勝沼氏館(甲州市勝沼町)
勝沼と言ったら「ぶどう」である。
日川の扇状地一帯がぶどう園であり、壮観な風景である。
そんなぶどう園が展開する扇状地の一番根本にあたる場所にある。
館は勝沼ICの北西約700mにあり、笹子トンネルがある東の山地から流れ出て、旧勝沼町域を西に流れる日川右岸(北側)の急崖上の河岸段丘上に立地する。
標高は418m、日川からは比高約20mある。

武田氏一族、勝沼氏の館である。
勝沼氏は守護武田信虎の弟である信友にはじまる家系であり、この地に来て地名を姓にした。
勝沼は甲府盆地の東端に位置し、小山田氏領である郡内地方と監視と、ここ峡東地方の支配の役目があった。
小山田氏は武田氏の家臣という見方があるが、それは武田氏の力が信玄の時代に最も強かったころの話であり、実際は武田氏と同盟する有力国人領主であり、独立性は強かったという。
その証拠が武田氏滅亡の土壇場での裏切りである。


@ 内郭東側の堀。見事な遺構である。

A 内郭北側の堀。

一見、裏切りはあるが、織田軍の侵攻を受けて織田氏に従属した武田氏占領地域である伊那地方の武家連中と同じく、一族存続と領内が戦場になることを避けるため鞍替えというべきであろう。
郡内地方は甲斐国の自治州のようなものだったのであろう。
また、勝沼館は日川の扇状地の一番高い場所に位置するため、甲府盆地の東部一帯が良く見える。
甲府盆地東部を管理する守護館の支所的な位置付けもあったようである。

複数の曲輪から成っていたが昭和48年(1973)、県立ワインセンターの建設候補地となり、1977年にかけて7次の発掘調査が行われた。
ワインセンター建設で外郭部はほとんどの遺構が失われたが、内郭部が史跡として保存されることになった。

内郭は東西90m、南北60mで、北側と東側を堀@、Aで台地続き部と遮断する。
南側は日川の崖、西側は急斜面である。

イラストは16世紀前半の館の姿を再現してみたものである。この時期が館の守りが一番だった頃という。
勝沼氏滅亡後、内郭外側の土塁と堀は破壊されてしまったという。
おそらく、居館や政庁機能を持った戦闘も考慮した城館から金属精錬施設に転用されたからではないかと思われる。

B内郭の内部、多くの建物跡が検出されている。 C東郭内部。発見された遺構が保存されている。 D東郭、東の大手付近には土塁と堀の一部が残る。

Wikipedia及び現地解説板によると
内郭Bからは、礎石のある建物址が23棟検出され、縁石を用いて構築された水路址は幅30cmと45cmのものがあり、井戸と推定される水溜址と連結している。
門址は土塁を利用したコの字形で、新旧の2時期があり、礎石があることから上屋が存在していたとも考えられている。
また、無遺構部分から広場址、庭石から庭園状遺構、ピットに焼土が充満した小鍛冶施設を伴う工房遺構なども見つかっている。

出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師質土器や、瀬戸美濃産灰釉皿、天目茶碗、中国産の青磁や白磁、染付などの陶磁器類をはじめ、鉄砲玉や刀装具などの武具類、金箸や金槌、毛抜き、茶臼、金属製農具や硯などの日用品、六器台皿などの宗教用具まで幅広く出土している。食具も出土し、漆器の碗類は日用品であったと考えられており、二重の亀甲紋・花鳥紋が描かれたものが見られる。
中には女性用のものと考えられる薄手・小型のものもあった。
食台である折敷(おしき)、箸、卸し板、しゃもじ、楊枝も出土している。

動物遺体(哺乳類・魚類・鳥類)も多数出土し、哺乳類はシカ・イノシシ・イヌ・ウマの4種が確認され、狩猟対象であるシカが多く、食肉用とされたと考えられている。
魚類はアジ科の小型魚類・タイ科・スマカツオ・スマが出土している。海産物流通の資料として注目されている。
アジの干物も運ばれていたのか?鳥類はニワトリが出土している。

注目されるのは金熔融物付着土器の発見である。
外郭では鍛冶遺構が検出されていたが、内郭にも小規模な鍛冶施設を伴う土間建築遺構が検出されており、周溝と水溜も伴っている。
外郭部と別の鍛冶施設の用途は不明であったが、2009年には小鍛冶遺構出土土器の調査において金粒や重元素が付着した土器(熔融物付着土器)が検出され、館内で金の精錬・加工が行われていた可能性が想定された。
分析によると近接する黒川金山から金鉱石が搬出され、精錬・加工が行われていた可能性が指摘されている。

外郭部はワインセンターの建つ東郭、内郭北側に北郭、さらにその外側に北西郭があった。
新祝橋を渡った道路が内郭の西を通り、北郭の東側、北西郭の堀跡付近を通る。

東郭の西側、内郭に面しては2重堀になっていたようであるが、勝沼氏滅亡後、戦国時代後半には東側の堀と土塁は破壊されたという。
勝沼氏は信元の代、永禄3年(1560)に信玄によって滅ぼされているが、勝沼氏滅亡後、破壊され、用地を拡張し金鉱石の製錬所的な施設に転用されたのではないかと思われる。
また、外郭外にも加賀屋敷や奥屋敷などの地名も残っていたが、発掘調査により周辺の街路や町割など旧跡の実態も明らかとなった。