戸石城(長野県上田市)

信州の中世城郭では最高の戦歴を誇る城郭である。また、それに相応しい規模と要害性を持つ。
 これは実戦を経験したこともあるが、それに係わった戦国大名が「真田」、「徳川」、「武田」という戦国の超一流ブランドであることも要因の一つである。
(村上氏は若干、知名度は落ちるが、あの武田信玄を2度にわたって破った戦国大名であり、決して弱小大名ではない。)


 さらに武田信玄と徳川氏を破ったという輝かしい戦歴が光を放つ。
 戸石城の築城時期は不明であるが、城が戦国城郭として整備されたのは、天文10年(1541)年、村上義清が武田信虎、諏訪頼重とともに、この地方を支配していた滋野一族を上州に追い、小県郡を領土にした前後と考えられる。

 しかし、武田氏が信玄の時代となり、信濃侵攻が活発化すると村上氏と武田氏は敵対関係となる。
 佐久地方を制圧した武田氏は村上領に侵攻し、天文17年(1548)年、村上軍と上田原で激突する。
 この戦いで武田軍は板垣信方、甘利虎泰らが戦死し、実質的に敗北する。

 しかし、武田信玄は同年、塩尻峠の合戦で小笠原長時を破り、松本地方をほぼ制圧。
 その余勢で天文19年(1550)、再度、村上領に侵攻し、戸石城を囲む。

 この当時、村上義清は北信濃の高梨政頼と抗争中で動ける状態になかったが、武田軍は戸石城を全く落城させることはできなかった。
 名将信玄が指揮する歴戦の武田軍でも落とせなかった城ということで戸石城の要害性が実証される。

 そのうちに村上義清は高梨政頼と和睦。
信玄は撤退を決意したが、判断が遅れ村上軍が激しく追撃、殿軍の横田高松ら将兵一千余が戦死するという「戸石崩れ」という生涯最大の敗北を喫した。

 しかし、翌天文20年(1551)、武田方の真田幸隆の調略で戸石城が乗っ取られる。
これが村上氏敗北の最大の要素となる。
城はそのまま真田氏のものとなる。

時は移り、武田氏が滅亡すると、独立を目指す真田昌幸は上田城を築城し本拠を移すが、戸石城は支城となる。
 戸石城が次ぎにクローズアップされるのは天正13年(1585)の徳川対真田の第1次上田合戦である。

 この時、上田城から敗走する徳川軍に真田信幸が戸石城から出撃し、徳川軍に1300余を討取る大敗北を与えている。

関ヶ原の戦いでは、真田昌幸はわざと戸石城を東軍についた信幸に占拠させ軍功を挙げさせるとともに、徳川秀忠が上田城を攻撃させる呼び水に使い、術にはまった徳川軍はまたしても上田城を攻撃して大損害を受けた(第二次上田合戦)。

結局、秀忠は関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を演じた。

戦後、真田昌幸の旧領は戸石城も含め、信幸(信之に改名)に与えられたが、元和8年(1622)信之の松代転封に際して廃城となった。

戸石城は太郎山山系の峰の先端部にあり、「枡形城」、「本城」、「砥石城」、「米山城」の総称であり、本来は4城から1城砦を構成する信州の山城に特徴的な複合城郭である。
さらに東山麓の居館の地、内小屋と飯縄城も城域に含んで差支えないであろう。
(戸石城は4城の総称を指す場合と4城のうちの一つを指す場合があり混乱するが、ここでは暫定的に4城1城砦群の名称として「戸石」を用い、そのうちの1城を指す場合には「砥石」の名前を使用して区分する。)

 その総延長は1q以上あり、どこか一城が攻められても、他の城から敵の背後を襲うという、相互補完、戦国時代の用語で言えば「後詰」が起こせる構造になっている。
 このうち「本城」はさすがに規模が大きく、曲輪の大きさ、数等から居館や倉庫等があった場所である。

