長坂屋敷(山梨県北杜市長坂町)35.8199、138.3868
長閑屋敷とも言う。
武田信玄・勝頼の活躍を書いた読物「甲陽軍鑑」、多くの小説のベースに使われ、歴史書と思っている人も多いようであるが、あの本は基本は娯楽本である。
ただし、ある程度は事実を元にしているるが、いかに面白くワクワクさせる要素を盛り込ませているので、かなり創作も多いという。
その最たるものが「第4回 川中島合戦」であろう。
大合戦があったことは間違いないようだが、一般に知られる場面、ほぼフィクションであろう。

その「甲陽軍鑑」で徹底的に悪者扱いされている一人が、長坂釣閑斎である。
武田勝頼に取り入って家内に権威を振るい武田家を滅亡に追いやった悪人とされている。

あの長篠の戦では宿老の多くが攻撃に反対するのに、彼が攻撃を主張、それを勝頼が採用、結果として大敗を喫したとされている。
しかし、実際には長篠の戦に長坂釣閑斎は参加していないとか?


御館の乱において、勝頼が上杉景勝と甲越同盟を結んで資金援助を受けたが、釣閑斎がその金を一部横領していたという記述がある。
これも事実無根の話という。
彼はこの同盟には関わっていないのだ。

このように執拗に彼を攻撃しているのは、おそらく、甲陽軍鑑の作者またはその親が長坂釣閑斎に何らかの恨みを持っていたからではないかと言われる。

長坂氏は小笠原氏の庶流にあたり、現在の北杜市の長坂に住んだので地名を採って長坂を名乗った。
長坂釣閑斎の本名は、長坂 虎房、出家名が釣閑斎。別名に頼広(頼弘)とも。出家後は「光堅」とも名乗った。

永正10年(1513)に生誕したとされる。
史料に登場するのは、天文年間の信濃侵攻の頃、足軽大将として天文12年(1543年)5月諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となり、上原城に入っている。

天文17年(1548年)の上田原の戦で信方が戦死すると後任の諏訪郡司(郡代)となり上原城に派遣され、翌天文18年には諏訪郡支配の新拠点となる古高島城(長野県諏訪市)へ入城している。その後は使者を多く務めている。
外交官であったようである。

そのため、勝頼の代にもベテラン外交官として重用し、関係は深かったようである。
天正10年(1582)3月の武田氏滅亡時、釣閑斎は甲府にいて、子昌国とともに殺されたとも、勝頼に従い戦死したとしている。享年70。

何人かの重臣とは違い、いずれにせよ最後まで彼は武田氏を裏切らなかった訳である。

↑北側から見た館跡。撮影場所背後の集落が中世集落跡という。正面の山は南アルプス。
その釣閑斎の居館が北杜市の長坂屋敷である。
中央本線長坂駅の南東約1.5kmにある東側以外を水田地帯に囲まれた比高約8mの岡にある。
場所はすぐに分かったのだが、標識も何もない。
どこから入るのかも分からない。

かくなる上は定番の強行突入である。
しかし、そこは篠竹地獄であった。堀や土塁のようなものはあるが、どうも確信が持てない。
何しろ館は北杜市指定史跡である。藪のままであるはずがない・・・・・。
「俺、また場所を間違えたか?」と思い撤退した。
で、調べたらビンゴだった。
あそこに間違いなかった。

↑堀跡らしく窪んでいるんだが・・分からんわねえ。
でも規模など、さっぱり分からない。
60m×80mの広さを持ち、土塁が一周し、西側、南側を堀が構築された単郭の館であったという。
足軽大将クラスの武家ならこの程度の居館であろう。
天正壬午の乱で北条軍が入ったともいう。
なお、水田地帯を挟んで館の北側の集落が半円状の地割を持ち、中世集落の跡と言われる。
ここに平時の居館があり、ここは詰の城とも考えられるという。
(甲信越の名城を歩く 山梨編を参考にした。)


獅子吼城(北杜市江草)

この名前、「ししく」と読む。
しかしそのまま読めば「獅子がほえる。」「ライオンの咆哮」凄い名前だ。

場所は韮崎から長野県川上村に通じる県道23号線、106号線沿いにある。
このルート、小尾街道とか穂坂路と呼ばれ、国道141号線(佐久往還)と並ぶ、武田氏の信濃出撃ルートの一つである。
この街道筋の交通を抑えるとともに、著名な狼煙リレーの中継点の一つである。

信州との間の山間を抜け、甲府盆地が開ける場所にあり、児玉ICからは直線で約7q、塩川東岸の標高788.8mの山にある。
この山の南西下で塩川に東から「湯戸ノ沢」が合流する。
山は北東から延びた尾根末端の盛り上がった部分にある。


↑ 西下、塩川に架かる県道23号線の橋(名前忘却)から見た城址

塩川からの比高は160m、西下の「根古屋」地区からは比高130mある。
斜面は結構急である。
この比高から推定すると険しい山とおもわれるが、その通りではあるが、何と車で山を一周できるのである。

実を言えば東側の鞍部(標高756m)駒ヶ入集落からは比高約30mに過ぎないのだ。
でも、「しかし」なのである。こちらからの登城路、地主により閉鎖されてしまっているのである。
一体、どんなトラブルがあったのか?

