勝山城と谷村館(山梨県都留市)
戦国時代の「裏切り者」と言えば、「明智光秀」「小早川秀秋」そして「小山田信茂」の名前が挙がる。
これは江戸時代の武士の一般的な考えである「忠君」から来たものであろう。
当時の武士の理想の姿は赤穗浪士、「裏切り」などは絶対悪、裏切り者=悪人という考えによる。
儒学由来であり、その方が江戸時代の武家統制に都合が良かったからである。

この江戸時代の常識?のため、この3人は悪者として定着し、現在までそれが引き継がれている。
最近、明智光秀などは再評価されてはいるが、他2者についてはまだまだ復権は先になりそうである。

もっともこの3人がターゲットにされたのは家が滅亡してしまったこともあろう。
滅亡してしまえば何をやろうと遠慮はいらない?死人に口なしってことである。

裏切りと言ったら賤ヶ岳の戦いにおける「前田利家」もやったことは小早川秀秋と大差ない。
それでも後世、特に非難もされないのは、前田家が生き残ったからであろう。

彼らが、または彼らの子孫が大名として生き残っていたら、悪人にされることはなかったかもしれない。

戦国時代、「裏切り」は常識である。
仕えている主君が危なくなったら、自分の一族にも影響が出る。

当時の武家の最大の関心は自分の一族の存続、そして領地の保証である。
主君の巻き添えを食らうなど冗談ではない。
どうやっても、どんな手段を取っても一族の存続を図るのが最優先課題である。
そして領地の保証をしてくれない主君なら見限るだろう。
当然、主君がヤバくなったら、見限って乗り換えるのが生きる道である。

藤堂高虎などその最たるものである。
彼は常に生き残る方に付くのである。
その嗅覚、才覚は天才的である。
そんな先祖がいたので明治まで子孫は大名として生き残ったのである。

また、鎌倉殿の13人に出て来る「三浦義村」も凄い。裏切りの塊のような人物である。
そして、彼の才覚も常に生き残る方を選択している点で凄い。(子孫はチョンボしてしまったが。)

生き残る方に賭け、結局、外れて自爆したのが、真田昌幸か?
でも息子は大名として明治まで家を存続させたので失敗とも言えないけど。

その評判の良くない小山田信茂、彼の真の姿はまだまだ、闇の中であり、評価も不安定である。
彼の裏切りにより領土だった今の山梨県東部の大月、都留を中心とした郡内地方、戦火に巻き込まれなかった訳で、郷土の英雄という一面もある。

裏切ったと言っても、沈没寸前の武田氏から乗り換えるのは当然である。
一緒に沈没したらたまったものではない。
結局、タイミングと裏切りの場面が最悪だったとしか言えない。

武田旧臣でも征服地である信濃、上野の家臣化した国人では、真田氏始め、土屋氏、保科氏、内藤氏等大名として生き残っている者も多い。
おそらく真田氏のようにもっと早く内通していたなら生き残ることができたのではないかと思う。
それに彼らは占領地の国人、外様である。
武田氏と心中する気がないことも織田氏は理解していただろう。

小山田氏は甲斐の国人、武田氏とは同族ではないが、譜代扱いである。
やはり、ギリギリの土壇場で派手に裏切ったのがいけなかったのだろう。

この小山田信茂、武勇、知略、外交能力に優れた有能な武将だったようであるが、優柔不断な面があったのかもしれない。
と言うより、武田勝頼に対する忠誠心が高かったので躊躇し、苦渋の選択をするまでに時間ロスをしたのではないだろうか?
穴山梅雪などは武田一族なのにそんな気はさらさらなかったのであろう。

郡内小山田氏は桓武平氏秩父氏流とされ、秩父重弘の子・有重が武蔵国小山田荘(東京都町田市上小山田町・下小山田町)を本領としたことに由来する。
この一族から、鎌倉時代に甲斐国都留郡に移った一族であり、郡内に勢力を張る。
戦国時代になると武田信虎の勢力が大きくなり、小山田氏も従属する。戦国大名になり切れなかった訳である。

