岩殿城(山梨県大月市賑岡町岩殿)
超メジャーな戦国の山城である。おそらく山梨県では一番有名か?
何しろ城のある山の形が異様である。
山の麓を中央道が通るが巨大な高さ150mほどもある「鏡岩」がそそり立ち、その迫力が見る者を圧倒する。
南側、大月市街地から見た岩殿城。 | 東側、猿橋付近から見た岩殿城、橋は中央自動車道。 |
そして、城に関わるエピソードが有名である。
この城への退避をここ郡内(大月市、都留市一帯)の領主、小山田信茂に勧められ、岩殿城を目指した武田勝頼が裏切に会い笹子峠で阻止され、結果として天目山で滅亡するが、その事件のキーとなった城である。
この城を巡って実際に戦いがあったということはないようである。
もし、歴史のイフとして武田勝頼がこの城に籠城したらどうなっていたか?
これは架空の世界であるが、もしここに籠っても四方が敵という状態で、従う兵もほとんどいない状態ではおそらく滅亡する結果になったのではないかと思われる。
若干、滅亡の時期が遅れた程度のことだろう。
小山田信茂は裏切者として悪名が高いが、自分は滅亡したが、この郡内地方を戦乱に巻き込まなかったことは評価されるべきことのように思える。
おそらく、この地を守ることを目的に裏切ったのだろう。
それなら、勝頼が真田昌幸の岩櫃城に避難したら?
まだ、この方が生き残った可能性は高いが、果たしてどうなったか?
この話は戦国シミュレーション小説の世界となる。
その岩殿城、もともとは修験の場であったようである。
Wikipediaによると、江戸後期の文化年間成立の『甲斐国志』に拠れば、岩殿山には大同元年(806)開創と伝わる天台宗寺院の円通寺が岩殿山の南東麓にあり、山は修験道の場だったという。
戦国時代、ここ郡内地方は小山田氏の領土であり、独立していた。
しかし永正6年(1509)武田氏に敗北し、武田氏に従属するようになる。しかし、家臣化というより同盟者に近い側面があり、結構独立性は高かったようである。
小山田氏は対北条の防衛拠点、取次などの主担当であった。
天正10年(1582)3月、織田・徳川軍の侵攻により、武田氏は滅亡、そのきっかけを作った小山田信茂は織田氏に出仕しているが、処刑され、小山田氏は滅亡する。
しかし、同年6月本能寺の変により織田氏が撤退、旧武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が勃発。
郡内地方は北条氏が占領するが、徳川家康と北条氏直が和議を結び北条氏は撤退、甲斐は徳川領となる。
江戸幕府は緊急時は甲府への退去を想定していたといわれ、その際の籠城施設として岩殿城が想定され、立ち入り禁止にされていたという。
小山田氏、武田氏、徳川氏ともこの岩殿城に大きな期待をかけていたのだが、結局、戦いでその機能を発揮することはなかった訳である。
岩殿城がいつから城郭となったかははっきりしないが、もともと、修験の場であったので、そのままの状態でも十分、城郭として成立した思われる。
地形だけで城になるので、明瞭な城郭遺構は見られない。
佐竹氏が詰め城に使った金砂山城とよく似た感じである。
小山田氏の詰め城と言われるが、小山田氏の本城は谷村城(都留市上谷)であり、岩殿城は約7qも北東に位置する。
こんなに離れていて詰め城になるのかという説もある。
(佐竹氏の本拠、常陸太田城も詰め城といわれる山入城や金砂山城とはかなり離れているので、一概に否定はできない。)
詰め城ではなく、武田氏が郡内地方に楔を打つとともに相模との境目の城として武田氏が直轄していたという説もある。
@登城路を登ると岩の間を通る揚城戸がある。 主郭部の大手門にあたる。 |
A西に突き出た場所にある西物見。 | B鏡岩に位置する曲輪V。 |
C曲輪Vからの絶景。大月市街が一望。 眼下に中央自動車道が通る。晴れていれば富士山も。 |
D 曲輪U馬場、先に見える山が曲輪T | E曲輪Tに登って行くと倉屋敷という曲輪がある。 |
F山頂部はTVアンテナ塔が立ち、がっかり。 | G登城路から見た鏡岩。絶壁である。 | H登城口の丸山公園から見た城址。 この場も麓の城郭遺構の一部だろう。 |
