新府城(山梨県韮崎市中田町)

武田勝頼が築城した悲劇の城である。
1973年(昭和48年)に「新府城跡」として国の史跡に指定され、本郭に勝頼神社が建つ。
城跡は整備されてはいるが、悲劇の城ということもあり、しかも、訪れたのが冬場の午後4時という暗くなりかけの時間帯、なお更物悲しい雰囲気が漂うような感じがした。

城は釜無川と塩川の侵食で形成された七里岩の崖上の半独立した台地全体を城にしている。
南北600m、東西550mの城域を持ち、西側は崖であり、川からの比高は100mもあり、この方面からの攻撃は不可能である。
北側から北東側にかけては谷津であり、谷津を利用した水堀(泥田堀?)が巡らされている。
南方向からアクセスが容易であるが、当然、この方面は厳重に曲輪が多重に配置される。
丘の北端部に本郭を置き、その西側に二郭、南側に3段ほどの帯曲輪を置き、その下に東三郭、西三郭を南に向けて並べ、その周囲に帯曲輪を配置、南端に武田氏の築城技術の特徴と言われる丸馬出、三日月堀を置く。
本郭や二郭、東西三郭は非常に広く、居館、政庁、倉庫群としての機能を集約し、さらに戦闘要塞としての機能も持たせた欲張った城である。

変わった遺構に北側の水堀の中に半島状に突き出た出構という遺構がある。
鉄砲戦を考慮した銃撃陣地というが、果たしてどんな構造になっていたのであろうか。
多分、トーチカのような銃撃陣地ではなかったと思われる。
横矢の応用のような感じでもある。五稜郭の星形の突き出しが同じような機能を期待していたのではないかと思われる。
新府城自体はこんな感じであるが、当然、新府城単独での防御はあり得ず、北に台地を分断する長塁があったという。
(この長塁は天正壬午の乱の時に徳川氏が構築したとの説もある。)また、白山城や能見城が出城として考えていたようであり、これらと連携して防衛が成り立っていたのであろう。

この城は、戦国末期、長篠の戦いで大敗した武田勝頼が、領国支配の強化と織田軍の侵入を考慮して築城したということになっているが、築城については様々な説があり、どれが真実かは分からない。

一説には駿河を領する穴山信君(梅雪)が織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への築城を進言したともいう。
この裏には、既に裏切りの腹を固めていた梅雪が築城で武田氏の財政を破綻させることを狙ったなどの尾ひれまで付いている。
多分これは結果論からの後世の作り話であろう。

国の防衛に不安があったための移転か、人心一新を狙った移転か、築城の意図は今だに謎である。当然、古府中が飽和状態となりどうにもならなくなったという経済的社会的な理由もあったのであろう。
それらの複合した理由で移転が行われたのであろう。

しかし、結果としては、新府城の築城は武田氏の財政を破綻させる。
このころ、武田氏の金山は下降気味で収入が減っており、度重なる出兵の費用も財政を圧迫していたらしい。

また、強行した移転は、家臣領民に大混乱を起こさせ、人心が武田氏から離れたともいう。
これが、武田氏があっと言う間に滅亡してしまった大きな要因となったことには間違いないであろう。

ただし、この場所を選んだことには妥当性があるという。
1つは、ここは用地が広大で計画的な城下町の建設が可能であり、交通の要衝でもあった。

工事の開始は、天正10年(1582)に開始されたようであり、真田昌幸が普請を命じられている(「長国寺殿御事跡稿」真田宝物館所蔵文書)
その年末には勝頼が躑躅ヶ崎館からまだ完全には完成していない状態の新府城へ移っているので、かなりの突貫工事であったようである。

しかし、時は待ってくれず、天正10年(1582)、ついに武田氏滅亡に向けてのドラマが始まる。
始めは木曽義昌の反乱である。この討伐軍は鳥居峠で敗北し、織田軍の侵入を招く、後は将棋倒しのように武田氏の防衛網は崩壊。
諏訪へ出陣していた勝頼は新府城に帰城するが、逃亡兵が続出し、戦闘も行えない状態となってしまう。

このため、勝頼は新府城を焼すて、小山田信茂の岩殿城に向かうが、笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ、武田一族は滅亡する。
天正11年3月のことである。わずか数ヶ月しか新府城にいなかったことになる。

