白山城(韮崎市神山町)
「白山城」って名前、なかなかいい響きである。
北陸の名山を連想する。この名前、中腹にある白山権現から採ったという。
別名は鍋山砦と言うが、鍋の形をした山にあるから鍋山、そこにあるから?
一方、「甲斐国志」では「要害城」と書かれる。
やっぱり戦国時代の城に名前はない証拠であるが、どこの城も要害城・・これは困る。
信玄が生まれた城も「要害山城」と言ったねえ。

中心部は国の史跡になっており、ほぼ完存である。
確かに戦国の城がそっくりそのまま残っており、登るのもそう大変ではない。
戦国の山城の展示である。

↑ 東の山麓から見た白山城(右の山)、左手の建物は韮崎大村美術館。

場所は県北西部、甲府盆地の北西端、韮崎市神山町鍋山にある。
城のある「城山」は南アルプス北東の巨摩山地・甘利山地の尾根末端が盛り上がったほぼ独立状山である。
標高は573m。もちろん、城が造られたので「城山」という名になったのであろうが。

ここは釜無川の南岸(右岸)で釜無川と塩川の合流地点に近く、釜無川北岸、直線距離で北約5kmに新府城が位置する。また、北約500mには武田八幡宮がある。


↑麓に位置する白山神社、社殿の裏に登り口がある。

甲府盆地の西の入口部を守る城であり、隣接する尾根に南烽火台(ムク台烽火台)、北に隣接する尾根に北烽火台があり、諏訪方面からの狼煙リレーの中継点でもあった。
余談であるが、ノーベル医学生理学賞を受賞した大村智氏はこの城の麓で生まれ、麓に大村美術館が建つ。
白山神社の神主さんが大村氏だったというがその一族か?

「甲斐国志」では、甲斐源氏の祖、源清光の子、武田信義が築城したとしているが、平安時代末期の話であり真相は不明である。伝説の域を出ないものかもしれない。
信義の子信光の子孫信時の系統は武川筋に根を下ろし、戦国時代は武川衆が登場する。

白山城はこの一族、青木氏が管理し、信玄の時代は後に青木氏から別れた山寺氏が管理したという。
武田氏時代、この城が戦いに係ったことはなかったようである。

武田氏の滅亡時、武田遺臣である青木、山寺氏は武田氏が崩壊してしまったため、戦うことなく織田氏に降伏したようである。
そして、本能寺の変が起こると甲斐を制圧した徳川氏に従う。
その後、旧武田領を巡る天正壬午の乱が勃発。
北条軍が佐久方面から甲斐に侵入。
徳川家康は新府城を本陣にし、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙する。

この時、徳川氏に従う青木氏、山寺氏が白山城を守備したとされる。
この時もこの城での戦いはなかったようであるが、大きく改修を受け、今残る姿はこの時のものと思われる。
廃城は関ヶ原合戦後であろう。

@本郭から見た南側の三郭、本郭側以外を土塁が覆う。 A本郭内部、土塁が覆う。

城は尾根を利用した直線連郭式とは異なる。
直線連郭式ではあるが、尾根を利用したのではなく、尾根の盛り上がりのフラットで広い部分に築城しているので、曲輪も広く平坦である。
主な曲輪は3つであり、南北約100m、東西約50mの広さである。
東西南の斜面には竪堀が何本か下っているが、埋没が進んでおり、さらに藪でよく確認できない。

中央部が約40m四方の広さの本郭A、四方を土塁が囲み、南東側に桝形虎口がある。
本郭の東側から北側をL型に帯曲輪Bが覆い、幅約8mの土橋がある堀を介し北側に二郭C、その北側をさらに堀で仕切る。

B本郭の東側から北側をL型に帯曲輪が囲む。 C帯曲輪から堀を介し土橋で二郭と連絡する。

一方、本郭の東下に武者溜まりのような感じの三郭@があり、土塁が東側から南側を覆う。
ここからつづら折りの道が麓に延び、白山神社に至る。
(甲信越の名城を歩く 山梨編、日本城郭大系 を参考にした。)

武田八幡宮
 白山城から北約400mにある武田氏が崇拝した神社である。

↑神社付近から見た富士山。太平洋側から見た富士山より男性的に見える。

この神社に関しては、滅亡まじかに迫った武田勝頼の奥さん、名前は分からないが北条氏康の娘、北条氏政の妹、北条夫人といわれている女性が夫の武運を祈って捧げた自筆の祈願文が有名である。

その全文は次の通りである。(原文はほとんど「かな」書き)
うやまって申す 祈願の事
南無帰命頂礼 八幡大菩薩 此国の本主として 武田の大郎と号せしより此かた 代々守り給ふ
ここに不慮の逆臣出来たって 国家を悩ます 
よつて勝頼 運を天道にまかせ 命を軽んして 敵陣に向かふ 
然りと雖ども 士卒利を得ざる間 その心まちまちたり なんぞ木曾義昌 そくばくの神慮をむなしくし 哀れ 身の父母を捨てゝ 奇兵を起こす
これ自ら母を害する也 就中勝頼累代重恩の輩 逆臣と心をひとつにして たちまちに覆さんとする 
万民の悩乱 佛法の妨げならずや そもそも勝頼 いかでか悪心なからんや 思ひの炎天に揚がり 瞋恚なを深からん 
我もここにして 相ともに悲しむ 涙又闌干たり 神慮天命まこと有らば 五逆十逆たる類 諸天 
かりそめにも加護有らし 此時に至って 信心 私なく 渇仰肝に銘ず 
悲しきかな 神慮まこと有らば 運命此ときに至るとも 願わくば 霊神力を合わせて 勝つ事を 勝頼一己に付けしめ給い 敵を四方に退けん 兵乱 還って 命を開き 寿命長遠 子孫繁昌の事
 右の大願 成就ならば 勝頼 我ともに 社壇 御垣 建て 回廊 建立の事 敬って申す

