滝山城(八王子市高月町/丹木町)
武田信玄も落せなかった城として評価が高い。
北条氏bQである北条氏照の居城で、武蔵支配の拠点城郭だけあり、規模は大きく、縄張の巧妙さ複雑さが見事。

また、城址の開発が行われていないため、遺構の残存状態もほぼ完存状態にある。
戦国時代の城郭としては日本有数のものと言える。

城は多摩川南岸の加住丘陵にある。
この丘陵は北西から南東に長く、多摩川に面する部分は40mほどの崖であり、この方面からの攻撃は不可能である。
この丘陵の複雑な谷津地形を巧みに利用し、随所に空堀が掘られ、大小30近い曲輪が機能的に配置されている。
曲輪は居館、政庁や倉庫も兼ねた城であったため広大であり、堀の幅、深さもまた壮大である。
城域は外郭の部分も入れると2q×1q程度はあると思われる。

高月城などは出城として存在し続け、武田軍の攻撃を受けた時、高月城には北条軍が詰め、武田軍に対したという。
多摩川の対岸、昭島は住宅がびっしり建てられ、城の南側の滝川街道沿いも大学が近くに沢山あるので、学生用アパートが建ち並んでいる。
そんな周囲が家だらけの状況の中、城址だけは自然溢れる別世界である。
そんな林の中に巨大中世城郭の遺構が眠っている。

城は滝山公園になっており、良好に管理されている。
公園なので、車で簡単に行けると思ったら大間違い。
南側の滝山街道、国道144号線沿いに城址入口の標識があるのでここを進んでいくと、細い登り坂になる。
これが大手道(大手道は大馬出に出るルートともいう。)であるが、軽自動車以外は行かないほうが良い。
車が入り込まなく、人の足でないと見学できないから、遺構が保存されるのであろう。

この道を登っていくと、左手に小宮曲輪の堀が見えてくる。
この小宮曲輪は300m×70mほどの細長い曲輪であり、家臣の屋敷跡だったという。
ここの堀はぐるっと曲輪南側から北側にかけて覆う。
さらに登ると右手に三郭外側の空堀が見える。
80m四方ほどの広さである。
次の中曲輪は、東西100m南北50mほどの広さがあり南に土塁が残る。
多摩川方面は谷になっている。
北側に千畳敷という70m四方ほどの平場があり、角馬出を経て、二郭に入る。
二郭内は南側が高く土塁がある。
本郭側は低くなり、幅30m、深さ15mほどの巨大な堀で中の丸と隔てられる。
150m四方ほどの巨大な曲輪である。
中の丸との間は現在は土橋状であるが、かつては木橋であったという。
北側下には大きな平場がある。本郭には一度、中の丸に入ってから曳き橋を通って入る。
本郭と中の丸間の堀も壮大である。中の丸は100m×80m四方ほどもある大きな曲輪である。

本郭は、中の丸からは曳き橋をわたって入るが、本郭の入口は内枡形で高2m程の土塁に囲まれている。これは曳き橋を曳きこむスペースという。
本郭は2段になって細長く、150m×50mほどあり、土塁が全周する。
南に谷側に降りる虎口がある。北端部に霞神社が祀られている。その北側は崖である。
本郭の北側の谷筋にも堀切、曲輪群があるが、そこまでは行かなかった。
一方、二郭を東に行くと土橋となり、角馬出を経て、信濃曲輪などの家臣団の屋敷跡に行けるが、その間の堀がカクカク湾曲しており、深い。

家臣団の屋敷跡は一辺200mのL型をしており、信濃曲輪、形部曲輪があり、土塁で仕切られている。
ここの東端は深い堀が掘られている。

ここが城の東端にあたる二郭の南側には小馬出を介して60m四方ほどある大馬出がある。
大馬出の先端には櫓台のような大きな土壇があり、周囲は湾曲した堀になっている。
その手前の二郭側の角馬出を北に行くと、二郭南の空堀と土塁を兼ねた曲輪に出る。これも細長い馬出とされている。
この部分も中々見事な造形である。
さらに北の尾根にも山の神曲輪があり、さらにその外側にも外郭があったという。

築城は永正18年(1521)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重といい、高月城から移ったという。
しかし、大石氏は天文15年(1546)河越の夜戦後、北条氏の勢力が及ぶと大石定久は北条氏に従属し、氏康の三男・氏照を娘婿に迎え、事実上、大石氏は北条氏に乗っ取られてしまう。

以後、八王子城に本拠を移すまで北条氏照の居城となった。
大石氏の滝山城がどの程度の規模であったかは分からないが、本郭と二郭程度のものではなかったと言われる。
今残る滝山城は氏照が何回にも渡り改修拡張を加えた姿である。

滝山城を巡る戦いとしては永禄12年(1569)の武田軍による攻撃が有名である。
小田原攻撃に向かう武田軍2万は、まず滝山城を攻撃、多摩川の北、拝島に本陣を置き、小田原方面と連絡する街道筋を閉鎖して、滝山城を包囲。
一方、別働隊の小山田信茂隊が小仏峠から侵攻し、北条軍を廿里で撃退(廿里古戦場)、滝山城は武田軍の攻撃を受け、三郭まで武田軍に攻め込まれ、落城寸前にまで追い込まれたが、何とか守りきり、武田軍は包囲を解き、小田原に向かう。
武田信玄の攻撃をかわしたことで評価は高いが、この時の城兵は2000程度であったという。
確かにこの広大な城を2000の兵で守るには無理がある。
@ 小宮曲輪の周囲の横堀 A 三郭南の空堀 B 千畳敷(右)と馬出(左) C 二郭(右)と中の丸間の深い堀。
D 中の丸内部 E 中の丸(右)と本郭間の深い堀 F 本郭内部は土塁が覆う。 G 本郭南側の虎口の枡形。
H 本郭の北側は一段高く
霞神社がある。
I 二郭を東に行くと馬出がある。 J 二郭周囲の堀は横矢がかかり
クネクネしている。
K 二郭の東は信濃屋敷等家臣屋敷がある。
L 城最東端の深い堀 M 二郭南の大馬出内部。 N 大馬出の周囲に堀が回る。 O 二郭南の堀と細長い馬出

この城は北側の崖以外はどこからも攻撃することが可能である。
それ以外の全線を兵2000で対応することは不可能である。
もし、城の地理に詳しい者が手引きしたら城内への侵入は容易である。

この城を守ろうとすれば、万の兵が必要となる。
この戦いで、氏照は滝山城の防御体制が不十分であることを痛感し、小数の兵力で防戦が可能な八王子城を築城し、移転することになったという。
おそらく、氏照は武田軍程度の規模の攻撃を想定していたと思われるが、八王子城はそれをはるかに上回る兵力と、はるかに優れた鉄砲などの兵器で攻撃されてしまい、役には立たなかった。
小田原の役では滝山城は放棄された状態であったと思われる。

(よみがえる滝山城、八王子城(揺藍社)、現地のパンフレット・解説板を参照。上の鳥瞰図の丸付き数字は写真の撮影場所を示す。)