3ヶ月後、信長が本能寺の変で死ぬと、旧武田領を巡って徳川氏と北条氏の争奪戦(天正壬午の乱)が起こる。
その時、新府城は徳川軍の本陣が置かれた。
建物は焼けた状態であったが、土塁などはそのままであり、ちょっと手を加えれば大要塞として復活可能である。
この乱は徳川の勝利となり、結果、甲斐は徳川領となるが、北条軍を撃退した要因の1つにはこの新府城の存在もあったのであろう。

甲斐には強固な城がなかったため、この乱後も新府城は軍事的な中心としてしばらく維持されていたようであるが、北条氏が小田原の役で滅亡し、甲府城が完成すると廃城となり、甲斐の軍事的、政治的中心は甲府城になったようである。
結局として、この城の機能が発揮されたのは、皮肉にも勝頼が新府城を築いた時の仮想敵の1人であった徳川家康によってである。
この城は数千規模の兵力運用で始めて機能が発揮される城であり、天正壬午の乱においては、徳川家康の北条軍に対する本陣として使用することで実証されている。
この城に布陣されていたら北条軍も手は出せなかったであろう。

逃亡兵が続出してしまった勝頼にとってはやはり放棄せざるを得なかったであろう。
この城は自然地形を上手く利用し、さらに武田氏の甲州流築城術をつぎ込み、集大成した城ともいう。

@東の出構跡 A城のある山の山麓を帯曲輪が一周する。 B本郭直下の稲荷曲輪
C本郭に建つ勝頼神社 D本郭内部、周囲を土塁が覆う。 E本郭東下には3段の帯曲輪がある。
F大手の丸馬出から大手曲輪を見る。 G丸馬出下の三日月堀。 Hこの付近が大手口である。

この城には出構付近に駐車場があり、そこに車を置いて歩く。
今は本郭の神社まで北東側から登る石の階段があるのでここを上がればよい。

階段の登り始めの部分に帯曲輪があり、これが北側にかけて一周していたようであり、部分的に土塁を持つ。
兵士移動用の遮蔽通路も兼ねていたようである。階段を上がっていくと本郭直下に帯曲輪があり、その上が本郭である。
この本郭北側方面の斜面、結構、急ではあるが、よじ登れないほどではない。
水堀を突破し、出構を撃破したら本郭までは腰曲輪2つだけである。非常に心元ないが、この斜面には乱杭が打たれていたのであろうか。
それとも逆茂木が並べられていたのであろうか。

本郭は東西90m、南北120mほどあり広大である。周囲を土塁が覆う。
勝頼神社が寂しそうに本郭に建つ、武田神社は完全に無視したが、ここではちゃんと手を会わす。
管理人、新田次郎の「武田勝頼」を読んで以降、彼のファンなのだ。
この運から見放された有能な能力を発揮せずに死んでしまったこの武将に同情を禁じえないのだ。
神社の西側が池のような感じになっているが、これは井戸か?

本郭の西側が二郭、80m×60mほどの広さである。さらに東側に一段低く、帯曲輪、さらに下に100m×60mの東三郭、西三郭が並ぶがいずれも曲輪内は広く、土塁も高い。
大手曲輪の外側に丸馬出があり、8m下に三日月堀がある。
堀底から見上げる丸馬出の切岸の高さは凄い。これは真田丸で徳川軍が見た光景か?

躑躅ヶ崎館(甲府市古府中
武田氏の本拠であり、その居館、政庁として有名であり、典型的な中世大名の居館跡。
現在、館跡地は武田神社が建ち、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されている。
永正16年(1519)武田信虎が築き、歴史に大きく登場するようになり、以後、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって武田氏使われ、武田氏滅亡後もしばらくの間、甲斐の政治の中心として使われた。
南に広がる城下町は府中として現在の甲府市の原型となっている。
館は甲府市街よりも標高が高い相川扇状地の上流側位置するので、かつては市街を見下ろすような感じであったのであろう。
北に詰の城、要害山城を持つ。
館のイメージは京都の室町幕府の将軍邸、「花の御所」がモデルであったと言い、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られるという。
本格的な城下町の形成は晴信(信玄)時代であり、領土拡張に従い、城下町も経済的に活気があり、繁栄していったようである。
城下町は京都と似たような条で区切り、南に何本かの主要道路が延び、碁盤の目のような町であったらしい。
家臣団の屋敷は館の北側一帯にあったという。
しかし、武田氏の拡張に伴い、城下町の拡大も次第に限界となり、勝頼の時代には飽和状態になってしまったという。
天正3年の長篠の敗戦もきっかけであろうが、城下町の飽和状態も新府城移転の大きな理由であったようである。
この移転時には家臣団の屋敷は移転したものもあったようであるが、町民の移動は武田氏滅亡までの時間が少なく、あまりなかったようである。
武田氏滅亡時は躑躅ヶ崎館の建物も、城下の建物も被害を受けていなかったようである。
このため、武田氏滅亡後、織田家臣、川尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったという。
その川尻も本能寺の変の後の混乱の中で殺される。
その後、甲斐は徳川領になり、家康は館を拡張し、天守も築いたという。
しかし、城下町の飽和状態はどうしようもなかったのであろう。
天正18年(1590)、徳川家臣の平岩親吉が甲府城を築城し、後の浅野氏により甲府城が竣工して、甲斐の拠点城郭として使うようになると、この館は廃館となった。
現在、館跡には武田神社が建つが、この神社は大正時代に建立されたものである。

