太郎山(長野県上田市)
太郎山という名前の山は全国各地にある。その一つ、長野県上田市にある太郎山である。(正確に言えば、坂城町との市町村境にある。)
上田市と言っても広い。
菅平も市域であり、そこにある四阿山などは遥かに高い山であるが、あそこは旧真田町、やっぱり上田市のシンボルの山はこの太郎山だろう。
この太郎山、上田市の北を覆う屏風のような山である。やたら目立つ。まさに上田のシンボルである。
この山、市街地から見ると屏風のような山脈であるが、東から見ると尖がった独立峰のように見える。
上田を通る度に見ていた山であるが、西側の標高1077mの虚空蔵城から和合城のある尾根を2011年に「らんまる殿」の案内で縦走したことはあるが、肝心の最高峰である太郎山山頂には行っていなかった。

南の上田城から見た太郎山、右側のピークが山頂。左のピークは虚空蔵山城。 東から見た太郎山、左下が花古屋城。正面の尾根が表参道。
右の尾根が裏参道。

この太郎山一帯は城郭の密集地帯であり、尾根上や支尾根上は城だらけ。
都合19城がある要塞化した山塊である。
いずれも気合の入ったごつい山城であり、城好きには堪らない城ばかりである。
これらの城砦群は村上氏が戸石城と本拠の坂城を結んだものと言う。

城砦群が整備されたのは武田氏の侵略が本格化してきた頃だろう。
武田VS村上の戦いでこれらの城砦群がどのような働きをしたのかは明らかではない。
天文19年(1550)の戸石崩れと言われる武田氏の戸石城攻撃では坂城からこの山の北側を通って、軍勢や食料を戸石城に補給していたものと思われる。
天文17年(1548)の武田VS村上の上田原の戦いもこの山の眼下で展開されている。

さらに時は経ち、30年後、天正11年(1583)、天正壬午の乱で徳川に付いた真田昌幸が徳川の援助で上田城を築城
(上田城は徳川の援助で対上杉用に築かれた城なのである。しかし、実際には対徳川の城になってしまった。家康が怒るのはもっともである。
真田昌幸の詐欺に引っかかったのだ。家康も狸親父であるが、昌幸はさらに上である。しかも、2度にわたり上田城で徳川軍はボコボコにされてしまう。笑ってしまうが・・・。)
それを上杉軍が虚空蔵山城から牽制し、真田氏との間で小競り合いがあったことが史料に残る。

この場面はNHK大河ドラマ「真田丸」で虚空蔵山城の八百長合戦として描かれる。
もっともあのドラマでは馬に乗って城を攻めているが、現実の城は馬じゃ絶対に行けない。
この山塊にある城砦群であるが、不思議なことに最高箇所付近には存在しない。
なぜか外しているのである。山頂部なら上田城を始め、千曲川上流方面、戸石城方面、それから西の尾根にある虚空蔵山城も全て見ることができるのだが。
神聖な山の場合、敬意を表し山頂部を外して築城する例もあるようであるが・・。

しかし「らんまる殿」から、「太郎神社付近が城っぽい」という話を聞いた。
2019年11月24日、近くを通ったついでにちょっと時間があったのでこの山の南東の支尾根末端部にある花古屋城に行ってみた。
登山口(太郎山の表参道)から比高100m程度とお手軽なものだったので・・。
城は尾根を利用したもので石積もあり、メリハリが効いたもので十分満足できるものであった。
城を見終わった後、表参道に戻る。「さて下りるか」。
ここで「らんまる殿」の言葉が脳裏に蘇る。悪魔のささやきである。

さらにもう一人の自分が囁く「おや、ここまで来て登らないの?次のチャンスはいつかなあ?絶好のチャンスなのにねえ・・・」と。

おそらくスカートを履いた女性を前にしたあのミラーマン教授の脳裏でも悪魔が囁いたのだろう。
結局、誘惑に負ける。「見たい!」衝動が走る。
スカートの中ではないだけ、俺の方がまともであるが、衝動のメカニズムは同じである。

どこぞのHPか何かに「最近、登山道が整備され山頂まで約40分で行ける。」という記述があったような記憶がある。
(これはどうやら標高592mの表参道の登山口からではなく、さらに北西にある標高778mの裏参道登山口からの時間だったようである。比高が200m弱稼げれば、その通りである。)
既に比高、100mほど登っているので後30分登れば山頂・・・・と、計算する。
天気もいいし・・・。そんじゃ、ここから1時間あれば往復できる・・・・そういう安易な発想をする。