 この規模からするとかなりの兵を養うことができそうである。
他の3城は明らかに戦闘城郭であり、居住スペースはない。
 3城からの眺望は抜群であり、「枡型城」は真田の郷方面、「砥石城」は上田盆地方面、「米山城」は戸石城の西を監視、防御する役目があったと思われる。

 これらとは別に東の山麓に「内小屋」と呼ばれる居館跡がある。
 もともとは山上の城砦は麓の居館を防御することが目的であり、同じ形式は真田町の内小屋城、横尾城、塩田城、荒砥城にも見られる。
 ただし、戸石城ほど山上の城砦が実戦で機能した例はない。
城に登るには西の伊勢崎地区、内小屋地区、正面等数箇所からの道がある。

このうち正面から登ってみた。
このルートは武田軍が攻撃したルートである。
登る尾根は広くそれほどの勾配ではない。
尾根は明らかに曲輪の跡と思われる木戸跡のようなものがある。
地面は土ではなく粒度の粗い砂であり滑りやすい。

道は砥石城と米山城間の鞍部@(標高700m、麓は600mほど)に出るが、ここから両城までの道が急勾配でかつ滑りやすく非常にきつい。
大きな岩等も立ちはだかっている。

かつての武田軍の兵士も重装備でここまで登ってきたのであろうか。
しかし息も絶え絶えの状態で石でも上から落とされたら一環の終わりである。

石などいくらでも転がっている。
なんとか砥石城(標高788m)A、Bに辿りつくが、ここからの眺望はすばらしい。
砥石城自体は峰のピークにある櫓台の規模、25m四方程度の広さにすぎない。

南側の尾根より見る砥石城。撮影場所も郭跡か? @砥石城と米山城の間の尾根の鞍部
馬場と言われる地。
A左の鞍部から砥石城へ登る。
写真は砥石城直下。竪堀がある。
B砥石城の本郭部。
25m四方ほどの平坦地。
C砥石城北側の巨大な堀切。 D砥石城北側の馬場より砥石城を見る。
堀切は2重になっている。
E馬場より本城を見る。
郭が段々となっているのが分かり、郭も広い。
F本城の郭内。
G本城の石垣。
郭の崩れを防ぐための石垣のようである。
H本城の本郭部北側の堀切。 I枡形城を本城側から見上げる。
虎口が桝型状になっている。
J枡形城の本郭内。10×25m程度の平坦地。
戸石城群の最高部。
米山城から見た砥石城。 K馬場より見た米山城の本郭。石垣が見られる。 L米山城南側の曲輪
3段になっており平坦で結構広い。
M米山城本郭。かなり広く居住性が高い。
村上義清の碑が建つ。
東側の尾根より見た米山城 真田氏館より見た戸石城。
ピーク部が枡形城。その左側が本城。
左の端が砥石城。

直ぐ後ろは本城と隔てる堀切Cがある。
砥石城の主郭の北側は高さ6m位の切岸になっており、本城側からははしごで連絡していたものと思われる。

砥石城の北の本城までは尾根上であるため比較的傾斜は緩い。D、E
本城は標高760〜780m程度の範囲に数段の曲輪構造Fになっており、曲輪の面積も広く、内部は平坦である。

かなりの居住性のある郭であり、多数の兵士を篭城させることが出来ると思われる。
本郭Gに相当する郭には石垣が見られる。

枡形城I、Jは本城北の堀Hを越え尾根伝いに行くと到達する。
ここが戸石城砦群の最高高度であり標高は860mである。
 入口に枡形があるため名が付いたと言われる。
「砥石城」同様、櫓台程度の規模に過ぎず10×25mの広さしかない。


南の米山城K、L、Mは砥石城-本城-枡形城と続く尾根とはいったん切れ、一度、鞍部に下り再び登る半独立的な山上(標高734m)にあり、支城的な位置付けが感じられる。
本郭の周囲に数個の帯曲輪を持ち、砥石城、枡形城とは異なりある程度の居住性がある。
単独でも十分山城と言える規模、構造である。