天童城(天童市天童公園)
天童市街地の南東にある標高242m、比高120mの独立峰、舞鶴山(愛宕山)全体が城址。
山の大きさは直径800mほどあり、山全体に城郭遺構があるというので巨大な山城である。
おそらく山形県内最大規模かもしれない。

下の写真は西側から見た城址である。中央部の高い山が本郭。
右に延びる尾根が南郭。左に延びる尾根が中央郭。その先の尾根下が北郭である。

この山は天童公園になっている。車で行けるのでこれはラクチン・・・と思ったが、そうではなかった。
車で行けるのは標高180mの主郭部と中央郭@の間にある武者だまり跡の駐車場の場まで。
中央郭は公園のようになっており、見学は楽だが、改変されすぎている。
肝心の本郭はそこからさらに比高60mもある。

勿論、車では行けない。
ここまでは山道を歩くしかない。その道、あまり整備されておらず、藪が多い。
途中に曲輪が認められるが藪でとても入れない。本郭は広く、東側に櫓台跡の土壇Bが残る。
この山頂から4つの尾根が派生し、それぞれの尾根に曲輪群があるという。

西尾根には、八森楯、小松楯などの出城があり、重臣が守備したという。
大手は山の東方、搦手口は西山麓にあり、現在の市街地がそのまま根小屋の地であり、市が建つなど、活気があったという。 

昭和51年撮影の航空写真
@公園駐車場となっている中央郭 A駐車場から見た愛宕沼 B本郭の櫓台

伝承では、南北朝時代に北畠顯家の孫、北畠天童丸(伝説上の人物)が築いたと言われている。
その後、出羽按察使として山形に入った斯波兼頼の孫、里見頼直が天授元年(1375)がこの地に住み、ここに城を築き、天童氏を称したという。
戦国時代末期、出羽制覇を狙う最上義光は、まともにこの城を攻撃することは得策ではなく、謀略で奪うことを画策、久天童氏の内部分裂を図って、防戦態勢が取れない状況に追い込み天正12年(1584)に攻撃、時の当主天童頼久は、満足な防戦もできず伊達家の家臣国分氏のもとにのがれた。
その後、廃城となり、義光は本郭跡に愛宕神社を勧請した。

天童陣屋(天童市田鶴町)
あの天下統一目前で死んだ織田信長の子、信雄の子孫、天童織田家の陣屋である。
戦国末期大所領を持った織田家ではあったが、豊臣秀吉、徳川家康の下ではこの地でかろうじて20000石を有する小大名にすぎない存在になっていた。
でも、多くの戦国大名のように滅亡しないだけましかもしれないが。

この陣屋は、幕末の天保元年(1830)、織田家10代の織田信美の代に造営されたものであり、それ以前、織田氏は高畠(山形県東置賜郡高畠町)に住んでいたという。
幕府からここ天童への居館移転願いが認められ、造営したものであるが、この陣屋、規模だけは大きい。
南北450m、東西500mの規模を持つ。
輪郭式の陣屋であり、本丸に相当する場所が藩主の居館、その外側に政庁や重臣の屋敷があったらしい。
しかし、その遺構はほとんど失われている。
本丸に相当する部分中央には羽越本線が貫通し、山形新幹線が走る。

その東に氏神とした喜太郎稲荷神社がポツンと残され、その南が下の写真のように公園になっている。
その他は民家や畑になっており、大手門跡の標識などが建てられているだけである。

喜太郎稲荷神社の入口は天童御陣屋の門があったということであるが、当時この場所には北辰一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれ、天童織田藩の武士が武術に励んでいたという。
しかし、幕末の大飢饉で領内はガタガタ、天童藩も極貧に貧する。そこで下級武士の内職として始められたのが将棋の駒造りだったとか。
この陣屋で織田氏は四代を経て、明治維新に至るが、明治維新では、官軍に属し、家老吉田大八が奥羽鎮撫使先導代理を命じられ、官軍の先鋒を担うが、周囲から孤立、庄内藩に攻撃され陣屋を焼かれる。

