浄福寺城(東京都八王子市下恩方町)
案下城、千手山城、松竹城、新城等、多くの別名がある。
つまりは城に名前はなかったということを示している。
この浄福寺城というのも麓に浄福寺があるから便宜上、そう呼んでいるに過ぎない。

城のある恩方は八王子城の北の谷を通る都道521号線、かつての案下街道、馬頭街道を北から見下ろす山にある。
当初は甲斐とを結ぶ街道が山間から平野に出る場所を抑える目的で築城されたと言われる。

築城は至徳元年(1384)上杉氏家臣大石信重によると言われる。
しかし、大石氏は北条氏に圧迫され、氏照を送り込まれて、家も領土も乗っ取られる。
当時の大石氏の本拠は高月城だったらしいが、氏照が最初に入ったのがこの浄福寺城ともいう。

後に滝山城に移り支城となり、戦国末期、北条氏に危機が迫ると八王子城に移り、八王子山城の北を守る出城になった。
八王子城の戦いでは氏照は主力を率いて小田原城に入り、八王子城にも家臣が籠もっていた程度だったので、浄福寺城は守備する兵もなく放棄された状態だったと思われる。
小田原城が落城し、北条氏が滅亡した時点で廃城になったのであろう。
麓の浄福寺は大石氏が開基した寺であるが、始めから今の場所にあったのかは分からない。
今の寺がある場所は当時は居館だったと言われる。

城は典型的な尾根城であり、本郭が位置する標高356mの千手山から延びる尾根筋にこれでもか、これでもかという位しつこく曲輪や堀切が展開する。
おそらく全てを見ようとしたら少なくとも半日は必要だろう。

↑都道521号線から見た城址、ここからは全貌は捉えられない。

本郭のある千手山、おそらく尾根があちこちに派生しているという意味だろう。
本郭に行くには浄福寺@西にある墓地の中に建つ白山神社の裏から上がって行くのだが、案内板などはない。
ちなみに寺の標高は206m、南を流れる浅川からは約25m高い。
登っていくのが南尾根曲輪群である。本郭までは比高150mを登ることになる。

道は始めの部分は結構藪であるが、林の中に入るとスッキリし、案内板も見られる。
登って行くと観音堂Aがある。尾根先端の盛り上がり部であり、3段の平坦地になっている。
ここから城域、ここは物見兼居館との中継所か。背後は竪堀のようになっているが自然の崩落か?

尾根は一旦下りとなり、さらに再び登りとなる。
小さなピークを過ぎまたアップダウンを繰り返すと堀切、曲輪Bが4回繰り返し、しかし、登り道は風化した大粒の砂で滑ること!落ち葉も怖いがざらざらの砂粒もまた危険である。

そして本郭CDに到達。
ここには金比羅社の祠がある。祠の場所が一段高く、東側に土塁が派生する。ここには井楼櫓が建っていたのだろう。
その南側に一段下がって広い曲輪がある。ここに城主の居る小屋があったのだろう。

南側斜面に連続竪堀があるというがさっぱり分からない。
南東に尾根が派生し浄福寺の裏に出るといい、その尾根筋にも曲輪が展開するというが、ここは行かなかった。

@麓の浄福寺、ここが居館跡という。 A南東尾根を登って行くと観音堂がある。ここから城域。 B南東尾根を登って行くと、堀と曲輪が次々と展開する。
C本郭南側の広い曲輪 D本郭最高箇所。金毘羅社の祠が建つ。 E本郭東下の堀切。降りるのが危険。

なお、本郭の西側にも尾根が続くがたいした遺構はないという。
本郭が最西端ということになるが、西側にそれほどの城郭遺構がないのは何でだろうか?
これから拡張整備しようとする前に廃城になってしまったのか?

一方、本郭から尾根を東に向かうと多くの遺構が見られる。
まずは大堀切Eである。岩盤を掘りきったものであり、本郭側からの深さは8m位あり、降りるのが怖いくらいである。

その先は不整地の曲輪あるが、北側は整地されており北端に土塁Fがあり、ここから3本の堀切Gが連続する。
北尾根曲輪群である。北端に周囲が連続竪堀の曲輪Hがあるが、藪でよく見えない。ここの標高は326.5m。
さらにここから北にも遺構があったようだが、土取で湮滅している。

一方、土塁Fから一気に20m下り、そこから東に延びる尾根にも遺構が展開する。
まずは二重堀切Iがお出迎えその先の曲輪を過ぎると12m下り、鞍部にはまた二重堀切、そして再度登り、二股に分かれた曲輪となる。
この曲輪は結構広い。南東尾根曲輪群の主郭と言えよう。
ここの道筋が大手道であったと言われ尾根上は通路状になっている。
この曲輪は大手曲輪と言えるのかもしれない。
南端に堀切Jがある。
ここは堀が曲輪に複雑に入り組んでいる。ここの標高は292m。

