谷戸城(北杜市大泉町谷戸
中央道長坂ICの北、約2q、八ヶ岳の南の緩やかな傾斜の裾野の中の標高860mの独立丘に築かれ、同心円上に土塁や空堀を配した輪郭式の城郭である。
東西を東衣川、西衣川が流れ、北側はやや緩やかで八ヶ岳方面に続き、北側以外の三方の周囲は急勾配である。
特に南方面は下の駐車場からは比高50mあり、急斜面である。

平安時代後期、常陸から源義清・清光親子が甲斐国市河荘に流され、逸見荘へ土着した後、勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となる。
谷戸城は清光が居城にした城と伝わる。
『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180)月23日には石橋山の合戦後、武田一族が「逸見山」に集結し、ここで頼朝の使者である北条時政を迎えたというが、「逸見山」の比定地候補の1つがここである。
その後の記録は分からないが、武田氏の信濃侵略が開始されるとまた登場するようになる。
ここは佐久地方への侵攻ルート上に当たる。


↑南から見た城址主郭部

『高白斎記』によれば、天文17年9月6日(1548年10月7日)、武田晴信が佐久の前山城攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したことを記している。
これが谷戸城を指しているようである。

その後の信濃出陣において宿城や軍勢の集合地として使われていたのではないかと思われる。
南下にも屋敷跡や深草城等の支城と推定される城館も周囲にあるが、武田氏時代に整備されたものであろう。
しかし、この城、武田氏時代では終わらない。

天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後、同年6月の本能寺の変が起き、織田氏が甲斐から撤退すると旧武田領の争奪戦、「天正壬午の乱」が発生する。

甲斐は徳川家康と北条氏直が争奪戦を演じ、先に家康が甲斐を占領する。
これに対し北条氏は碓氷峠経由で信濃に侵攻し、まず北信濃の制圧を目指すが、すでに上杉氏が川中島を制圧していたので南に転進、佐久から野辺山を越えて甲斐に北西側から侵攻する。

これに対し、家康は新府城を再興し本陣を置き、能見城を前線に七里岩台上を防衛ラインとする。
これに対し、北条氏は若神子城(北杜市須玉町若神子)を本陣に、周辺の城砦に布陣したというが、本陣にしたのは谷戸城ではないかと思われる。
おそらく、今の姿はこの時、北条氏が整備したものであろう。

この戦いでは東から御坂城経由で北条氏の軍勢が侵攻し、挟み撃ちにするが徳川軍に撃退される。
一方、こちらの方面の北条軍は武蔵、上野一帯の北条氏に従った武家の軍勢が、略奪目当てで加わっており、かなりの大軍であったと言われる。
当然、その兵糧は現地調達レベルではなく、碓氷峠等を経由して補給していたらしい。
この兵站線を徳川に味方した真田昌幸が得意のゲリラ戦で分断する。
結局、補給が止まり、飢餓に瀕した北条軍が和議を結んで撤退し、甲斐は徳川領となる。

この時点で戸谷城は機能を停止し、廃城になったのではないかと思われる。
江戸時代から城跡と認識されており、昭和51年(1976)には山梨大学考古学研究会による測量調査が行われる。昭和57年(1982)には一部の発
発掘調査では青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。(Wikipediaを参考にした。)

さて、遺構であるが、城としては非常に変わっている。
まず、想定する敵方向が南である。大手が北である。
まるで八ヶ岳を背にした佐久の勢力が甲斐に侵攻し拠点にしたような感じである。
これは最初にここに拠点を置いた武田氏の祖、源義清・清光親子が南の甲斐の在地勢力を警戒した名残ではないかと思う。
ただし、天正壬午の乱で北条氏が造り変えたことも想定できないことでもない。

信玄の時代には大手がどちらか等の戦闘的な配慮は不要であり、宿城、集合地として使っていただけであろう。
南下に家臣団の屋敷があった。
城主(城代)の居館は曲輪Yであり、城主郭部の西下にあった。

@南西側から登る搦手口の通路。 A主郭部西下の帯曲輪、左下が居館の地。 B主郭部、曲輪V、内側が堀になっている。
C本郭(左)南側の堀と土塁 D本郭内部南側、周囲を土塁が覆う。 E本郭内部北側

天正壬午の乱では南方の新府城が敵なのでうってつけの城である。
主郭部周囲の曲輪群はこの時整備されたものであろう。
城のある山が丸っぽい形のため、曲輪の配置は輪郭式を採る。
斜面の傾斜も緩やかである。