管理人、城址に建つ神社や社には手を合わせることを習慣としているが、信州人である管理人が武田信玄を祀ったこの神社に参拝することはありえない。
ここだけは無視して素通り。
現在の武田神社の境内は東曲輪と中曲輪に相当し、間にあった仕切りの土塁が撤去されている。
さらに西側に堀を介し、西曲輪がある。
現在の姿は周囲の堀を含めて東西約200m、南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万u)ほどであるが、外郭部がかなり消滅してしまっているので、最盛期は350m四方はあったのではないかと推定される。
居館、政庁とはいえかなりの規模であり、立派な平城と言える規模である。
このうち、武田信虎の築いた館は、神社社殿がある中曲輪といわれる。
その後、東曲輪、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪が拡張され、徳川氏の時代に梅翁曲輪等が増設されたという。
徳川氏以降の時代には、天守台を造ったなど、かなりの改変を受け、武田氏オリジナルの部分はかなり失われているという。
この現在の武田神社の入口は南側であり、石垣造りになっている。
しかし、当時の正門は東側であったという。各虎口の外側には馬出があったようであり、北側のみ現存する。
なお、東曲輪が政庁、中曲輪が武田氏当主の居住空間、西曲輪が武田氏家族の住居であったという。

館は扇状地にあるため、南側の堀のみが水堀状であり、それ以外には水はないが、当時は仕切りがあって、水が張られていたのであろう。
大手に当たる東側の虎口付近の堀は深く、土塁は高い。土塁上から堀底までは15mほどある。これは立派な城である。
館の北側は畑となっているが、味噌曲輪や馬出、堀などが結構良く残っている。鳥瞰図の○付き数字は下の写真の撮影位置。

@ 神社南側の水堀。
橋と入口は後世のもの
A 神社東の入口が本来の大手 B 大手口周囲の堀は深く、水がある。
C神社内部、東曲輪。中曲輪に仕切られていたら
しいが仕切りの土塁はなくなっている。
D 神社東側に復元された虎口 E 中曲輪と西曲輪間の水堀
F 北曲輪の東側 G 北曲輪跡 H 梅翁曲輪の堀跡


甲府城(山梨県甲府市)
別名、舞鶴城。近世城郭であるが、もともとは武田氏の府中城下町の南端にあたる一条小山に砦があったという。
それを拡張して近世城郭に拡張した平山城である。
ここに築城された理由は府中の町が飽和状態となったため、甲斐国統制の新しい政治的中心地を求めたためである。
ここには武田一族である一条氏忠頼の居館があり、忠頼の死後、尼寺となり、さらに鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となっていたという。
おそらく、寺と言っても、多くの例があるように、砦を兼ねていた城砦寺院であったようである。
天正11年(1583)、徳川家康が家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、一蓮寺を移転させて築城を開始したという。
しかし、完成を見ずに家康は関東に転封され、甲斐は羽柴秀勝の所領となり、加藤光泰、浅野長政・幸長父子ら豊臣系大名が関東の家康を牽制するために置かれ、築城整備が続けられ、浅野氏の時代に城が、完成し新たな城下町が整備された。江戸時代は江戸城防備のため、幕府直轄領になったり、将軍家に近い親藩の城となったりしているが城主の交代が激しい。
あの柳沢吉保が城主であったこともある。
天守台はあるが天守が建てられていたか分からないが、浅野長政の時代に天守があったとする説もある。
明治維新で建物などが破却され、中央線や甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の設置で城跡は本丸周辺の一部が残るだけになってしまっている。
現在は本丸以外は市街となって湮滅し、本丸の周囲を車で一周できるくらいのものになっている。
しかし、ご多分に漏れず、甲府市内の道は狭く、城下町特有の屈折があり、車で走りにくいことこの上ない。

本丸南側の水堀 石塔のある場所が天守台跡