上田城(長野県上田市)

 
今更、取り上げる必要もないくらい有名な城であるが、思い出のある城なので取り上げます。
 城を巡る攻防戦は戦国時代に数多く行われているが、上田城ほどの戦歴を残した城は稀である。
 城としてはそれほどの規模でもなく、壮大さもない。
この程度の城郭は全国にいくらでもある。
 それでも巷の名城といわれる城郭以上にこの城は、戦国史に異彩を放つ真田氏の名とともに「名城」という評価を受けている。

言うまでもなく、この城を有名にしたのは真田対徳川の2度にわたる攻防戦である。
 城攻めの場合、ほとんどは悲劇的な落城で幕を閉じ、その史実が城の名を歴史に刻むが、上田城の場合、2度とも徳川軍は城を抜けずに敗退するという攻める側が破れるという逆の結果となる。
 この2度の戦いとその続編となる「大阪冬の陣、夏の陣」の真田幸村の活躍が、真田氏及び上田城の名声を一層高めることとなる。

 真田氏が上田城を居城にしていたのは、関が原後にこの地を支配した真田信之の時代を含めてもわずか35年に過ぎない。
 その後、200年以上にわたり仙石氏、松平氏が城主となるが、両氏の存在感は上田の街にはない。
 街も真田氏、そして六文銭一色という一種、異様な空間である。それほど真田氏はこの地に強い印象を与え、上田の人々の誇りとなっている。
その真田氏もここ上田が出身地ではない。出身は北東の真田郷である。
戦国時代の上田は葛尾城を根拠とする村上氏の領土であり、武田氏と激突した上田原の古戦場は上田城の西に位置する。
その後、この地は村上氏を追った武田氏の支配することとなり、配下の真田氏の領土となった。
真田氏は当時、真田郷に本拠を据えていたが、その間、武田氏は滅亡し、真田氏は一時的に織田氏、その後、徳川、北条、上杉といった強豪大名の間を巧みに泳ぎ、独立大名化を模索する。

その中で山間の真田郷では上田や塩田地方等を支配するには不便であったため、天正11年(1583)上田に築城を開始した。
(築城前は「常田」という地名であったが、真田昌幸が「上田」に名を変更させたとのことである。上田の名付け親は真田昌幸!)
当時、真田氏は徳川氏の傘下に入っており、徳川氏も北方の上杉氏に対抗するためにも築城に援助を与えていたらしい。
 ところが沼田領を北条氏に渡すことを巡り真田氏と徳川氏は決裂。
天正13年(1585)第1次上田合戦が起こる。
 この攻防戦で真田昌幸は芸術的戦術を披露する。
いきり立つ徳川軍を城内に引きこみ反撃、混乱して撤退するところへ戸石城から横槍を入れ壊滅的打撃を与え撃退という経過を辿る。
徳川軍が矛先を替えて丸子城を襲った時も後詰に出て撃退。この1戦で真田氏の名声は天下に轟く。

その後、城は拡張され、慶長5年(1600)関が原の戦いを迎える。この時は徳川秀忠の大軍を迎え、関が原に遅参させる。
この時の戦い(第2次上田合戦)も前回とほとんど同じ経緯を辿ったと言われる。
同じ戦法は15年後、大阪冬の陣で真田幸村が「真田丸の戦い」で披露している。

しかし、関が原の戦いは西軍の敗北に終わり、城は破却され真田信之に与えられる。
 真田信之は徳川に遠慮して城を再興せず、城の東に館を建て居館していたという。
上田城が復興されるのは真田氏が松代に移封後、仙石氏による。仙石氏は真田時代の上田城の縄張りをそのまま再現したらしい。
すなわち埋められた堀を掘り、同じ位置に石垣と土塁を築いただけらしい。
しかし、松平氏時代も城を管理することはできず、本丸付近は鬱蒼とした森状態であったと言われる。
復元も財政難等の理由で不完全のままであり、この状態で今日に伝えられている。
真田氏時代の上田城は現在よりも壮大なものであり、3層の金箔瓦を載せた天守閣と多くの櫓が建っていたらしい。