岩殿山城は東西に長い大きな岩山の上をそのまま城にしている。
北東から南西にかけて幅約80m、長さ約300mの山上部が主郭であるが、北東端部のTVアンテナが立つ標高635mの曲輪T(本郭)F、標高610mの鏡岩の真上に位置する曲輪(V)B、それからその間の馬場と呼ばれる広い緩斜面(U)Dの3つの部分に分かれる。
結構、人の手は加わっているような感じでもある。
主郭の周囲は急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。
それらの岩場を通る登城路がいくつかあるが、どれも結構きつい。
南側の標高440mの丸山公園Hから登る「強瀬ルート」を登ったが鏡岩Gが押しかぶるようにそそり立ち圧倒される。
どの登城路を行ってもこんな感じであり、上から石をぶつけるだけで敵は撃退できるだろう。
地形だけで城として成り立つ。
頂上部直下に岩の間を抜ける揚城戸@を通過すると山頂部に出る。
西に突き出た場所Aが物見だろう。
土塁状の尾根が乃木将軍が書いたという碑の所まで延びる。
この曲輪VBからの風景は絶景、下を覗くとC鏡岩の上にいることが分かる。
下には中央道が見える。
その東側の馬場Dは不思議な空間、もちろん、馬などここまで来れる訳はない。
ここは宿営地、駐留地などだろう。
小屋がいくつか常設されていたのだろう。東端には水場もある。
曲輪T、本郭部は途中に倉Eがあった場所とかがあるがかなり曖昧。
山頂部Fは電波塔、アンテナが建ちゲンナリ。
さらに北東下に2本の堀切があるが、果たして必要か?
岩殿城、完全装備の兵が200名ほどいれば攻めようがない。
石を落とせば登って来る敵は撃退できる。
山頂部には500名程度は収納できるだろう。
食料と水が確保できればある程度の期間は籠城できる。
しかし、ほぼ独立した山、長期間となったら食料、水の補給も難しそうである。
長期の包囲戦となったらどうにもならないし、逃走路もあるのかどうか?
例え武田勝頼がある程度の数の部下とともにここに籠ったとしても、織田軍に長期間包囲されたら滅亡は免れないであろう。
短期間の緊急避難施設としたらここ以上、安全で堅固な城はないだろう。
猿橋(山梨県大月市)
大月市という名を聞いたら、管理人が直ぐに思い浮かべるのが、「岩殿城」とこの「猿橋」である。
もっとも、管理人、猿橋、どちらかと言うと中央道の渋滞情報で馴染みがある。
渋滞情報で知ったというのが正直なところ。
この付近に関わる中央道の渋滞情報で出てくるワードには「小仏峠」「談合坂サービスエリア」そして「猿橋バス停」が多い。
「猿橋バス停付近を先頭に渋滞30q」とか。
この「猿橋バス停」という単語、けっこう印象的で記憶に刻まれる。
「バス停」はともかく「猿橋」って何だ?変わった名前だ。
渋滞情報で認識した名所である。と言っても、名前は知っていても、中央道は時々通るが、下道である国道20号線はほとんど通らないのでついぞ行くことができなかった。
令和2年11月3日、岩殿城に行った帰り、ようやく訪れることができた。
猿橋周辺はかなり市街化していて道が狭く分かりにくかった。この付近は江戸時代の甲州街道、猿橋宿の宿場町なので元々道が狭いのだそうだ。
猿橋と並行して架かる県道505号線の新猿橋から橋を見つけたのだが、さて、どこに車を止めてよいやら・・・・。
橋の印象、「あれ、こんなものか?」。
両岸からせり出す四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木が特徴であるが、重厚かと思ったが、意外とあっさりした感じでコンパクトだった。
多分、真下付近から見れば重厚感が大きいのではないかと思う。
今は人専用の橋である。
着物を来た中国人か台湾人のカップルが盛んに写真を撮りまくっていた。それなりの観光客は来ている。
それより、橋の上から覗いた桂川の渓谷の深さが大迫力。
両岸は垂直の崖、水面までは31mの高さがある。これまで深いとは!