それが地獄を見ることに。
やはり思いつきで行動してはいけない。ちゃんと調べてから行動すべきである。
でも、それができたら苦労しない。いつも行き当たりばったり、出たとこ勝負、いつもの定常パターン、それが俺の今までの人生そのもの。今回もその定常パターンとなった。

で・・・・・?、登っても登っても辿り着かない。
参道脇に「七丁石」とか「八丁石」とか書かれた石の祠がある。それを見れば「十丁石」が山頂だろうと思う。
「そんじゃすぐじゃん、20分もあれば・・。」と安易な計算をする。いや、勝手な思い込み、期待か?
しかし「十丁石」の先はまだ登りである。
次に「十一丁石」があった。「何だこれは!」続いて「十二」・・・。数字は次々に増えて行く、一向に到着する気配はない。
ちなみに「丁」は「町」と同じで長さの単位、距離を表しているそうである。1町=約110mとのこと。「合目」と完全に混同していた。

この日は平日であったが多くの登山者と行きかう。20人ほどに会っただろうか。
いかにこの山がポピュラーなのか分かる。登山道は岩が多いがよく整備されている。
登山道を進み30分、状況に変化なし。山頂到着の兆しなし。

途中、岩場に開いた大きなクレータがあった。↓
後でこれが上田城の石垣用の石切場と知る。

しかし、切り出した石、ここからどうやって麓まで下すのか?

その先は鳥居があり平坦地がある。
この付近は尾根が比較的広い。でも城郭といった感じではない。
でもこの広さなら野営は十分可能だろう。
さらに登りは続く。
とうに時間は40分経過。

そしてようやく太郎山神社に到着、
ここの標高は1151m、登山口からは比高559mである。
ごつい山城、3つ分に相当する。
いや、道が整備されているのでそれを割り引けば、2つ分か?
それでも凄いエネルギー消費量である。

ここは「二十三丁」、メートル法なら約2.5qだそうである。
この太郎山神社、養蚕の神なのだそうだ。
ちゃんとした社殿が建つがこの資材はどうしたのだろうか?
木材はこの山で調達はできるかもしれないが。

本題、ここが城か?
本殿付近、東側の鳥居付近、南側の休憩所付近、西側の平場、人工的に削平されたものである。
曲輪にもなりえる。
確かに城っぽい感じがしないでもない。
しかし、堀などの痕跡は確認できない。
太郎山神社の創建は分からないが、山頂は縄文時代から信仰の場であったことが多い。
おそらくルーツは大古まで遡ると思う。
そこに城を造り、廃城後、城跡に社殿を建てたのかもしれない。

城であるかはさておき、これだけのスペースがあれば兵を駐屯させたりすることは可能である。
戦国時代は戸石城〜坂城間の交通(おそらく裏参道入口北側の鞍部から東太郎山を経由するルートでは?)の安全を確保する場や物見台として使ったことも想定できよう。
@表参道を登りきると鳥居のある平坦地に出る。 A神社本殿 B神社西側の平坦地、山頂がこの先。

ここが山頂かと思いきや、「違う。」
ここの標高は1151m、標高1139mの鞍部を介して300m西のピークが山頂である。
緩やかな尾根を西に行った標高1164.5mの場所が山頂なのである。

そこは直径30mほどか、広くて平坦。
ここには派手が恰好をしたおばちゃんが1人、休んでいただけ。

ここからの眺望は最高。
南の眼下に上田市街、上田原の古戦場が見える。


武田VS村上の戦いが展開された上田原の古戦場。
数少ない信玄の敗戦がこの合戦。
その時もここから戦闘を見ていた人がいたのだろうか?
上田城がばっちり。
9月の台風19号の濁流で崩れた上田電鉄の鉄橋やブルーシートで覆われた堤防が見える。
千曲川の河川敷は廃墟状態である。

目を西に向ければ、虚空蔵山城が見える。
さらにその先に雪化粧した北アルプスの鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳、針の木岳が見え、南東に目を向けると霧ヶ峰、八ヶ岳が見える。


西側、さらに遠くには北アルプスが一望される。中央右の山は鹿島槍ヶ岳。
西に目を向けると虚空蔵山城が見える。ここも高い山にある天空の城である。

天気が良く、湿度が低い冬場なら富士山も見えるそうである。
この山頂部、平坦であるが、これも人工のものであろう。
やはりこの場所も戦国時代、物見台、狼煙台であった可能性がありえる。

下山する時、アラ城、牛臥城のある支尾根を降りようとした。
さすがこの山道、表参道とは異なりマイナーなので踏み跡が不鮮明で道が分かりにくい。
途中に分岐があり、迷った末、右に行くべき所を左に行ってしまった。
すると表参道に戻ってしまった。
もう戻る気力はない。残念だが、アラ城、牛臥城は諦める。