城は平城に分類されるが、千曲川の支流尼ガ淵の崖を南にし、その北側の台地に築かれている崖城でもある。
郭の配置は崖を背にした梯郭式である。
 崖の高さは20m程度の絶壁でもあり、この方面からの攻撃は不可能である。
この立地条件は群馬の白井城に似る。
真田昌幸は一時、白井城の城代を勤めていたこともあり、白井城の縄張りの影響があったのかもしれない。
真田昌幸が奉行として築城した新府城も上田城と似た構造であり、これらの経験が反映されているようである。

尼ヶ淵からみた西櫓。一番下の石垣
は侵食防止用に江戸時代に築かれた。
城址案内図。平城であるが、崖城でも
ある。梯郭式であるのが良く分かる。
西櫓西の虎口。 本丸西側の堀。
本丸にある井戸。抜け穴が北の
太郎山方面に続いているという
伝説がある。
西櫓。江戸時代から現存する櫓は
これのみ。
北櫓と門。北櫓は昭和初期、門は平
成になってから再建された。
二の丸東の石垣
本丸北側の堀。 本丸北東端にある鬼門よけの切欠き 本丸北西端。 北門南の堀は尼ヶ淵に続く。
二の丸大手門東の堀跡。昔、上田
電鉄傍陽線の電車が走っていた。
二の丸北門の先に大堀があった。
現在、陸上競技場になっている。
二の丸西の堀。右は小泉曲輪跡。 二の丸西側、なんと畑がある。

上田城の南側以外の残り3方のうち、北と西は、幅50m以上の水堀を回している。
この水堀の跡は、現在、陸上競技場や野球場になっているが、その規模、形状は現在でも十分に伺い知ることができる。
 したがって東方面からしかこの城は攻撃できない。

これこそが真田昌幸がしかけた恐るべき罠であり、わざとこの方面の防備を弱くし、この方面から攻撃させて蟻地獄に誘い込むように、木戸や曲がりくねった道を配置している。
 そして2度の合戦で2度とも徳川軍は同じ罠にはまっている。

もっとも2度とも徳川軍は烏合の衆で、軍の統制が取れていない状態であり、そこに漬け込むのは真田昌幸が最も得意とするところである。
 一方の城側は武田信玄の愛弟子であり、信玄以上の作戦能力があったとも評価される真田昌幸である。
統制力も抜群のものがあったであろう。
この2度の攻防戦の結果は軍の規模だけではなく指揮者の能力差による結果とも言える。

現在の上田城は本丸と二の丸が整備された状態にある。本丸には3つの櫓があり、大手門が再現されている。
石垣は櫓がある南側が中心であり、他は土塁のままである。周囲の堀は水堀である。
二の丸は市民会館や博物館が建てられており、門付近は石垣構造となっている。
東側の掘跡はかつて上田電鉄傍陽線が走っていた。
三の丸は市街化しておりほとんどの遺構は失われている。
西側は小泉曲輪であるが、ここはかつての領主小泉氏(村上氏の被官?)の館の跡であり、真田氏時代も曲輪として使われていた。
ただし、捨郭として土塁もない場所であった。

上田城に始めて来たのは小学校1年生の時だった。
今ほど整備されていなく、古ぼけた2層の櫓3基が建っているだけで、大手門は、当然再建されていない。
櫓台から覗き込んだ尼ヶ渕の崖の深さと二の丸の堀跡を走る上田電鉄の電車が印象に残っている。
小学校4年の時の遠足もここだった。

 二の丸の東に市営プールがあるが、そこは中学3年の時、水泳の県大会に選手で来た時の会場。
そこでの入賞が中学時代最高の思い出だった。
ここもいくつかの思い出がある城である。あの頃に比べるときれいに整備されたものである。
当時は薄暗い印象があったが、今は明るい。上田市民のこの城に寄せる愛着を感じる。


(上田原古戦場)

上田城の西3kmが天文17年(1548)武田信玄と村上義清の戦いが行われた上田原である。
ここは上田盆地が狭まる岩鼻の手前である。
この戦いでは武田方の板垣信方が戦死する等、実質的には武田氏の敗北となった。
逆に村上義清はこの戦いと戸石崩れの2回にわたり武田信玄を破ったことで歴史に名を残している。
左の写真は板垣神社周辺から坂城方面を見たものであり、右の山が和合城址。左の山が岩鼻、その上が村上軍が本陣をおいた天白山である。左の写真は板垣信方戦死の地に建つ板垣神社である。