これを見れば、確かにこの渓谷が天然の防壁としてここが防衛上重要地点であることが理解できる。
少し上流には広い河原があり、こんな複雑な橋は不要と思われるが、その場所だと増水時に橋が流される危険性がある。
今の橋の場所なら洪水時も心配はない。ってことでこの場所が選ばれたのだろうが、昔の技術ではここに橋を架けるのは難工事であっただろう。
変わった形、姿の橋であり、交通量も多い主要街道甲州街道に架かる橋だったので、江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、多く文学作品に取り上げられ、絵にも描かれるほどの名所だった。
紀行文や詩句では荻生徂徠の『峡中紀行』、渋江長伯の『官遊紀勝』に登場する。
文化14年(1817)には葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』を描いている。
天保12年(1841)、歌川広重が甲府を訪れた時は猿橋の遠景や崖などがスケッチされ、翌年、錦絵「甲陽猿橋図」を出している。明治以降も多くの作品が残されている。
江戸時代は甲州街道に架かる重要な橋であったが、現在の猿橋は人道橋で、長さ30.9m、幅3.3mの規模である。
江戸時代は馬なども通ったのでもっと強度があったのではないだろうか?
構造は深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えている。
一見、上路アーチ橋と形は似る。今ならアーチ橋か釣り橋を架けるだろう。
刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。
その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。
これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。
これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。
この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる。
江戸時代に存在した架橋形式であり、当時は各地に存在したようだが、現在、木造のものは存在しないという。
現在の猿橋も外観は刎橋であるが、鋼製の橋桁に木材を貼り付けて江戸時代の構造を復元しているものであり、純粋な木造の刎橋ではない。
なお、石造の刎橋は西日本に結構残っているそうである。
猿橋が架橋された年代は不明だが、現地の解説板には「伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済の渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
「猿橋」の名は、この伝説に由来する。」と書かれているが、当時、刎橋を架ける技術はあったのだろうか?違う種類の橋だったのかもしれない。
しかし「猿橋」の名前は古くから文献に登場しているので何らかの橋が存在していたのは確実なようである。
室町時代の『鎌倉大草紙』には、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したと書かれる。
文明19年(1487)聖護院道興『廻国雑記』には、道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌・漢詩が記載される。
戦国時代の『勝山記』に永正17年(1520)3月、都留郡の国衆・小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行ったという記載がある。
天文2年(1533)に橋が焼失し、天文9年(1540)に再架橋したという。
さらに『勝山記』には大永4年(1524)2月11日に甲斐守護武田信虎が山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ出兵し相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったことが書かれる。
享禄3年(1530)正月7日に小山田信有がこの地で北条氏綱と対峙し、留守中の3月には小山田氏の本拠である中津森館(都留市中津森)が焼失、4月23日信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退したことがか書かれ、猿橋の名が広く知られていることとここが戦略の要衝であったことが分かる。
江戸時代になると延宝4年(1676)以降に橋の架け替えの記録が残り、宝暦6年(1756)からは類似した形式の刎橋で施工されている。
昭和7年(1932)3月に国の名勝に指定された。しかし、保全費用の問題で管理されない状態が続いたが、昭和38年(1963)に大月市が管理するようになった。
現在の橋は昭和59年(1984)に架け替えられたものであり、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固め、部材を鋼に変えて嘉永4年(1851)の橋の姿を復元したものという。
刎橋の架橋技術が廃れてしまっているのかは分からないが、コンクリート、鋼材の使用は安全上の措置でもあろう。
城の復元天守閣でいえば、木造とコンクリートのハイブリッドってところか?(Wikipediaを参考)。