表参道を下って行くと、下から走って登ってくるアンチャンに出くわした。
歩いてもヘトヘトになるのに走って登るとは「狂っている!」。

そしたら今度は山頂で会った派手なおばちゃんにあっという間に追い抜かれた。
おばちゃんの足の速いこと。なんじゃあのおばちゃん、猿か?妖怪か?
そしてようやく登山口に帰還。
すでに膝にきてしまい。足はがくがく。俺も衰えたものだ。
所要、山頂部で休んだ時間を含め、往復2時間。これでも短時間の方らしいけど。
(「らんまる攻城戦記」を参考にした。)

花古屋城(上田市上田)
上田市市街地の北を屏風のように覆う山塊、太郎山山系にある。
太郎山には多くの城砦が存在するがその東端に位置する。
この山系の多くの城郭同様、武田氏の侵攻に備えて村上氏が整備したものと推定される。
背後を太郎神社の表参道が通過するので太郎山の表参道を抑える城であるとともにさらに北奥の裏参道の登口を抑える役目があったものと思われる。

↑ 東下、山口集落から見た城址(右の鉄塔が最上部)後ろには太郎山が聳える。

それを考えると、やはり太郎山山頂部が戦略的意義を持っていたことが推察される。
もし、山頂部が敵に占拠されたら、尾根末端にある本城を始め、隣の支尾根にあるアラ城等の城の機能は一気に低下する。
それを防ぐ目的が本城にもある。

もっとも、本城が健在な状態で山頂部を占拠しても、麓からの牽制がなければ孤立を招き、自滅に追い込まれるのは必至であり、意味がないのであるが。

さてその花古屋城であるが、表参道登山口から比高100mほど登ればいいので行くのは比較的楽である。
参道沿いに高圧鉄塔が立っているが、そこが城域北端にあたる。
すでに参道脇、鉄塔との間に堀@が確認できる。
ここの標高が704m、南下の集落の標高が551mであるので比高は150m。

ここから尾根沿い標高630m付近まで比高70m、長さ350mにかけて遺構が展開する。
鉄塔から南に歩いていくと巨大な堀切Aが現れ、竪堀Bが豪快に下る。
その南側に高さ7mの切岸が聳える。
ここからが主郭部である。(36.4221、138.261)

その切岸には石があり、かなり崩れているが石積であったことが分かる。
切岸を登った曲輪が本郭Cであるが、北側を土塁が覆い、大きな穴がある。
井戸だろうか?それとも古墳か?
この曲輪周囲は石積Eであり、しっかり作られている。

その南に高さ7、8mの切岸を持つ曲輪Dが3つ、続き、さらに高さ4mの切岸を持つ曲輪が3つ続く。
切岸の一部は石積で補強される。
これらの曲輪群、切岸をまともに登るのが非常にきつい。
それほどの勾配である。
この曲輪群の南に堀切Fがある。
深さ4mほど。ここまでが主郭部である。

ここから南に曲輪Fが続くが一気に尾根の勾配が緩くなり、切岸は高さ1m程度に過ぎない。
あるいは緩斜面となる。
主郭部に比べて著しく防御力が劣るため、尾根筋に堀切Hを3本入れ補完している。

城の末端がどこか分からないが、麓の民家付近まで曲輪が続いているようにも思える。
南側の緩傾斜の尾根に展開する曲輪群は軍勢の駐屯エリアではないかと思う。
@既に太郎山表参道の脇から堀切が見える。 A大堀切越しに本郭の切岸が聳え立つ。 B本郭北下の堀切から竪堀が豪快に下る。
C本郭内部、北に土壇があり、大きな穴が開く。 D本郭の南には腰曲輪が何枚か展開する。 E主郭部の切岸は石積で補強される。
F主郭部南端は堀切で仕切られるが埋没が激しい。 G城の南側は緩い斜面となる。 H城南端部の堀切、この付近が城の外れの部分。

武田氏との戦いでこの城がどんな役割を果たしたのか分からないが、武田氏が西側の室賀ルートで坂城に侵攻していることから、東側ルートの太郎山城砦群は武田氏の侵攻を阻止するため一役を買っていたものと推定される。
その後、この城がどのように使われたか分からない。
第一次上田合戦、第二次上田合戦では住民の避難城として使われていた可能性がある。
例え農民であってもこのような山城なら安全性は高いし、場合によっては真田軍に扮し、徳川軍の動きを牽制することも可能であろう。
(宮坂武男「信州の山城と館」、「らんまる攻城戦記」を参考にした。)