おそらく天童藩の動員兵力は400程度、そのほとんどは武器を使ったこともない事務屋の武士などであり、実質的な戦闘ができたとは思えない。

この時、城下は半分ほど焼失。
やむなく奥越列藩同盟に加盟するが、責任を問われ大八切腹。
さらに今度は、官軍に攻撃され、降伏。
新政府により藩主織田信敏は弟の織田寿重丸に家督を譲って隠居させられ、所領が2000石を没収された。

(しかし寿重丸は幼少であったため、信敏は復帰して藩主(藩知事)となり、明治4年(1871年)廃藩置県により天童県となり、さらに同年8月、山形県に編入されるというお粗末ぶりであったという。


寒河江城(寒河江市丸内1)
寒河江市の中心部、寒河江小学校の地が本郭であり、その周囲を方形の曲輪が3重に取り囲んだ典型的な平城であり、方形輪郭式の城。
本郭は東西110m、南北162mで長方形で、周囲は幅14m程度の堀によって囲まれていたという。


左の図は小学校前の解説板から採ったものである。
三重の方形館であったことになるが、上の昭和51年国土地理院撮影の航空写真を見ると堀跡が道路となって残っているのが確認できる。


その外側に東西250m、南北330mの二郭が、その外周には幅15mの堀が、さらにその外周には東西400m、南北550mの三郭が存在し、その外側には幅16mの堀があったという。
南側に大手門があったという。

イメージとしては東根市の長瀞城と良く似た感じであったと思われる。
しかし、遺構はほとんどない。
かろうじて本郭の北東部に堀跡らしい場所が残るのみであり、後は完全に市街地に埋もれている。

この城は寒河江氏18代にわたる居城である。
寒河江氏は大江広元の子孫というので毛利氏などと同族、文治5年(1189)、大江広元は源頼朝の奥州藤原氏征伐でこの寒河江荘・長井荘の地頭職に任じられ、義父である多田仁綱を派遣。
その後、建久3年(1192)、広元は嫡男である親広に寒河江荘を、二男である時広に長井荘を任せた。
しかし親広は京都守護職であったため、寒河江荘は引き続き仁綱が支配する。
ところが親弘は承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇側に付き敗北、寒河江荘に逃れる。
しかし父親、広元の威光で罪は不問にされる。その親広はそのままここに留まり、寒河江氏を名乗り、嘉禄年間(1225〜27)に寒河江城を築く。多分、本郭部のみの方形館であったのであろう。その後の南北朝時代、寒河江氏は南朝方に属したため、北朝方最上氏に破れ、一時、最上氏に従う。

一方の親戚、長井氏は元中2年(至徳2・1385)、梁川城主の伊達宗遠により滅ぼされてしまう。
伊達氏のターゲットは次ぎに寒河江氏となるが、苦戦の末、菖蒲沼合戦において伊達宗義を討取る大逆転をする。
しかし、最上氏との抗争は止まず、何度か撃退するが、天正12年(1584)、最上義光の攻撃を受け、善戦するも破れ滅亡する。

最上義光は寒河江氏の傍流、寒河江肥前守に寒河江氏を継がせる。、元和8年(1622)、最上氏が改易になり、鳥居左京亮忠政が山形城主となると、寒河江城には豊田壱岐が城代として置かれ、城は縮小され、本郭部のみが残され代官所のような感じとなる。
しかし、圧政を行ったため一揆が勃発して鳥居氏は改易され、寒河江は天領となり、寒河江城も廃城となったという。

その寒河江城の三郭の辰巳門(東南方)を移築したのが、澄江寺山門という。
解説によると、この寺は寒河江知廣によって開かれた。
この山門は、三間一戸の薬医門で、建物に施された彫刻や絵模様は江戸時代前期後半の特徴を示し、禅宗寺院の格式を表しており、その前身は寒河江城三の丸の辰巳門(東南方)であったと澄江寺所蔵の地図にある。
平成17年9月寒河江市有形文化財に指定。

二郭南西隅に建つ城址碑
(上の縄張図の赤丸の位置)
本郭東の堀跡 三郭の辰巳門(東南方)を移築したという澄江寺山門

東根城(東根市本丸南)
東根駅から南東1.8kmの東根小学校付近が城址であったという。
少し小高い比高15mの岡に建つ小学校の地が本郭であり、小学校南側の東根児童館と愛宕神社の辺りが二郭、東側の養源寺付近が三郭、小学校周囲北側の光専寺沼・竜興寺沼・中沼の3つの沼が堀の役目をしていたというが、沼が何となく水堀っぽい感じではあるが、どこにも城址を示すものはなく、城と分かる人はほとんどいないであろう。
左下の写真は昭和51年撮影の航空写真である。


