2011年11月26日らんまる殿の案内で行った城砦群です。
とんでもない比高の岩山の上に連続して城があります。
いかにも信州の山城って感じの城、戦国時代の緊迫感を今に伝えています。

太郎山城砦群(長野県上田市/坂城町)

長野県上田市の北に東西に太郎山山系が横たわる。比高は最高箇所で750mほどもあり、上田地方にとっては天然の風よけ、雪よけとなっている。
このため、上田地方は冬の冷え込みは強いが、雪はほとんど降らず、北風もそれほど強くはなく暮らしやすいといわれている。

この太郎山山系は南側の上田側の勾配は急であるが、北側は五里ヶ峰方面に山が続き、比高はそれほどでもない。

その太郎山山系にはなんと19もの城砦が築かれる。
主峰の太郎山には不思議なことに神社はあるが、城はない。
信仰の山であり神聖な場所として城が築かれなかったのではないかと思われる。
城は太郎山の西、虚空蔵山を中心とした部分と東の戸石城を東端とした部分に東西に分かれる。

西の部分は太郎山城砦群というより虚空蔵山城砦群と言った方が妥当かもしれない。
山の尾根に連続的に城砦が築かれるので連珠式城砦群とも言う。


主城は最高箇所の虚空蔵山城とも言われ、周囲の城はその出城とも考えられるが、もっとも整備され城らしいのが西端の和合城であり、こちらが主城と考えることもできる。
山の直下を長野新幹線のトンネルが通り、山の北側は上信越自動車道太郎山トンネルが貫通し、トンネルを抜けた西側に坂城インターチェンジがある。

その北には村上氏の主城、葛尾城がある。
この太郎山城砦群は戦国大名、村上氏が築いたものという。
現在、坂城と上田の間の岩鼻の狭隘部を国道18号、しなの鉄道(旧信越本線)が通り、千曲川が流れる。
しかし、戦国時代当時、ここは千曲川が蛇行して通り、水量も多かったらしく交通はできなかったようである。
そのため、村上氏の本拠である坂城から上田に行くには西側の室賀峠を越えるか、この太郎山山系を越えるしかなかったようである。
田原に向かった村上軍の進軍ルートは室賀峠経由であったという。

この太郎山山系を越える古道が鳥小屋城と虚空蔵山城の間のソデと言われる鞍部を通っていたという。
その点では鳥小屋城は街道を抑える城である。
岩鼻の狭隘部が通れないとなると、この太郎山山系は村上氏の本土である坂城防衛のラインであり、城を築くのは当然である。
こんな険しい山に城を築いたら軍事力での突破は無理である。


左の写真は北下を走る上信越自動車道から見た城址である。
一番高い山が虚空蔵山城、その右手の谷が古道が通っていたソデという鞍部。
その右手の山が鳥小屋城、そして右端部分が高津屋城である。


結局、武田信玄は西の防衛ラインの要である室賀氏に手を回すことで、西の防衛ラインの機能を喪失させ、坂城を制圧、村上氏を越後に追うことになる。
この時、東のこの太郎山城砦群は無力になったはずである。
しかし、それにしてはこの太郎山城砦群、範囲が広い。城砦部でけではなく、山上には菖蒲平(語源は勝負平だろう)などの平坦地もある。
村上軍の軍勢には、この規模のものではない。もっと小さい。
おそらく、かなりの部分は非常時の住民の避難スペースとして整備されたのであろう。
非常時には住民が大半であり、城遺構がある部分にポツリポツリと兵がいた程度かもしれない。
(もっとも兵農分離がされていないので、明確な区別はなかったかもしれないが。)
上田原の合戦時もここから多くの住民が眼下に展開される激戦を見たのかもしれない。
なお、村上氏が武田氏に追われた後、この城砦群をどう使ったか明確ではないが、武田氏は少なくとも和合城は整備したのではないかと思われる。
そして、記録に残る最後は、上杉景勝が真田昌幸(当時は何と徳川方)による上田城築城を虚空蔵山城に兵を入れて牽制したことが伝えられる。
牽制する点では絶好の位置である。それにこんな所、直接、攻撃することは不可能に近い。

また、第一次上田合戦で上杉氏が真田氏を支援し、兵を送り、その兵が塩尻まで来たとされている。
この塩尻とは和合城の南側一帯の地名である。
上杉軍はおそらく和合城から虚空蔵山城にかけての一帯に布陣し、徳川軍に圧力をかけたのではないだろうか。
さらに第二次上田合戦では住民がここに避難したものと推定される。


右の写真は北の荒砥城から見た太郎山城塞群(中央の山列)である。
右の三角形の山が岩井堂山城、左端の山が村上氏の本拠葛尾城。
流れる川は千曲川、町は戸倉上山田温泉、山の切れ目が岩鼻の切通し。
この狭い間を千曲川が流れ、戦国時代は通行ができなかったという。

和合城(上田市下塩尻/坂城町南条)