主郭部が非常に変わった形である。
高さ約3mの土塁に囲まれた30m×40mほどの広さの本郭D、Eはともかく、その周囲の曲輪U、Vは外側に土塁があり、内側に堀があるのである。B、C、F、G
規模は本郭部を囲むように100m×70mの広さを持つ。
普通は土塁の外側に堀を置くので、常識とは逆である。
この形式は吉野ケ里遺跡のような弥生時代の城砦集落の形式と同じである。
どうしてこのような形式を採ったのか分からない。

F曲輪U内部、外周部内側が堀、その外が土塁である。 G曲輪Uの堀と土塁。右側が曲輪内部なのである。 城址から見た南方向、林が家臣屋敷。

また、同じ形式の城があるのか記憶にない。
この形にしたのは武田氏なのか、北条氏なのかも分からない。
この主郭部の周囲には帯曲輪Aがあるが、犬走りのようでもある。
八ヶ岳方面に通じる北方向は弱点であるため、常識通り、2重の堀で遮断している。
遺構はしっかりしているが、多くの謎を秘めた城である。

若神子城(古城、大城)(北杜市須玉町若神子)
「わかみこ」と読む。結構、知名度がある城である。
しかし、知名度の割に「何だこれは?」というような遺構である。
訪れた古城は明治時代に若神子で起きた火災後土取りが行われ、その後、昭和57年(1982)公園化されたため、遺構がほとんど分からなくなっている。
しかし、城址公園のはずであるが、城の痕跡が分からないほどのセンスのなさである。


↑@公園入口部、ここは堀切跡ではないか。


↑A 本郭があった場所。城の面影、皆無。

あの時代ならそのようなセンスを求めるのは無理かもしれない。
城址と知らずに来たらただの公園としか思わないであろう。
かろうじて、城らしいものは先端部近くの狼煙台Bのレプリカである。
これでやっと、城跡だということが理解できる。
本当に狼煙台ってこんなものだったのだろうか?
雨の日、夜間はどうしたのかな?太鼓とか鐘を使ったのだろうか?

ただし、公園化に先立ち発掘が行われ、薬研堀や掘立小屋跡が検出されている。
遺構はかろうじて先端、南側に堀の痕跡C、Dが見られるのみである。
この部分はオリジナルの遺構であろう。しかし、埋没が著しい。

B先端部近くに建つレプリカ狼煙台 C先端部付近の堀跡 D Cのさらに先にも堀の痕跡がある。

イラストは日本城郭大系掲載図と現地確認をもとに描いてみた再現ものである。
南城も土取りで形が変わってしまい似た状況という。

須玉川の谷に西側から張り出した比高40〜70mの丘上にあり、丘が西川、湯川に区画された3本の尾根上に立地し、北側から北城・古城・南城の3城郭からなる。
どれが主城か分からないが、古城の名があるように真ん中の古城が一番古くからあり、北城、南城は後で増築したものと思われる。

『甲斐国志』では、甲斐源氏の祖にあたる新羅三郎義光を城主としているが、義光がここに来たことはおそらくないと思われ、伝説の域を出ないであろう。
その後、源義清、清光に伝えられたとしているが北約6qにある谷戸城にも同じ伝承があり、これも怪しい。
ともかく、義清、清光がこの付近のどこかに甲斐における最初の拠点を置いたのは確かなようである。

武田信玄の時代には武田氏の信濃侵攻の拠点の1つであり、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、軍勢の集合地であったと思われる。
現地に立つと、韮崎方面の眺望が良く、狼煙台としてはいい位置にあることが理解できる。

↑ 城址から見た南方向、右下の道路が中央道、天正壬午の乱での徳川軍の最前線、能見城は中央右手付近である。

この城の戦歴で最も注目されるのは、武田氏の滅亡後、武田旧領の争奪戦、「天正壬午の乱」の時であろう。
天正10年(1582)6月佐久方面から侵攻した北条軍が若神子城に本陣を起き、周辺一帯に布陣する。
これに対し、先に甲斐に入った徳川家康が新府城を再興し本陣とし、能見城を前線基地にして対陣する。
若神子城と能見城間は直線で約5qである。
結局、睨みあいに終始し大きな戦闘は起こらず、補給路を真田昌幸に経たれ、窮地に陥った北条氏が同年10月に徳川氏と和議を結び、撤退する。
この結果、甲斐は徳川領になる。
その後、若神子城は廃城になったのであろう。