しかし、従属といっても独立性が強い弱い結びつきであり、同盟に近いものだったと言われる。
佐竹氏と江戸氏の関係のようなものと思われる。
そのような弱い関係であるので、縁を切るのもそれほど抵抗感は少なかったであろう。
裏切るというより手切れと言った方が適切かもしれない。それは戦国時代の定常的な行為だったのでろう。

その小山田信茂の居城、あの岩殿城と思っている人が多いのではないかと思う。
織田氏の攻められた時、信茂が勝頼に避難を勧めたというのが岩殿城と言われているからである。

確かに岩殿城、小山田氏の領土、郡内地方にある。
でも小山田氏の持ち城だったのかは疑問が呈されている。
小山田氏の本拠は現在の都留市である。
岩殿城が詰めの城としても都留からはかなり遠い。緊急時の避難には時間がかかりすぎる。
ここは武田氏の郡内出張所・現地事務所的な城だったのではないかという説もある。

↑小山田氏の居館、谷村館があったという谷村第一小学校、背後に見える山が勝山城である。

じゃあ、小山田氏の詰めの城はどこかというと、都留市中心部の西の山にある勝山城がその城である。
小山田氏の平時の居館が現在の谷村第一小学校、都留市役所の地にあった「谷村(やむら)館」である。

桂川を挟んでその対岸の山にある勝山城こそが詰めの城なのである。
でも、勝山城は秀吉の時代、浅野長政・幸長親子が甲斐の支配者となり、家老の浅野氏重が郡内支配の拠点として文禄3年(1594)に築城したということになっている。
でも、小山田氏の平時の居館が谷村館だったことを考慮すれば、勝山城がその詰めの城であるのは容易に想像が着く。
しかし、勝山城については小山田氏に関わる記録がないのだそうである。
裏切り者、小山田信茂の名を出したくないためかと思ったが、戦国時代の城郭のほとんどは記録がなかったり、いい加減であるので別に不思議なことではない。

@山の中腹斜面を南から西側を覆う横堀、内堀。 A城の南東側を見張る川棚見張台。 B主郭部に登って行くと南斜面に曲輪が展開する。
C本郭の南下から西下を覆う二郭。 D本郭内部、西側に土壇がある。 E本郭から北東下に下ると硝煙蔵跡がある。
F本郭から北西下に下ると尾根に曲輪が展開する。 G北西尾根にある堀切。戦国時代の雰囲気を残す。 HGの堀切の先が大沢見張台である。

実際、勝山城を見れば、文禄時代に新築した城とは思えない。
戦国時代の城の雰囲気を強く残している。
と言うより、文禄時代の城の雰囲気が希薄である。
氏重はほとんど小山田氏時代の城遺構を使ったように思える。

一部、石積の跡は残るが基本、土の城である。
それだけ、地形を上手く活かしており、完成度は高かったとうことであろう。

南北約400m、東西約300mが城域である。
山の山頂部(591m、35.5544、138.9038)の主郭部は本郭D、二郭C、三郭が南側に段々に重なり、切岸は鋭い。
東は腰曲輪が覆う。山頂部には堀はない。

北、東、南に派生する尾根に物見台(見張台と言っている。)を置く。
この3方向は桂川がカーブを描きながら谷状に流れ、水堀も兼ねるので防御は万全である。

北尾根の物見台、大沢の見張り台(543m)Hの背後には完全なる戦国の雰囲気を残す堀切Gがある。
東に派生する尾根の途中に硝煙蔵跡(550m)Eがあり、その東下が源生の見張り台であるが藪が酷い。

南に延びる尾根には段々に曲輪Bが構築され、末端が川棚の見張り台(515m)Aである。この方面が大手道か?
現在も見学路はここを登る。

主郭部の西側は山の斜面は急であるが、この方面には大きな河川はない。
また、尾根が派生していないので物見もない。
この方面が弱いので、長大な横堀@が構築される。
内堀と呼んでいる。
内堀があるので外堀があるが、南側の谷津部の水田がその跡というが、自然のものを転用したもののように思える。

川棚見張台から見た谷村館付近 谷村館跡に建つ碑

(甲信越の名城を歩く 山梨編を参考にした。)