F Eの堀切の先に曲輪が展開し北端に土塁がある。 G Fの堀切の北側尾根に大きな堀切が3本連続する。 H 北尾根曲輪群の中心の曲輪、遺構が複雑で把握不能。
I南東尾根曲輪群の入口の堀切。藪! 南東尾根曲輪群には通路状、本来の大手説がある。 J南東尾根曲輪群の主郭南端の堀切。

山の南下を見ると高速道路が山から突き出て車が南に走って行くのが見える。
そう、この曲輪の真下を圏央道恩方トンネルが貫通しているのだ。

Jがある曲輪からさらに東に道が延び、恩方小学校西側に降りれる。
やはり、このルートが本来の登城路であろう。
ここから引き返すのが一番ベストの選択である。

ところが、管理人、何を思ったか、ここからまっすぐ下る道を選択した。
これが大失敗だった。
一番の近道に見えるルートが一番の遠回り」、という何度も経験している人生の教訓を繰り返すことになる。
全く成長していない。

案の定、降りていって進退窮まる。
どうにも動けない。しかし、ここまで来たら降りるしかない。
急坂を滑落し、何度も転びながら、藪を抜けて都道521号線脇の歩道に出た。

そうしたら恩方中学校の下校中の生徒の列の中に・・・これ以上は赤面もので書けない。
あの姿こそ不審者そのものである。

高月城(東京都八王子市高月町)
この城を探していて、周囲の農村風景に驚いた。
我が家付近とそんなに変わらない。
水田があり、農道があり、畑があり・・・。おっさんがトラクターで田んぼを耕している・・・。
ここは八王子、と言ってもそれでも東京都、とても東京都というイメージからほど遠い風景だった。

そんな農村地帯に高月城がある。
南側から秋川の蛇行点に半島のように突き出した丘陵が城である。

丘が半島状なので直線連郭式の城である。
先端部から本郭まではだいたい300m、さらに尾根状に細くなり南西方向に約250m続く。

↑北西側、秋川対岸から見た城址。右側の山が本郭。中央の建物が廃ホテル。
東側に都道166号線が通り、秋川にかかる東秋川橋から250mほど南下すると右に入る道がある。
ここを進むと、切り通しとなり、右に廃墟のラブホがある。廃墟マニアには有名な「ホテル高月城」である。
あまりにズバリのネーミングに感心する。
ここが三郭である。秋川からの比高は15mほどである。
北側には堀切があるというが、さすがに立入禁止では・・・。

なお、切り通しの道も堀切を利用したものらしい。
その途中に本郭方面に向かう道@がある。
ここを進むと、左手が大きな土塁Bになっている。
ここを過ぎると堀Aがあり、朽ちかけた倉庫が不気味に建っている。

その先が二郭であるが藪でさっぱり分からず、おまけに「私有地につき・・」のお馴染みの看板があり入りようもない。
でもここはかつては畑だったという。
さらに堀があるがここも藪。

@廃ホテル南側の切通しから本郭に向かう入口。 A @を入ると堀があるが、藪状態。 B @の入口東の土塁と東側ぼ帯曲輪
C本郭への登城路は本郭北側の帯曲輪を通る。 D本郭は約100m四方、畑だったらしい。 本郭北側は堀状になっているが、これは遺構か?

堀から本郭に向けて登っていくと帯曲輪Cが重なり、本郭Dとなる。
かつてはここも畑だったそうであるが、今は草も刈られて広場のようになっている。
標高は153m、秋川からの比高は約50mである。

本郭は100m四方くらいあるようだが、草が刈られているのは北半分だけ。
南半分は藪状態。その先に土塁、堀、馬出があるようだが、とても行けるものではない。

一応、解説板もあるのだが史跡としては、解説板の設置と草刈り以上のことはされていない。
やたら本郭が広いので居館や政庁、倉庫等もここにあったのだろう。

長禄二(1458)年に武蔵国守護代の大石顕重によって築かれたといわれる。
大永元(1521)年、大石定重は滝山城を築城し移転したため、高月城は廃城になったといわれる。・・が、そうじゃないだろう。
北条氏系城郭の専売特許、角馬出などがあるので滝山城の支城として整備されていたのであろう。
ここの城主だった大石氏であるが、天文15(1546)年の河越夜戦の上杉氏敗北によって北条の圧迫が強まり、氏康の三男、氏照を養子に迎えさせられ体よく家を乗っ取られる。
この氏照、名将として名高く、北条氏を支える。
滝山城は武田氏に攻められるが、おそらくこの高月城にも北条氏の兵が入っており戦ったのではないかと思う。
廃城は八王子城完成の時点だろう。