天正十年二月十九日          源勝頼  内

これを口語にすると
南無帰命頂礼八幡大菩薩。
甲斐国の本来の主として、武田の先祖が太郎と号してよりこのかた、代々お守り下さった八幡大菩薩さま。
ここに不慮の逆臣が出て国を悩ませています。
よって勝頼は運を天に任せ、命をかけて敵陣に向かいましたが、士卒たちの心は一つにまとまっていません…
そもそも勝頼に悪心などありませんが、思いの炎は天に上がり、深い怒りを覚えています。
私もここで勝頼とともに悲しんでいます。涙も枯れるほどです…
この世に本当に神様のご加護があるのなら、逆賊たちにご加護のあるはずがない。
今こそ信心に私心はないと肝に銘じています…
願わくば霊神が力をあわせて勝頼を勝たしめ、敵を四方に退けて下さい。
兵乱がかえって運命をひらき、寿命を長からしめ、子孫繁栄の機会となりますように…
この大願が成就するなら、勝頼と私でともに社殿を磨きたて、回廊を建立いたします…


まさに夫を思う愛が籠った悲壮な文であり、400年以上の時間を越え、今も心を打ち涙を誘う。

戦国時代には多くの女性が歴史の舞台に登場するが、どこまで真の姿が伝わっているのか疑問である。
かなり後世の捏造がありそうである。
しかし、彼女だけはこの祈願文1つでその真の姿を伝えている。
素晴らしい魅かれる女性である。
まさに彼女こそ悲劇のヒロインである。

彼女は14歳で嫁いだ。もちろん政略結婚である。
祈願文の日付、天正10年(1582)2月19日は織田信長の武田氏攻撃が始まっており、この時には伊那南部が織田軍に制圧され、武田軍の崩壊が目前の状況であった。
この祈願文は当時、新府城にいた彼女が釜無川対岸の武田八幡宮に出向いて納めたものだろう。
もう神にすがる以外どうにもならない状況に追い込まれていたのだ。
その時の心境がよく表れている。

さらに当時は実家、北条氏とも武田氏は敵対関係となっていた。
本来なら離縁して実家に帰る選択もあった。
おそらく勝頼もそれを勧めたのではないかと思われる。
しかし彼女は拒否し最期まで夫に従い自害して果てる。
19歳だったという。祈願文から20日後のことである。
果たして兄、北条氏政はどう思っただろうか?

この祈願文は掛軸に仕立てられ、県指定の有形文化財となっている。

この神社、弘仁13年(822)に宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請し、地名から武田八幡宮と称したのが草創とされる。

隋神門:天保12年(1841)再建。随神門は神域への入口として
入口の左右には武官の装束を着て剣と弓を持つ随身姿の
二神の神像を祀る。
本殿に向かって右が左大臣、左が矢大臣
神楽殿

『甲斐国志』は当宮の別当寺である法善寺(南アルプス市)の記録に基づき、同じく弘仁13年に空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源としている。
なお、同書では日本武尊の子である武田王が御殿を設けた事が武田の地名の由来であり、武田王が館の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源としているが、この辺は伝説の域を出ないであろう。

おそらく、武田氏が甲斐で勢力を伸ばし始めた平安末期、源氏の崇拝する八幡社、石和八幡宮(笛吹市)や窪八幡神社(山梨市)などを武田氏が勧請しているので、その時期の創建ではないだろうか?
または、それ以前から存在していた律令制下の神社を改変したのかもしれない。
武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行なったというが、この「再建」が従来あった荒廃していた律令の神社を改変したことを示している証ではないだろうか。

拝殿 左の石碑に北条夫人の祈願文が彫られている。 国重文の本殿、北条夫人もここで祈ったのだろう。

それ以降、甲斐守護の武田氏が崇拝し、戦国時代には武田晴信(信玄)が再建し、社蔵棟札によれば、天文10年12月23日(1542年1月19日)に晴信は大檀主として嫡子・武田義信とともに再建したという。
永禄3年(1560)に信玄が国中の諸社に対して甲府の府中八幡宮への参勤を命じた際、武田八幡宮は甲斐国一宮の浅間神社など10社とともに参勤を免除されている。
武田氏の滅亡後、甲斐を領した徳川家康が社領を安堵している。

また、天正年間に、平岩親吉に命じて当社の造営を行なったとされる。
柳沢吉保は甲府藩主の時代に修復を行なっている。

本殿は、天文10年(1541)武田信虎・信玄により再建されたもの。
特徴は、三つの扉があり大きな屋根が正面に流れている三間社流造檜皮葺という建築様式。
その後の修復には、江戸時代の甲府藩主の柳沢吉保が関わっていることが確認されている。
昭和4年本殿が旧国宝(現在は国の重要文化財)に指定されている。


←ニノ鳥居(両部鳥居) 「県指定文化財」:
武田信虎・信玄によって再建されたもの。
武田家滅亡後の天正12年(1584)徳川家康が新府城在陣の折に社領を従来通り維持管理することを認められ、修復。
額束の裏面には元禄14年(1701)再興、寛政元年(1789)再々興とあることから現存しているものは320年余の歳月が経っていると思われる。
高さ7m、笠木の長さ9.8m、中央部に「武田八幡宮」と書かれた額が掲げられているが、これは信玄が書いたものだと伝えらえる。

(Wikipedia、武田八幡宮や韮崎市のHP等を参考にした。)