要害山城(甲府市上積翠寺町)

戦国の英雄、武田信玄生誕の城として知られる。
武田氏の居館であり政庁であった「躑躅ヶ崎館」(武田氏館)の詰の城と言われ、北東約3qの要害山にある。

城があったから要害山という名で呼ばれているのだろうが、元々は丸山と呼ばれていたという。
しかし要害山城という名前、味気ない。
一体、日本にいくつあるのだろうか。
別名、積翠寺城という名もあるが、これもまた便宜上の名前である。
当時の呼び名は単なる「要害」といったのだろう。

甲斐の城と言えば、「躑躅ヶ崎館」、「新府城」、「岩殿城」の名が出るが、この城の名もよく登場する。
そりゃ、英雄信玄が生まれた城だもんね。

城は東から西に張り出した尾根の標高780mの盛り上がり部にあり、西に下る尾根に多数の曲輪を展開させる。
城には西の山麓にある要害温泉の脇から上がる。
ここには駐車場もある。
ここの標高は562m、本郭までは比高約220m、けっこうきつい道のりである。

登城路はいくつかあったようであり、この遊歩道もその一つであろう。
積翠寺から登る道もあったらしい。

左の写真は山の南西下の積翠寺から見た城址、要害山である。
尾根を正面から見ているので山が丸っぽく見えるが細長い尾根状の山である。

遺構が展開するのは中腹からである。
麓部には物見台のような場所が見られる程度である。
中腹からは土塁間に空いた門が9つあるというが、数えてみても良く分からない。数が・・・。
ほとんどが坂虎口を組み合わせた桝形虎口である。

虎口を持つ曲輪間は高さが4〜6mある。所々に堀が入る。
門跡の土塁は石積で補強される。
石積みは乱雑な感じのものやきちんと積んだものが見られるが、前者が武田氏時代のもので、後者は武田氏滅亡後の織豊期のものと言われる。



本郭Fは東西約70m、南北約30mの長方形をしており、一部欠損があるが(排水用だろう。)土塁が囲む。
小屋程度のものではなくちゃんとした建物が建っていたのだろう。

背後東側に大きな堀切Gがあり、尾根続きのその先にも堀切H、曲輪が連続する。
背後への備えであるが、この山を背後から攻撃するのはかなり困難と思われる。
この先を進み尾根の分岐を南西側の尾根を下ると支城の「熊城」がある。

@主郭部の入口、大手虎口、石積みが見られる。 A @の虎口を入ると道は右に曲がり登りとなる。右手に段々の曲輪が展開。

直線連郭式の尾根城ではあるが、尾根が広く居住性も十分にあるので、一般的な細尾根を堀切と竪堀で区画するタイプとはかなり違った印象を与える。

さすが知名度が高く、遊歩道も整備されているので訪れたのが平日であったにも係わらず8名ほどの人にすれ違った。
もちろん天気が良かったこともあろう。

地元出身の英雄の生誕地という聖地でもあるので聖地巡礼の一環かもしれない。
本郭にはおばちゃんが2人、休憩していた。

地元、甲府の人だそうだ。しばし会話、管理人が川中島の生まれと聞くと一気に話ははずんだ。
さすがに川中島は甲斐の人にとっては聖地の1つのようだ。
地元出身の人が多く亡くなったからか?

Bここの虎口の土塁には石積みがるが、武田時代のものか? Cこの虎口は直線的に登る坂虎口。路は石畳みだったようだ。

そこで「おばちゃん達のご先祖さんに俺の先祖の畑、踏み荒らされたんだぜ」と言ったら「そりゃ、申し訳ないことしたね。」と返してきた。
さすがに「謝罪と賠償を!」たは言わなかったけど。

城址は遊歩道沿いと本郭はきれいに草刈りが行われていたが、ちょっと外れると藪だった。
そりゃ、比高220mもあるきつい山に刈払機を抱えて登って作業するのは大変であろう。
主要部だけでもちゃんと見れるのは感謝である。

Dここは路が石段状、石積みは織豊系城郭っぽい感じだった。 E本郭の虎口、ここを通れば広い本郭である。
築城は武田信虎の時代と言われ、永正16年(1519)の躑躅ヶ崎館築城とほぼ並行して築城が開始されたとみられるという。

政庁、居館と詰の城をパックで整備したのであろう。
この時期はまだ甲斐国内も不安定であり、いつ国内で反乱に会うか、国外から攻め込まれるか分からない状況であった。

城主は駒井氏というが、おそらく信虎が指名した城代と思われるが、武田氏滅亡後、織田氏、徳川氏に従う廃城時まで城主だったので、地元の土豪であろう。


大栄元年(1522)駿河の福嶋氏が甲斐に侵攻した際、信虎の妻、大井夫人がここに避難し、信玄を産んだと言われ、積翠寺に産湯を汲んだという井戸が残る。
F本郭内部は広い。内部には立派な建物があったのだろう。

この当時の城がどの程度のものかは分からないが、武田氏が外征ばかりをしていた信玄の時代はそれほど拡張整備をしていなかったのではないかと思われる。

この城が拡張されたのは長篠の戦での敗戦後、甲斐に危機が迫った時からと言われている。
おそらく新府城が完成するまで工事は継続されたのであろう。

武田氏が滅亡し、織田氏、徳川氏が支配すると「躑躅が崎館」が支配拠点として整備されるが、その時、並行して要害山城の整備も再開されたという。
廃城は関ヶ原合戦後、甲府城が築城された時という。

G本郭背後の巨大堀切と土橋。竪堀が豪快に斜面を下る。 H本郭背後、2つ目の堀、これも豪快である。

結局、この城で攻防戦が行われることはなかった。
使われることのなかった堀の膨大な工事量は掛け捨て保険の高額な払い込み金額を連想してしまった。
まあ、戦国時代のほとんどの城での合戦はあまりなく、ほとんどは掛け捨てとなった高額な保険ということなのだろう。
(甲信越の名城を歩く 山梨編、日本城郭大系 を参考にした。)