長谷堂城(山形市長谷堂)
山形盆地の南に非常に目立つ独立した比高80mの堂々とした山がある。
この山全体及び山麓一帯を城域にした城、長谷堂城である。
ここは山の麓を米沢方面に向かう街道が通る要衝の地である。
山を見ればこの山に城を築かない方が不思議である。
この城はいつ誰が築いたのかはっきりしない。
古代から城があったのではないかと思われる。

この城については北の関が原、上杉対最上の長谷堂城の戦いが断トツに有名であるが、戦国末期、山形盆地は最上氏が支配し、長谷堂城はその山形盆地の南を守る要衝であったため、それ以前から伊達対最上の何度かの戦いの舞台になっている。

天正以前には南の米沢には伊達氏がおり、最上氏の対伊達の城であった。
永正11年(1514)、伊達稙宗が最上領に侵入し、上山城と長谷堂城を攻撃する。
最上義定は迎撃するが大敗する。
この時に落城している。

この後、最上氏は実質上伊達氏に支配されるが、反伊達派の土豪が決起し、伊達稙宗が再度侵攻し、長谷堂城、上山城が落されている。

しかし、これらは1地方の戦いに過ぎず、長谷堂城が日本中にその名を残すのは、何といってもずっと時代が下った関が原の合戦の時である。
慶長5年(1600)この城を巡って北の関が原、長谷堂城の戦いが展開される。
戦いは西に向かった徳川軍を追撃しなかった上杉軍が背後を固めるため、最上領に侵攻したことが発端である。
上杉軍主力を率いる直江兼続は畑谷城を落し、長谷堂城に攻めかかる。
この時の長谷堂城城主は最上きっての武将、志村伊豆守光安。
最上義光は援軍を出し、伊達からの援軍も得るが、上杉の大軍の前に手が出せず、城周辺では激闘が展開される。
しかし、9月29日、東軍勝利の報が届くと、上杉軍は撤退を開始。
それを最上、伊達連合軍が追撃し、大激戦となる。

追撃戦は追跡する側が圧倒的に有利であるが、直江兼続の指揮と、前田慶次郎利益,水原藤兵衛親憲など勇将の活躍で、最上義光自身も兜に弾丸を受けるという激戦の末、追撃を断念。
上杉軍は撤退に成功する。

何故か敗戦ではあるが、この撤退戦の成功で直江兼続の名が有名になる。
北西側直江本陣から見た長谷堂城。左側の尾根先に八幡神社がある。

直江兼続の知名度は抜群である。特に戦略家、参謀、行政家としての評価は間違いなく高い。
しかし、武将として表に出る戦いはこの1戦程度である。
この1戦で彼の武将としての評価は難しいように思える。

翌、慶長6年(1601),志村伊豆守光安は長谷堂の戦いの戦功により加増を受け酒田東禅寺城へ移り、長谷堂城には坂紀伊守が入るが、元和8年(1622),最上騒動で最上氏が改易となり、長谷堂城も廃城となった。

城への登り口は何箇所かあるようであるが、2005年7月、搦手の観音坂口から登った。
坂を登って行くと長谷堂あるいは春日神社の赤い鳥居があり、ここを過ぎると段々となった曲輪が現われてくる。
長谷堂観音堂がある曲輪と本郭がある場所の間の鞍部までに6段ほどの曲輪Jが確認される。

山腹を堀が一周していたようであるが、何しろ7月であり草も酷くよく分からなかった。
その中で石垣らしいものKも確認される。
堀といっても恐らく小規模なものであり、兵員移動通路のようなものであったのであろう。
鞍部は長さ40m、幅20m位の広さであり、長谷観音堂の曲輪Hはその南側に1mほど高い場所にある。
長さ50m、幅30mほどあり、内部には長谷道観音堂や鐘楼がある。

鞍部を北に向かうと本郭である。本郭までの間に4段ほどの曲輪があり、郭曲輪間は3,4mの高度差がある。
上から3つ目の曲輪に春日神社があるが、かなり老朽化していた。
その下の曲輪には横堀がある。本郭Gは60m×50mほどの大きさであり、平坦である。
内部はよく整備され、東屋もある。ここからの山形市方面他の眺望は抜群であり、360°のパノラマが楽しめる。
完全に天然の物見台である。
東側にも3段ほどの腰曲輪Fがあり、北側にも2段ほどの腰曲輪Eがある。

@ 八幡口に復元された堀 A これが本来の堀の跡 B 八幡神社がある曲輪
C 八幡神社と主郭部間の曲輪 D 主郭部北端の土塁と堀。 E 本郭北下の帯曲輪から見た本郭部
F 本郭東下の曲輪 G きれいに整備された本郭 H 長谷堂観音の曲輪
本郭から見た山形城(林となっている部分) J 観音堂口途中の曲輪 K 観音堂口からの道の途中の石垣?

2010年7月、今度は八幡崎口から登った。
八幡崎口に駐車場が出来ていて、外周の堀@が復元されていた。これも「天地人」放映の威光だろう。
復元された堀、まあ、所詮は観光用の復元物、実際はこんなもんじゃなかっただろう。
その本物Aが、復元堀の北に畑になって残っていた。
やはり、実際は幅がもっとあったようである。
ここから、八幡神社のある曲輪を経て、主郭を目指す。
八幡神社のある曲輪Bはまさに先端部の物見のような曲輪である。
主郭側に行くと、だらだらした尾根部Cに出る。
この尾根の北西側に帯曲輪群があるというが、藪でしかも幅は2mほどしかない。
こんなものが防衛施設になるのかどうか。段々畑といった感じである。
尾根と主郭部の間に土塁があり、堀が残るDが、本来はこの尾根に面して堀と土塁が長い距離、構築されていたようであろ。
ここからが主郭部ということだろう。
主郭部はさすが観光地化されたので整備が5年前より進んでいた。

一方、本郭から北西を見ると、水田地帯を経て対岸の岡、菅沢に上杉軍本陣跡が見える。
山形城と長谷堂城の間の連絡を遮断するとともに、山形城からの後詰の軍を迎撃できる場所である。
さらに畑谷城方面への退路も確保した絶好の陣取りである。

上杉軍に包囲された志村伊豆守光安はこの城で何を思ったのだろうか?
尾根にある城は山伝いに結構、脱出口があるが、この城は完全に独立した山にあるため、脱出道がない。
落城は即、死を意味する。
堅城と言われていたが、段郭を重ねる古いタイプであるのは意外であった。
本郭から見た北西の上杉軍本陣 これが本陣であるが、草茫々。

山麓を土塁と堀が1周していたというが、今は宅地と水田の境がそれに相当することを伺わせるのみである。
山の勾配はきついが、それほどの城とも思えない。
上杉軍は兵力にものを言わせて全周から攻撃することで城兵を分散させ、1箇所を突破して城内に雪崩込めば落せると思うのであるが。
おそらく、直江兼続はこの城で手間どうことで、最上本軍をおびき出し、野戦で撃破して一気に山形城を落そうとしたのではないだろうか?

ホームに戻る。