔梗門と平川堀。この門を入れば直ぐ前が天守台である。 B桔梗門。ここは非公開。
C桜田櫓 D大手門と桔梗堀 E警備所にあたる大番所
F大手道沿いの石垣は大きな石を四角に加工して隙間なく積ん
でいる。
G天守焼失後は、実質、天守の代行を務めた富士見櫓。
表からは参賀の時くらいしか撮影できない。意外と質素である。
H松の廊下跡。あの「殿中でござる」事件の舞台。最近の説では、
浅野内匠頭はバカだったとか?そうかもしれん。
I富士見多聞櫓。後ろから見るとただの長屋か倉庫にしか見え
ないが、反対側、蓮池堀越に高石垣の上に建つ姿は優美という。
J石室。火災など緊急時に大奥の調度品をしまうための耐火金
庫のようなものか。
K天守台。50m四方もある巨大なもの。石垣込みで高さは61m
とか。撮影位置に大奥があったとか。
L汐見坂 築城時にここから海岸が見えたのでこの名がついたとか。 M梅林坂 太田道灌が名づけたとか。ちょうど梅の花が咲き、
名前のとおりの状態になっていた。
N天神堀、石垣の上が二の丸。二の丸を出ると平川門まで道は
S字を描き、その間に堀がある。

西側の土塁に沿って歩くと、松の廊下H跡がある。
正式には、松之大廊下(まつのおおろうか)と言って、江戸城内にあった大廊下のひとつ。
本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にいたる全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称されたという。
元禄14年(1701)旧暦3月14日、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野内匠頭長矩が、ここで高家旗本、吉良上野介義央に斬りつけたことで有名である。
現在は、場所を示す碑が建てられているだけ。
その先に現存の富士見多聞櫓Iがあるが、後ろから見るとただの長屋か倉庫である。
その北には石室Jがある。
火災時に大奥の調度品を避難させた耐火金庫とも言うが、抜け穴の入口という説もある。本丸の北端にあるのが、天守台Kである。
江戸城の天守は慶長期(1607年)、元和期(1623年)、寛永期(1638年)の三度、建てられている。
慶長期の天守は本丸の中央部に建てられたが、元和期に現在の位置に変えられたという。
この時は家康死去後、秀忠が家康の影響を払拭し、自分の治世になったことを示すため、建て直したというが、他にも諸説があるらしい。
その元和期の天守も秀忠の死後に家光によって建て直されている。
これの動機も、家光が父秀忠の影を払拭するためとか、漆喰の早期剥離に対する修復改造工事であったという説もあるが、その真実は不明である。
寛永期の天守は五層六階の独立式層塔型で銅板張りの壁に銅瓦葺であったというが、明暦の大火で焼失。焼失後、再建が計画され、そのために天守台も修復された。
これが今残る天守台であるが、火災の影響を受けていない新しい石が多いのはこのためである。
一方、天守台内部の石は火災の熱を受けた石をそのまま利用している。
天守の設計図もできたが、保科正之の「平和の時代に天守は不要。そんなことに金を使うより、江戸の復興の方を優先すべき。」との意見により再建は中止された。
さすが、名君、保科正之である。それ以後、天守は築かれず、本丸南の富士見櫓が天守の役目をとしていた。(上の鳥瞰図は北桔梗門前にあった説明板の図を借用)