竜興寺沼ごしに見た本郭。
小学校の建物と大ケヤキが見える。

唯一、小学校の地に建つ、文部省指定の樹齢1000年と言われる天然記念物の大ケヤキの解説板に城に関する記載があるだけである。

小学校正門前に南から上る坂が大手坂であったという。本郭の北が小楯、西が西楯と言ったという。南と東には日塔川、白水川が天然の水堀であったという。

築城は三浦一族の小田島長義。時は南北朝時代の貞和3年(1347)または正平2年(1367)という。
三浦一族は元々相模が本拠であったが、頼朝の奥州征伐でこの地に領地を得、この地に来たらしい。
その本家は鎌倉北条氏に滅ぼされてしまう。この地に来た三浦氏はこの地の地名、小田島を名乗る。
東根市内の小田島、新庄市内の小田島という地名が元であるが、乱川以北から最上一帯にかけて小田島庄といわれていたのに起因するという。

このため、東根城も別名は小田島城ともいう。その後、応永年間(1394−1427)、天童城主天童(里見)頼直の四男坂本頼高が小田島城に入り、東根氏を興す。
その後、天正9年(1581)までの間は、頼在、頼厚、頼瞬、頼宗、頼息、頼景と続く。戦国末期、最上義光は天正12年(1584)に義弟、天童頼澄を天童城に攻めた。
その時の東根城主、東根頼景に子がいなかったので、天童頼澄の次男を養子に迎えていたため、最上氏の攻撃を受け滅亡。
東根氏の家老、里見景佐が城主となり、東根氏を継ぎ、最上義光と手を結んだという。

関ヶ原の戦いでは、東軍についた最上氏に対して上杉氏が攻撃、直江兼続の最上氏攻撃軍の支軍として、酒田城将志駄義秀の軍が侵攻、寒河江城、長瀞城を落し(放棄されていたらしい。)
その武将、新関新五右衛門が東根城を攻撃。
この攻撃で東根城の半田助左衛門と新五左衛門が一騎打ちし、東根温泉街道の近くの鷺の森地内で新五左衛門を討ち取ったという話が残る。
この合戦を鷺の森合戦といい、その時の戦利品であるホラ貝が保存されているという。
その後、最上家は改易され、この東根城も廃城となる。
城主の東根(里見)景佐は蜂須賀家に身柄を預けられる。

この東根城の本郭跡に、推定樹齢1500年、樹高28m、根本周囲24m、目通り幹囲12.6mという東根の大ケヤキが建っている。

左の写真がそのケヤキであるが、さすが堂々としたものである。
昭和32年国指定特別天然記念物に指定、平成14年日本一のケヤキとして認定され、日本三大ケヤキの1つという。当然、城のあったころには存在しており、城の盛衰の目撃者である。
ケヤキの前には太い注連縄が張られ、神聖視されている。



長瀞城(東根市長瀞)
東根市街の西側、東根駅の北西1q、長瀞地区にある。3重方形の平城である。
応永年間(1394〜1427)、山形城主最上満家の隠居城として築かれ、「雁(かりがね)城」と呼ばれていたともいうが、築城はもっと前に遡り、鎌倉時代、土豪の西根氏によるともいう。

江戸時代、最上氏改易後は天領となったため、幕府の代官所が置かれ、寛政10年(1798)武州久喜より米津通政が16000石で入り、長瀞藩の陣屋として使われ、明治維新に至ったという。
明治維新では、官軍側についた天童藩を庄内藩が攻撃、この時、長瀞藩も庄内藩側に付く。
慶応4年、庄内藩勢は天童陣屋を焼く。
しかし、天童藩の家老、吉田大八の報復攻撃で長瀞城は焼失。
その時、武器庫であった土蔵の開門を要求する大八と、留守をあずかる名主寒河江左内が、蔵の中味を「農民救済米」と称して渡り合い、ついに大八に開門をあきらめさせた話などが伝わる。