本来の大手筋は西下の「根古屋」集落から登る道であるが、既にこの道は藪に閉ざされていると地元の人は言っていた。
当然、この根古屋集落は城主の居館などがあった場所であり、街道はここを通っていたという。宿もあったのだろう。

@本郭内部、東端に土壇がある。 A 本郭西下の腰曲輪

搦手からの登城が不可能なので、仕方なく、南西側から登るルートを選択する。
このルート、比高約100mもあるのである。
何だか、凄く損をした気分。
しかも結構急である。

途中から岩が多くなり、山頂に近くなると巨岩が林立する。
その間を抜けて行くが、石積みも見られ、ちゃんと曲輪になっている。
曲輪を造り出すため、巨岩をどかしたりしたのだろうが、大変な労力だっただろう。

この南西から登る尾根には3つの帯曲輪がある。
そして本郭である。
本郭は40×25mの楕円形であり、北東側に土壇がある。
その北東下にも岩だらけの曲輪が連続する。

B帯曲輪は岩だらけ。 Cちゃんと石積もある。材料には不自由しない!

築城は鎌倉時代末期、信田小左衛門実正、小太郎実高親子が城主だったという。
元応2年(1320)に討死したという記録があるが何の合戦か?。

その後、応永年間(1394〜1428)に武田信満の三男江草兵庫助信康が城主だったが、 25歳で没し、今井氏が継ぐ。
今井信是、信元時代には甲斐守護武田信虎と争ったが、敗北、武田氏の家臣になる。
武田氏が滅亡し、本能寺の変が起きると、天正壬午の乱が勃発。
天正10年(1582)の徳川氏が甲斐に侵攻し、北条氏が佐久から甲斐に侵攻し、両者間で対陣が起こると、獅子吼城に北条勢が入り、 信州方面へ通じる道の押さえとしたが、服部半蔵率いる伊賀組や周辺の武田遺臣たちに攻められ落城したという。
おそらく廃城はその後であろう。

(甲信越の名城を歩く 山梨編、日本城郭大系 を参考にした。)
獅子吼城の北下の集落、根古屋にある根古屋神社には、境内に本殿と舞台を挟む形で両脇に大きなケヤキがある。
右手が「畑木」、左手が「田木」と呼ばれ、いずれも樹高 20 m、目通り幹囲 10 mを超える巨木である。

↑根古屋神社の大ケヤキ、左が「田木」、右が「畑木」。道路が信濃に通じる「小尾街道。」
この二本はセットで昭和33年に国の天然記念物に指定されている。
樹齢が800年と言われ老木である。
このため、枯死を防ぐための措置が施されている。
この木には芽吹きの早さによって、その年の作柄を占う習わしがあった(畑木が早いと畑作が、田木が早いと田が豊作となる)。
戦国時代でも樹齢300年近い巨木だったことになり、この前の街道を通過した武田氏や北条氏、徳川氏の軍勢を目撃したのだろう。

深草館(北杜市長坂町)
中央自動車道長坂ICの北西約1q、八ヶ岳の南山麓、油川、宮川、鳩川の扇状地にある。緩やかな扇状地であるが、標高は755mもある。
それもそのはず、ここから北東約8qが清里高原である。準高原である。
ここは古くから開発された地であり、北約400mに「金生遺跡」があり、北2qに谷戸城がある。
災害もなかったようであり、農業生産性が高い土地だったと言われる。
現在も扇状地は一面、水田である。

その扇状地の中に草深館があるが、どこにあるか分からない。
もしかしてあそこか?と行ってみたらビンゴだった。
でも、北側の水田の畦から見たら、堀越しに城内が丸見えだった。
もちろん現在のこの水田、耕地整理で平坦化されているようで昔は違う風景だったと思うが。
これじゃあ合戦は無理である。
諏訪方面からの街道を扼する館というが、そうには思えない。
農地統治用の館だろう。

@本郭内部、周囲を高さ約2mの土塁が覆う。 A二郭内部、中央部に土塁があり2つに分かれていたという。

館は南北約130m、東西約50mの規模であり、2つの曲輪からなる。
北側が本郭であり約30m四方で土塁が囲む。その南が低い土塁を介し、二郭であるが、元々は中央に土塁があり、2つの曲輪からなっていたようである。
館の西側から南側にかけてに西衣川が流れ水堀を兼ねている。
北側は深さ6mほどに掘り切られている。東側も沢がある。

B館の西側を流れる西依川は水堀を兼ねる。 C北側の水田から堀越しに城内が丸見えである。

逸見光長の居館とも伝えられたり、戦国末期は堀内下総守の居館であったが、子の主税の時に没落したとも言われる。
この没落とは武田氏滅亡時のことか、天正壬午の乱に巻き込まれてのことか分からない。
いずれにせよ北に位置する谷戸城の家臣の館とか、谷戸城に係る館であったと思われる。)