太郎山城砦群の西端の尾根末端、岩鼻の絶壁の上にある山城。
非常に目立ち知名度は抜群。
この城が太郎山城砦群の代表城郭といってもいいだろう。
遺構も素晴らしい。
東の菖蒲平から見るとまるでマチュピチュである。

ここを虚空蔵山城という説もあり、上杉軍が拠ったのはこの城だったともいわれる。
上田と坂城の双方を見渡せる位置にあり、戦略的にもここが重要と思える。
比高は240m、標高は654.7m。塩尻城とよび、小泉五郎左衛門が居城したという。

右の写真は南の上田原の古戦場から見た和合城である。
鉄塔がある部分が主郭部、その右側に曲輪が展開すr。
山の斜面は写真のように岩肌むき出しの絶壁、凄い比高であることが分かるだろう。

城は、尾根の突端に本郭を置き、ここから尾根沿い東側に二郭、三郭、四郭と展開し
東端に幅20m、深さ8mほどの堀切を置く直線連郭式の城である。
堀切@を越えると土塁があり、四郭Aであるが、この付近は石積が見られる。

四郭は長さ30m程度、2段になっており井戸がある。
三郭側に堀切があったというが失われている。
高さ3mほどの塁壁を越えると三郭B、20m四方ほどあり、解説板がある。

さらに5mの高さを経て二郭、ここも20m四方ほど周囲を土塁が囲む。
本郭の塁壁は石垣Cになっている。本郭は20m四方ほど高さ1mの土塁が囲むD。
西側が広くここに櫓があったかもしれない。
南の鉄塔のある場所は腰曲輪だろう。

本郭の北、西側は絶壁であり、眼下に千曲川が流れる。
城の完成度は高く、長期にわたり整備され使われていたと思われる。
なお、ふもとの地名を鼠(ねずみ)という。

これは「寝不見」が転化したものといい、物見台としての和合城の性格が分かる。
ふもとに城番の住居があったのであろう。

西側から見た和合城 東の菖蒲平から見た本郭と二郭、三郭
@東の大堀切、城側は石垣で補強されている。 A四郭内部は東に傾斜している。井戸がある。 B三郭と二郭の切岸
C本郭周囲は石垣である。
D本郭は周囲を石塁で囲まれる。 本郭から見た千曲川下流方面。ここが絶好の物見だということが理解される。

持越城(上田市上塩尻)

上田駅を発進した長野新幹線下り線が太郎山山系のトンネルに入る。
そのトンネルの上に座摩神社がある。
養蚕の神様であり、かつてはこの付近一帯も桑畑であり、栄えていたようであるが、今は昔。静かにたたずんでいるだけである。
この神社裏の尾根を登って行くと鉄塔がある。
その鉄塔から上の尾根筋が持越城である。
虚空蔵山城砦群の一番低い場所にある城であるが、それでも標高690m、比高260mだからたいしたものである。
城は比高50mほど、長さ250mにわたり、尾根筋を幅10m程度に平坦化しただけの簡素なものである。
尾根に石組みの石塁があるのが確認できる。
途中にある岩を越えると尾根幅が15mほどに広がり、石塁がはっきりする@。
東側に石垣で囲まれた平坦地Aがある。
ここが居住エリアなのであろう。尾根は風避けなのであろう。
その東の斜面にも石垣があるが、こちらは桑畑の跡という。
しかし、こんな高い場所まで桑畑にしていたとは・・。
普通、尾根の上部には堀切があるのが定番であるが、この城はない。
普通の尾根地形である。山上からの攻撃は想定していない。
この城は虚空蔵山城の南の大手曲輪のようなものなのであろう。

上の写真は虚空蔵山城から見下ろした持越城である。右下の鉄塔が南端。尾根に沿って構築される。
眼下の道路は国道18号線。

@主郭の石塁。 A主郭東下の石塁で囲まれた曲輪。

兎峰(上田市上塩尻)

持越城からさらに登ると途中に小さな平坦地がある。
多分、木戸があった場所かもしれない。
高度で240mほど登った場所が「兎峰」という岩山である。
この岩山、下の写真のように山ろくからもくっきり確認できる。
尾根からそそり立つ岩山であり、北側の細尾根経由で岩の上に立つことができる。
ここには城郭遺構はない、というよりそんなもの不用である。周囲は絶壁である。
ここは物見台であろう。多分「兎」は「塞ぎ」から来た名前であろう。

虚空蔵山城から見た兎峰 兎峰からの風景、眼下は上田原の古戦場

虚空蔵山城(上田市上塩尻/坂城町南条)

太郎山・虚空蔵山山城群の中では一番標高が高い標高1076.9m、比高650mの山である。
永禄6年、武田信玄が多田昌澄にこの城を守らせたとか、天正11年、真田昌幸の上田城の築城を上杉景勝が島津左京亮を虚空蔵山城に入れて、築城工事を牽制したという。