城址は集落となり、ほとんど民家になってしまっている。
本丸部分は120m四方ほどの方形であったが、堀跡が道路になって残るのみ。

その内部は完全なる宅地。
二の丸は200m四方ほどあり、下の写真に示す東と北の幅10mほど堀がきれいに残る。
堀に面した一部は果樹園等にもなっている。この堀では養殖もされているという。
さらにその外側に三の丸があり、水堀があったようであるが、この堀は失われている。

新庄城(山形県新庄市堀端町)
新庄市の中心「最上公園」が城址である。
本丸周辺が公園化されているが、二の丸などは市街化して遺構はほとんど失われている。
沼田城、鵜沼城の別名がある。典型的な方形輪郭式の平城であり、江戸時代に拡張整備された近世城郭である。
その前身は戦国時代、この地の国人領主、日野氏の鵜沼城という。
天正年間(1573〜92)には日野有祐が城主であったが、戦国末期、最上義光に従属させられ、最上領の北の防衛拠点(対小野寺氏)として重視、拡張整備され、「新城」と名を変え最上48館の1つにも数えられる。
元和8年(1622)に最上氏が改易されると日野氏も没落、代わって戸沢政盛が常陸松岡4万石から移って新庄6万石(のちに6万8200石)の領主となる。
(本当は生まれ故郷、山向こうの角館に帰りたかったのだろう。)
戸沢政盛は始め鮭延城に入るが、山城であったことと、城が領内の北方に位置していたため、幕府に許可を求め、新庄城を藩の本拠とし、さらに拡張整備する。
なお、縄張は同一時期に山形城に入封した義兄鳥居忠政(戸沢政盛の奥さんは鳥居忠政の妹という関係による。)によるものという。
入封後、戸沢氏はここで明治維新を迎える。その間、善政を敷いたと言われ、一揆も全く発生しなかったという。
しかし、明治維新の際、戊辰戦争に巻き込まれ、戦闘の舞台となってしまう。
慶応4年(1868)当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩が新政府側へ鞍替えしたのに同調し、奥羽越列同盟から離脱。
これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分と城下町が焼失してしまった。
藩主、戸沢正実は久保田藩へ亡命。
明治以降、本丸に新庄学校、郡会議事堂などが建てられ、現在は戸沢神社、天満神社、護国神社が祀られ、最上公園となっている。
二の丸跡は新庄小学校、新庄北高等学校、新庄南高等学校の敷地になったが、その後、小学校、新庄北高等学校は移転し、市民文化会館、ふるさと歴史センターが建っている。

本丸は東西52間(94m)、南北127間(230m)高さ4mほどの土塁が覆う。
当初は本丸に三層の天守閣(寛永13年(1636)に焼失後は再建されず)と3棟の隅櫓があった。
また、表門と裏門は枡形の櫓門となっていたという。東の表門を入ると石垣造りの枡形がある。
角には櫓台が残り、南東隅には武器櫓跡があり、穴がある。これは硝煙倉か。
南西隅櫓跡には天満神社が建つ。
この神社は戸沢家の氏神として、旧領角館時代から尊崇され、棟札に新庄築城の3年後の寛永5年(1628)に政盛が建立し、寛文8年(1668)に2代藩主正誠が再興したと記されているという。
(当初はこの場所ではないだろう。)
堀は西側以外が残り、幅は30mほどある。西側は埋められ、土塁も崩されている。
本丸にある戸沢神社は明治27年完成し、戸沢家の始祖衡盛と藩祖政盛、11代正実を祀っている。
なお11代正実が最後の藩主で、城と町を廃塵に帰してしまい、先祖の地、秋田に亡命する悲劇の殿様。
@本丸東の堀 A本丸に建つ戸沢神社 B本丸表門の石垣 C本丸東側の土塁

明治2年藩籍奉還し、新庄藩知事に任命され、明治4年新庄県となり、同年山形県に合併され、明治5年、命によって東京に移住する。
なお、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物としてここに保存されているそうであるが、現存する旗は靖国神社とここにしかないと言われている。
本丸の南側に出丸のように小さな二の丸(角馬出と言うべきであろう。)が並び、その外側を二の丸(ここを三の丸と言う場合もあり、混乱がある。)が囲み、さらにその外側に三の丸がある。
堀は水堀であり北を流れる差指野川から引かれた。