八王子城(東京都八王子市元八王子町)
小田原の役で落城した悲劇の城である。
山上の主郭部は激戦が繰り広げられた地であり、鬱蒼とした森でもあり、今でも怨霊が漂っているような不気味さであった。
この城の名前であるが、標高445m(比高約240m)の深沢山(現在の城山)山頂に牛頭天王の八人の王子が八王子権現として祀られていることから、八王子城と名付けられたという。
どこまで城と言えるのか諸説があるが、主に山頂の本郭、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪群からなる要害地区(金子曲輪等、各尾根に展開している曲輪群を含む。)と城山川沿いの谷奥にある御主殿、アシダ曲輪などからなる居館地区、その東の城下町である根小屋地区からなり、さらに北側の浄福寺城、小田野城、初沢城などの支城群、城川の南側の山の尾根の太鼓曲輪などかなり複雑、かつ広大である。

築城は天正15年(1587)、北条氏康の三男氏照という。
氏照はそれまで大石氏の築いた滝山城を拡張し本拠としていたが、永禄12年(1569)滝山城が武田軍の攻撃を受け、苦戦し、滝山城の防衛に限界を感じたことと、織田信長に会い、安土城を見た経験から、小人数でも守れる石垣で固めた山城の構想を考え、八王子城の築城構築を開始したという。
しかし、本拠を滝山城から移転して間もなく、天正18年(1590)小田原の役が起こり、6月23日、松井田城、鉢形城を落とした豊臣軍の北国勢、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍3万5千に攻められた。

この時、城主氏照は小田原本城におり、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀ら留守の兵や領内からの農民兵など約1000人(3500人ともいう)が立て籠ったていた。

しかし、10倍以上の兵力差はどうにもならず、奮戦するものの、多勢に無勢、わずか1日の戦いで落城し、城兵はほとんど全滅、家臣の家族である大勢の婦女子が自刃したり御主殿の滝に身を投げ、滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている落城の悲劇が起きた。
この攻撃を受けた時点で城はまだ未完成な状態であったという。
役後、城主氏照は北条氏政とともに切腹。
その後、ここは徳川家康の領土となるが、八王子城は利用されず廃城となった。

八王子城へは中央道が通る元八王寺から道が延びている。
その谷沿いの集落が根小屋地区である。

最奥の駐車場に車を止め、管理棟を過ぎた付近から 城域となり、川沿いに居館地区の曲輪群が展開し、最奥が石垣が再現された御主殿である。
一方、右手の道を行き、尾根をたどると山上の要害地区に行ける。
尾根上には、段々に8つ程度の曲輪が重なり、金子曲輪がある。

この尾根筋を前田軍が攻めあがったと言う。
金子三郎佐衛門家重が奮戦し、壮烈な戦士を遂げたので金子曲輪と呼ばれる。
長さ100mほどある細長い曲輪である。

その先に3段の曲輪があり、柵門台に至る。
ここで大手筋と搦手道、谷津底から上がる道が合流し、さらに山王台への道が分岐する。
搦手道からは上杉軍が攻撃したという。

周囲は石垣造りだったようで一部が残る。
ここを過ぎると主郭部への登りとなり、ジグザグの道を登っていくと高丸という曲輪に出る。
そこから主郭部を巻くように登ると中曲輪である。
途中、東京都内が一望の下に見える場所がある。

麓の駐車場にある城址碑と要害部の山 大手道を登って行くと曲輪群が展開する。 大手道の途中にある金子曲輪 小宮曲輪下から見た都心部
@ 要害部下段の中曲輪 A 上の中曲輪には八王子神社が建つ。 B 最高箇所の本郭は狭かった。 C 小宮曲輪は広いが不気味であった。
D 松木曲輪はピクニック広場だった。 E西側下の無名曲輪。
周囲に小曲輪がある。
F 南下の大激戦地、山王曲輪 山王曲輪を御主殿に下る途中にある石垣。
御主殿の内部。広い曲輪である。 御主殿東の登城石段。安土城に似る。 御主殿に入る曳き橋 麓のアシダ曲輪の切岸

中曲輪は2段になっており、上の段に八王子神社の社殿が建つ。
南側に一段高く直径30mほどの松木曲輪、北に長さ100mほどある小宮曲輪がある。
本郭は西側に高さで20mほど登った場所にあり、直径15m程度の小さなものである。
周囲に小曲輪がある。

一方、松木曲輪の西下の柵門のさらに下に井戸があり、今も水が出ていた。
さらに西に向かうと無名曲輪という長さ30mほどの曲輪がある。

この要害部といわれる主郭部の直径は150mほどのものであり、周囲を2本の道が巡っている。
現在は鬱蒼として暗い感じである。
しかし、ここの感じ、どこかの城に良く似ている。
そう、安土城の天主曲輪である。

おそらく、氏照はここを総石垣にしたかったのではないだろうか。
勿論、そのモデルは安土城である。

この要害部からは詰めの城に向かう道の他、山王台を経て、御主殿に降りる「殿の道」がある。
非常に急勾配のジグザグの道であるが、岩がゴロゴロしている。
御主殿の石垣の石はここの石で構築されたようである。

その途中に石垣が数段あるが、ここに石垣を造る意義があまり感じられない。
沢の鉄砲水を防ぐ、砂防ダムのように見える。

御主殿は150m×80m位の広さであり東と南を土塁が覆う。
ここで多くの女性が自刃したと言われる。
城主氏照の居館跡である。
東の登城道が復元されているが、安土城のものにやはり良く似ている。
引き橋も見事に復元されている。
そこから太鼓曲輪のある南の山すそを東に向かうと大手門がある。
(よみがえる滝山城、八王子城(揺藍社)を参照。鳥瞰図の丸付き数字は写真の撮影場所を示す。)