兎峰の裏をさらに高度150mほど登ると鞍部に出る。
そこの西が虚空蔵山である。山には岩にロープをたらした岩だらけの急坂を登る。
小曲輪を経ると山頂@である。

ここが本郭かどうかは分からないが絶好の物見の場所であることは間違いない。
その西に小さなな堀切があり、幅9mほど、深さ7mほどの巨大堀切Aが現れる。

さらにその北に続く岩だらけの尾根にも岩盤を掘りきった堀切がある。
堀切の西側が本郭部となり、岩があり虚空蔵菩薩を祀った石の社がある。B
この部分は平坦地ではあるが非常に狭い。

北下、南下に帯曲輪が確認される。
西側に幅15m、本郭側からの深さ10mほどの巨大堀切Cがある。
その西側は一気の下りとなる。

西下には鳥小屋城が望まれる。
その後、一気に高度で150mを下ると古道が通っていた「ソデ」といわれる鞍部に出る。
この下りもロープ頼りの凄まじいルートである。
西下のソデから見上げた虚空蔵山城
山頂から見た葛尾城と坂城の町

@虚空蔵山の山頂。
2011.11.26 10:00 気温マイナス2℃
木には樹氷が付いていた。




A 山頂部西下の巨大堀切。
岩盤をくり抜いたもの。
こんな山の上まで攻めて来る敵などいないと思うのだが。



B虚空蔵菩薩が祀られている本郭 C 西端の巨大堀切

鳥小屋城(上田市下塩尻/坂城町南条)
ソデから30mほど登ると鳥小屋城である。
途中に小さい曲輪が存在し、土塁を持つ曲輪@が現れる。標高は958m。
この城は東西2つの平坦地があり、いずれも長軸30m、短軸20m程度の広さの卵型をしている。
周囲に土塁があり、石で補強されている。東側の曲輪は古道に面しており、古道に沿った北側の尾根に曲輪が2段存在する。
あきらかに古道を監視する城である。
東西2つの曲輪間は北側に土塁を持つ渡り廊下のような長さ50mほどの曲輪Aがある。
中央部がやや窪んでいる。これは風避けの土塁のようである。
西側の曲輪の西下に不明瞭な二重堀切があり、その先の尾根が高津屋城に続く。
城としては東西150mほどか。
なお高津屋城までの緩やかに下る尾根筋400mにわたり尾根が加工されており、北側が土塁状になり、南側に犬走りのような通路が続いている。
城間の連絡路であろう。


虚空蔵山城から見下ろた鳥小屋城。
高津屋城から見た城址 @ 東の曲輪、周囲を土塁が巡る。 A 東西の曲輪を結ぶ曲輪。

高津屋城(上田市下塩尻/坂城町南条)
鳥小屋城からの緩斜面を下って行くと再度、登りとなる。
岩をくりぬいた堀切@が3本ほどあり、高度を上げ標高924mの山頂にいたる。
ここが高津屋城の主郭部Aである。
といっても細い尾根を平坦化しただけの場所が30m続き、1段下がって20mほど続き、さらに小曲輪3段を経て高度差30mほどの下りの急坂となる。
西端に「陣場鳥越山」という岩山Bが立つ。ここは物見台であろう。
鳥小屋城と和合城、煙の城などを結ぶ中継所程度の小さな城である。
岩山を過ぎると高度で一気に170mほど急坂を下る。下った場所が菖蒲平という平坦地となる。


鳥小屋城から見た城址
@東側の岩盤堀切 A 山頂の本郭は細尾根を平坦化しただけ B 西端の岩山は物見台だろう。

煙の城(上田市下塩尻)
菖蒲平の東に鉄塔があり、まっすぐ南に下ると物見城、東にトラバーユすると煙の城である。
ちょうど高津屋城から水平距離で350m南であり、1つ東の鉄塔の位置が城である。
といっても水平距離は150m、凄いものである。谷筋をカモシカが跳んで歩いていた。
ここへは菖蒲平からの鉄塔保安用の道を進めばよい。・・とは言うがその道、なかなか難儀物。
落ち葉と倒木で歩くのが大変。鉄塔に近ずくと、いきなり岩盤を掘りきった豪快な堀切が現れる。
周囲は岩山、天幅15mほど。さらに天幅15m、深さ15mの堀切、天幅10mほどの堀切2本が現れる。
堀は竪堀となって谷を豪快に下る。鉄塔の北が本郭であるが、2段になっている。
南側には石垣が残る。鉄塔付近は斜面でどうなっていたのかわからない。その下6mに曲輪があり、南端の堀切がある。
天幅15m、深さ8mの巨大なものである。長さとしては130m程度のものであり、名前の通り狼煙を上げるための施設であろうが、それにしても北側の4重の堀切が凄い。
北側からの攻撃への異常な警戒を感じるが、北は高津屋城、味方の城であるはずであるが?これはどういうことか。


菖蒲平から見た城址
@北端の堀、岩盤を掘りきったもの。 A北側の堀切群 B 3つ目の堀切
C 主郭の石垣 D 主郭南下の帯曲輪 E 南端の堀切